二 初恋
ここで、彼、水谷秀哉が中学生の頃の、話をしておこう。
…の前に、彼が小学生の時の話であるが、彼、秀哉は、小学生の時から、いわゆる「モテる」という経験を、したことがなかった。
確かに彼は、音楽の才能は、抜群であった。しかし、「モテる」要素に不可欠な、(と思われる)運動能力を、彼は持ち合わせていなかった。また、そのルックスも、(小学生の時は)イマイチで、つまり彼は、「モテる」ための才能は、何一つ持っていなかったのである。
また彼、秀哉本人も、異性にさほど興味はなく、どちらかというと、彼の興味は音楽一辺倒であった。
『僕、誰かと付き合うよりも、将来、プロの音楽家になりたいなあ…。』
これが、彼の小学生の時の本音であった。
しかし、そんな彼、秀哉の考えは、中学生になって変化する。
それは、藤澤玲奈との、出会いからであった。
彼女、藤澤玲奈は、彼、秀哉と同い年で、2人は(小学校は違っていたが)同じ中学校に、通うこととなった。
また、彼女は一重まぶたではあるものの、大きな目を持ち、いわゆる「かわいらしい女の子」であった。また、彼女は明るい性格で、人懐っこい所もあり、同学年の男子からの人気も、高かった。
さらに、彼女は周りの大人たちにも、
「おはようございます!今日は天気が、いいですね!」
など、あいさつを欠かさず行い、それが彼女の人気(大人・子ども問わず)を、高めていたのである。
そして、音楽に興味のあった玲奈は、その中学校のマンドリンクラブの、新入生歓迎の演奏会を聴き、
『この部活、楽しそう!』
と思い、晴れて入部することとなった。
そう、そこで、彼、水谷秀哉と、彼女、藤澤玲奈は、出会うこととなるのである。
しかし、彼、秀哉の彼女、玲奈に対する第一印象は、(悪くはないものの)特に「意識をする」というものではなかった。
『藤澤さんって、明るくてかわいらしい人だな。
まあでも、僕と仲良くなるタイプでは、ないな…。』
彼は、彼女に対して、初めはそんな風に思っていた。
そして、彼と彼女は、同じ中学のマンドリンクラブの、同じ楽器を、担当することになった。
彼、秀哉の方は、もちろんマンドリンは初心者であったが、持ち前の楽器を扱う器用さ、また音感(前に述べたが彼は絶対音感を持っている。)で、すぐにこの新しい楽器にも慣れ、上級生顔負けのスキルを、手にした。
しかし、彼女、玲奈の方は、楽器演奏はおろか、音楽経験も全くなく、完全に素人であったため、この楽器、マンドリンに慣れるのに、苦労していた。
そして、彼、秀哉は先輩から「暫定のリーダー」を任され、(全体練習の前に行う)1年生だけの練習の、リーダーとなった。
そこで、彼と彼女は、初めて話をすることとなったのである。
「水谷くんって、楽器演奏、上手だね!」
先に話しかけたのは、彼女、玲奈の方であった。
「いやいや、それほどでもないよ。ただ、僕はピアノとか、音楽の経験が以前からあった、ってだけで…。」
「へえ~!水谷くん、ピアノも弾けるんだ!
すごいなあ~尊敬しちゃうなあ~!」
「いやいや。
あと、僕は作曲も好きで、いろんなジャンルの曲を作ったりもしてるんだけど…。」
「えっ、作曲もできるの!?
すごい!才能の塊だね!」
「いや、なんか恥ずかしいな…。」
「恥ずかしがることないじゃん!本当に、お世辞抜きで、すごいと思うよ!」
この時、彼は彼女に明るくそう言われ、そして褒められ、
『藤澤さん、本当に、明るくて優しい人だな。』
と、思った。
「ああ~このパート、本当に難しい…。
水谷くん、うまく弾くコツとかある?」
「そうだね…藤澤さん、演奏の時に、左手の指が寝てしまう癖があるみたいだから、しっかり指を立てて、弾いた方がいいと思うよ。」
「なるほど!
