1
最低な出来事に前触れなどない。
彼がそう痛感したのは、まさしくあの日、あの瞬間からだった。
その日、葵は駅前のショッピングモールの中にあるイタリアンレストランに居た。フードコートよりもすこし高級な、最上階にあるレストランだった。
葵の塾と母親の仕事の終わりの時間が重なったので、待ち合わせて夕食を食べようと誘われたのだ。平日の夜にそんなことが出来るのは、父親は接待でしょっちゅう飲み会があるし、兄二人は大学に出て一人暮らしをしていて、基本的に夕食は二人でとることが多いからだった。
駅前の夜景を切り取る窓ガラスのふちには白く曇りが張りついている。ところ狭しと並んだ百貨店やカラオケの大きなビルの、黄色と白の灯りが滲んで綺麗だ。
先についた葵はテーブルについて、母親とふたりで分ける大皿のサラダだけを注文しパスタのメニューをめくった。自分が食べるパスタを選びながら母親を待つ。店で生地から作っているという生パスタが売りの店だった。
何を注文するか決めてしまって、暇になった葵はなんとなく鞄から英単語帳を出してぱらぱらとめくる。
斜め向かいの客が席を立ち、仕切りの上から顔が見えたのはその時だった。
最初に目に入ったのは、少し暗めの栗色の髪だった。
縦にゆるく巻かれて、毛先が空気を含んだように揺れている。そこから視線は肩先まで降りていって、その彼女がスカートを直そうとうつむいたとき、控えめな鼻筋と小さく結んだ唇がはっきりと見えた。
あ、と声を漏らしそうになる。
仄香。
彼女はいつもポニーテールにしていた髪を降ろしていて、違う雰囲気に見とれそうになる。
葵がななめ後ろに座っているのにも気づかず、向かいに座っている人に笑いかける。けれど、その連れの男性を見て、葵は思わず、息が止まった。
一瞬、自分の目が信じられなかった。どうして、彼が。
ずいぶんと背の高い男だった。
最後に会ったときと変わらない、右に流した前髪と彫刻のように整った鼻筋。見たことのない大きな黒縁の眼鏡をかけていて、スーツではなく首もとのあいた黒いニットを着てるぶん、ずいぶんとくつろいで見えた。
見紛うはずがない。それは間違いなく、この春に隣の市に異動になった、去年の葵の副担任だった。
「……新庄先生」
思わずそう呟きそうになる。
何度まばたきをしても、変わらない。訳が分からなかった。どうして先生が仄香と?
先生はグレーのジャケットを腕にかけ、机の上の伝票を手に取った。そのまま彼は仄香とレジに向かって歩いていく。
いけない、と思いながら葵は二人から目が離せなかった。当然のように先生の隣を歩く仄香を見る。
腕にかけたキャメル色のコートの下は、黒いニットのアンサンブルだった。胸の上がレースの切り替えになっていて、首元の肌が透ける。袖はノースリーブで、そこから伸びる腕の細さと白さを強調していた。ハイネックの首元に光る金のネックレスまで見えたのは、よほど葵が凝視していたからだろう。
つま先まで着飾った彼女は、女の目で、柔らかでしたたかなおんなの目で、先生に笑いかけていた。
運の悪いことに、二人の席からレジに行くには葵のテーブルの前を通らなくてはならなかった。
たちこめてくるいけない匂いに、どこかに隠れたほうがいい、と瞬時に思ったがもう遅い。
葵は近づいてくるふたりに目を合わせないようにしながら、グラスの水を一口飲んだ。氷水が空腹の胃のかたちをくっきりとうつし出してからだの中に落ちていく。
ふたりが葵の横を通るのを、うつむいてどきどきしながら待つ。
すれ違うとき、仄香のコートの裾が葵のテーブルの縁にすこし触れた。時間が永遠のように思える。通り過ぎた後、葵は頭をそのままに目線だけ上げてふたりの後ろ姿を見る。
それと同じタイミングで、仄香が突然振り返って、葵と目があった。葵がぎょっとするのと同じように、仄香も少しだけ目を見開いた。目もとはよく化粧しているのが分かった。
彼女の口が小さく、あおいせんぱい、と動いた気がした。その表情は、間違いなく戸惑っていた。
隣の新庄先生の、どうしたの、と声が聞こえて、彼まで振り返るのが見えた瞬間、葵は考えるより先に目をそらした。そのままどこにも視線が動かせずに、テーブルの上のメニューのスープセットの欄を意味もなく熟読する。
頭はまだ混乱していて、胸の奥で心臓がばくばくと脈打っている。
それはきっと、見てはいけないという警鐘だったのに、葵の目は出口のほうへ向いてしまった。金曜日の夜で、少し着飾って食事に来たカップルは少なくなかったはずなのに、人ごみの中、一瞬で仄香と先生の姿を吸い寄せられるように見つけてしまう。
ちょうど会計が終わったところだった。財布を後ろのポケットに入れた先生が、コートを着ようとしている仄香のバッグをそっと持ってやる。嫌味なくらい自然な手つきで。袖を通すと、仄香は先生に向かって笑ってなにか言う。
バッグを返して、先生の目が一瞬葵を見た、気がした。気のせいじゃなかったら、確かに目があった。あ、と思って、けれど目が離せなかった。先生は笑って、一度周りを確認すると、仄香の前にそっとかがみこむ。
一瞬だった。けれど、先生が彼女に唇を重ねたその瞬間が、熱線のように葵の目に焼きつけられてしまった。
自分の片思いの相手が、先生とキスをするその瞬間を。