やっぱり水谷先生は、言うことが違いますね~!」
「いや、先生だなんてそんな…。」
「冗談だよ冗談!ちょっと、真に受けたでしょ!?」
「え、あ、いや…。」
「ちょっとそんなに、困らなくてもいいからね!」
とある日の1年生のみの練習の際、彼女はこう言って、笑った。
そして、彼の方も、
『なんか僕、バカにされてる?』
と思わなくもなかったが、とりあえず笑った。
2人は、当初はほとんど、いや全く話をしなかったものの、1年生のみの練習が始まった時からよく話をするようになり、どんどん仲良くなっていった。
そして、彼、秀哉と彼女、玲奈が仲良くなっていくにつれ、秀哉の気持ちに、変化が訪れたのである。
『藤澤さん、最近、どんどんマンドリンの演奏が、うまくなっている。
彼女、頑張り屋さんだな。僕も、頑張らないといけないな。
…ってか僕、なんか、藤澤さんのことばっかり、考えてるような気がする…。』
彼、秀哉はその時、今まで何とも思っていなかった人に、「特別な感情」を持ち始めたことに、自分自身で気づいた。
思えば、「恋」とは、一体どのようなものであろうか?辞書の定義によると、
「男女が互いに相手を恋い慕うこと。また、その感情。」
さらに、「恋い慕う」は、
「恋しく思って追い従おうとする。恋慕する。」
またさらに「恋しい」は、
「離れている人がどうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれるさま」
との、ことである。
そして彼は、彼女、玲奈に対して、まさしくそのような気持ちを、持ち始めていた。
彼はその気持ちに気づいた時から、毎日の練習を、「音楽が好き」という理由だけでなく、別の意味で楽しみにするようになった。いやそれだけでなく、彼は毎日の学校生活を楽しみにするようになり、(彼と彼女はクラスが違ったので、合同授業の時だけであったが)同じ授業を受ける時には、彼はウキウキするようになった。
そして、彼がその気持ちに気づいた時から、彼は1年生のみの練習の際、彼女にアドバイスをする時、いつも以上に気合いを入れるようになった。そして、(往々にしてそれは恋愛においては逆効果であるが)いわゆる「いいカッコしい」、「カッコつけ」の状態に、彼はなっていた。
そして、彼がその気持ちに気づいた時から、マンドリンクラブの練習が終わり、下校する際、いいようもなく切ない気持ちに、襲われるようになった。自分は、まだ練習を終えたくない。自分はもっと、彼女のいるこの場所に、いたい。そして、彼女と一緒の空間で、一緒の時間を過ごしたい。
明日の練習、次の練習が、待ち遠しい…。
彼は、自分の気持ちに気づいた時から、そう思うようになった。
そしてそれは、今まで音楽にばかり関心を寄せ、異性に対して関心を示して来なかった彼、秀哉の、「初恋」と呼べるものであった。
「ねえねえ、玲奈って、好きな子とかいるの?」
「え、い、いや…特にいないけど。」
「じゃあさ、好きなタイプとかって、ある?」
マンドリンクラブの1年生のみの練習が始まる前、彼女、玲奈は仲のいい女の子の友達に、そう訊かれていた。
そして、たまたま(というより必然的と言うべきか)その場に居合わせた彼、秀哉は、その話の輪の中には入っていなかったものの、否応なしに彼女の答えを、聞くこととなってしまった。
「こ、好みのタイプ!?
そうだな…えっと…、落ち着いた人?かな?」
その時彼は、
『僕、どちらかというと落ち着いてる方だと思う、けど…。』
と、いけないと知りつつ、彼女と友達との会話に聞き耳を立ててしまい、そう思った。
「そっか。
じゃあさ玲奈、玲奈は年上の人と年下の人、どっちの人がタイプ?」
「え、そんなの、まだ分かんないよ…。」
「え~絶対嘘でしょ!?
もしかして、同い年がタイプ!?
…ってことは、分かった!この中に、玲奈の好きな人がいるんじゃない?」
「え、いや、それは…。」
彼女は、完全に返答に困っていた。
そして彼の方は、
『藤澤さんの好きな人、この中にいる!?
…確かにそうかもしれないけど、それは僕じゃない、よな…。
そんなの当たり前か。』
と、彼のマンドリンのチューニングをしながら、そう思った。(しかし、と言ったらいいのか案の定、と言ったらいいのか、彼はチューニングに全く集中できず、いつもよりそれを終えるのに時間がかかった。)
「そっかあ~分かった!
でもそれって、誰のことだろうね!?」
「い、いや私に好きな人なんて、いないよ!
だって私…、年上の人がタイプだもん!」
彼女、玲奈はいつもより大きな声で、そう友達に宣言した。
「何だ~そっか。
じゃあ、うちのクラブの先輩に、好きな人はいるの?」
「それもいない!
だって私、もっと、もっと年上の人が、タイプだもん!」
「…そうなんだ。
まあでも玲奈はかわいいし、すぐに彼氏、できるんじゃない?」
「そ、そうかな…。
とりあえず、練習しよ、ね?」
「そうだね!」
ここで、彼女とその友達との恋愛トークは、終了した。
その間、彼女、玲奈は顔を真っ赤にしながら、友達の話を聞き、そして自分のことを話した。
そして、ここに1人、その答えに打ちひしがれた男の子が、いた。
それはもちろん…、彼、水谷秀哉である。
彼、秀哉は、彼女、玲奈が自分のことを好きになってくれるなんて、これっぽっちも思っていなかった。もちろん、この時点で彼は彼女のことを本気で好きになっていたが、それは彼が自分自身で、「届かぬ想い」であると思っていた。
そう、彼は確かに、そう思っていたのである…しかし。
彼女、玲奈から、
「私は年上の人がタイプだ。」
という内容のことを聞いた時、彼は大きくショックを受けた。
『僕の想いが、藤澤さんに届くことなんてない、それは分かっていたはず、なのに…。
どうしてこんなに、僕は切なくなるんだろう…。』
そして彼は、
「ちょっとごめん、気分悪いんでトイレ、行ってくるね。
練習、先に始めててくれる?」
とだけ言い残し、トイレへと向かった。
思えば人は、誰も見ていない個室などの中では、どうして自分の「生」の感情を、思いっきり吐き出してしまうのだろう?その時の彼は、そんなこともふと思った。しかし、そんな思いが彼の頭をよぎったのも束の間で、
彼は、感情を爆発させ、泣いた。
「ごめんごめん、さあ、練習しよっか。…ってかもう練習、始まってるよね?」
彼、秀哉は、少し泣き腫らした目ではあるものの、そのことは声には出さず、気丈に振る舞おうとした。
「水谷くん、大丈夫?
何か目、腫れてるけど…。
しんどいんなら、今日は休んでもいいんじゃ…、」
「ありがとう、藤澤さん。
でも、僕は大丈夫だよ!ちょっとお腹が痛くて、涙も出たけど…。
もうスッキリしたから。練習は大丈夫!
本当にありがとね。」
彼、秀哉は、トイレから戻った後彼女、玲奈に、そう声をかけられた。
『藤澤さん、やっぱり、優しい人だな。
でも、その優しさが、今日は胸の奥に突き刺さるようだ…。』
彼は、そんなことを思ったが、顔には出さず、
「ありがとう。」と言った。
そして、その日の練習は、終わった。彼、秀哉はその後の下校時、彼女、玲奈のことはできるだけ考えないように、本当に考えないようにしながら、家路へとついた。
「僕、藤澤さんのことが、好きなんだ!だから、僕と一緒に、いて欲しい…、」
…ここで、この台詞が彼、秀哉の口から出て来るまでの経緯を、話しておきたい。
彼、秀哉は、彼女、玲奈に振られて(正確には振られてはいないが、彼はそう思っていた。)からも、しっかりマンドリンの練習に、取り組んだ。そして、彼女と毎日のように顔も合わせたが、彼女を恨むこともなく、同じクラブの「友達」として、今までと同じように、彼女と接していた。
しかし、彼は時折、こう思うことがあった。
『藤澤さん、今日も一生懸命、マンドリンの練習頑張ってるな。
藤澤さんは見た目もかわいらしい感じだけど、中身も、とっても優しい、いい人だ。』
そして、彼がそう思う度、彼の彼女に対する想いは、消えることなく燃え、また深まっていくのであった。
特に、彼を悩ませたのは、例えばお風呂場や自分の部屋など、彼が1人になった時であった。
例えばクラブで部員のメンバーと一緒にいる時や、家の中でも家族と一緒にいる時は、(「すること」もあり、)気が紛れ、「失恋」のショックを和らげることができた。
しかし、1人きりになった時は、否が応にも、そのショックが彼の心の中に押し寄せて来る。それは、例えて言うなら、みんなといる時に引き潮であったその「想い」が、彼が1人になると「満ち潮」のように、彼の心に溢れて来る、といったイメージだろうか?
いや、そのショックは、単なる「満ち潮」ではなく、「津波」のような、もっと激しいものなのかもしれない。
ともかく、彼、秀哉は、彼女、玲奈に自分の想いが届かなかったことに対して、大きなショックを受けていた。
『でも、やっぱり、僕は藤澤さんのことが好きだ!
そうだ。僕はまだ藤澤さんに、自分の気持ちを伝えてない。
もちろん、振られるのは分かってる。でも、それでも…、
僕は藤澤さんに、こんなにも藤澤さんのことが好きな人がいるって、伝えたい。それで、振られてもいい、いいから、これからも、練習頑張ろうって、伝えたい。それで…、
藤澤さんには、いつも笑顔でいて欲しい。相手が僕じゃなくてもいい。それで、僕は…、
藤澤さんに、幸せになって欲しいんだ!』
彼はそこまで考え、彼女に、自分の気持ちを、伝えることにした。
この時点で、例の台詞まで、あと少しである。
…彼、秀哉はその日、マンドリンクラブの練習が終わった後、彼女、玲奈を学校の体育館裏に、呼び出していた。
その日は7月。彼と彼女が出会い、彼が彼女に恋をしてから、約3ヶ月が、過ぎていた。そして、その日はきれいな夕焼けで、いわゆる「告白」には、最も適したシチュエーションであった。(まあ、ありがちなシチュエーションであることは否定しないが。)
「水谷くん、話って、何?」
「急に呼び出したりなんかして、ごめんね。藤澤さん、最近マンドリンの演奏、以前に比べてうまくなっていると思うよ。」
「そう…かな?自分ではよく分かんないんだけど…。
ありがとね。」
「いやいや。
それで、話って、いうのは…、」
「うん。」
「いきなりこんな話して、びっくりかもだけど…。
僕、藤澤さんのことが、好きなんだ!だから、僕と一緒に、いて欲しい。僕と、付き合って欲しい!
もちろん、藤澤さんが僕に興味ないのは分かってる。でも、藤澤さんには、僕の正直な気持ち、知ってて欲しい。それで、藤澤さんには、幸せになって…、」
彼、秀哉は緊張のせいか、早口でこう彼女に告げた。そして、なかなか終わろうとしない彼の告白を、彼女、玲奈は一旦遮った。
「水谷くん、ちょっと待って!」
「え、あ、ごめん…。僕からの告白なんて、迷惑だよね?
だったらこのことは忘れて…、」
「私も、水谷くんのことが、好き!」
「…えっ!?」
彼女からは、彼から見て、意外な答えが返って来た。
「もう1回言うね!
私、水谷くんのことが、好きです。水谷くんは、マンドリンの演奏が上手で、それだけじゃなくピアノ演奏も作曲もできて、本当にすごいな、って思います。
でも、私はそれだけじゃない、水谷くんのいい所、知ってるよ!水谷くんは、誰よりも努力家で、でも、そんな努力をひけらかさないで、みんなに対して優しくて…。
だから、私、そんな水谷くんのことが、大好き!」
「え、ええ~!」
彼女の答えは、彼にとって、よほど意外なものだったらしい。
「でも、藤澤さん、前に『年上の人がタイプ』って言ってなかった?
ごめん、聞こえちゃって…。」
「あああれ?
だって、その頃から私、水谷くんのことが好きで、…そのことがバレちゃいそうで、恥ずかしかったんだもん。」
「いや、でも、僕なんか…、」
「ちょっと、何度も言わせないでくれる!?
私が好きな人は、水谷秀哉くん、ただ1人です!
だから、私と付き合ってください!」
彼は、彼女の告白を聞き、もう1度勇気を出した。
「…僕も、僕の好きな人も、藤澤玲奈さんただ1人です!
だから、僕と付き合ってください!」
「はい、喜んで。
あと、これから私、2人の時は、『秀哉くん』って呼んでいい?
何か、呼び捨てはまだ恥ずかしいから…。」
「分かった!
じゃあ僕も、『玲奈ちゃん』って呼んでいい?」
「もちろん!
でも、恥ずかしいから、これは2人の時だけね。
みんなの前では、今まで通りね。」
「分かったよ、玲奈ちゃん!」
「おっ、早速だね秀哉くん!」
こう言って2人は、笑った。それは彼にとって、今までの悩みが嘘であるかのような、晴れやかな笑顔であった。
そして、2人は下校の際、手をつないで帰った。2人のつないだ手からは、7月の暑さとはまた違う、愛に溢れた温もりが感じられる、彼、秀哉は、そんな風に思った。(彼女、玲奈も、同じように思っていたかもしれない。)
※ ※ ※ ※
「三上さん、確かに玲奈ちゃんに顔は似てるけど、性格は、全然似てない。
はっきり言って、僕は三上さんのことが、嫌いだ。」
これは、彼、秀哉が昔のことを少し思い出し、その後持った、彼女、京子に対する苦手意識である。