第6話「大蜘蛛③-鱗士は己を顧みない-」
引きずり込まれたその場所は周囲が真っ暗で、至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされている。そして水中のような抵抗感があるが、呼吸は通常通り出来るのが妙な雰囲気だ。
「オ前……殺スゾ……覚悟ハイイカ?」
蜘蛛の巣に降りた蜘蛛はメキメキ音を立てながら首を伸ばし、背中側に捕らえた俺の方に顔を向ける。間近で見ると、やっぱり相当気持ち悪い。
「うるせえよ下衆が。顔近付けんな」
俺は大きな複眼を睨む。
覚悟だ?
そんなもの俺には必要ないな。そもそも命なんか惜しくない。
俺は、俺のことがどうでもいい。
「生意気ナ……ソノ面ヲ絶望ト恐怖ニ塗リ変エテヤル!」
「ぐ……」
蜘蛛は足の拘束を強くし、俺の体を締め付け始めた。身動きできないばかりか、細かい棘が体に無数の裂傷を刻む。そこに棘は更に深く食い込み、俺の痛覚をギリギリと抉った。
「ハハハ……少シ顔色ガ悪イカ? 謝ルノナラ今ダゾ」
「誰が、謝るって……?」
なんでこういう奴は、自分が圧倒的優位と思ったら調子に乗るのかね。嫌いだよ、本当。
「謝るとしたら……お前の方だ」
「……ナンダト?」
お前が油断してくれたおかげで、鎖に十分な霊気を流すことが出来た。
この術は、相手に霊気を流さない技。
霊気を纏わせるのは、俺の鎖だけでいい。
「“滅爆鎖撃”!」
俺の右手から垂れ下がる鎖が、霊気を纏い強い光を放つ。“滅爆鎖撃”が発動する。
「爆ぜろ」
鎖に纏わせた霊気が、一斉に破裂した。鎖に下がる錘——奴の背に触れている部分が、一際強い爆撃を放つ。
「ギッ……⁉︎」
蜘蛛の体から濛々と煙が上がる。
肉体が霊気の爆発により損傷したからだ。
「……アアアァアァアアアア‼︎」
酷い断末魔を大音量で叫び、蜘蛛はのたうち回る。その拍子に、俺への拘束が緩くなった。
「お前を殺す。覚悟はいいか?」
俺は蜘蛛の足を振りほどき、自由になった手で鎖を操作した。蜘蛛の全身に巻き付け、逆にその動きを完全に封じる。
「ウ……アアア……」
「術者が死ねば結界は解ける。この変な空間もお前の結界の一部だろ」
鎖に霊気を流し込む。蜘蛛の体は、鎖に触れた部分から大量の煙を上げ始めた。鎖は締め付けるような音を立て、俺は腕に力を入れる。
「ウアアア⁉︎ ソンナ……我ハ百年以上生キタ妖怪ダゾ……! ソレガコンナアアアァ!」
「そうかい。上にいるアイツは、百年くらい前に恐れられた大妖怪らしいぜ」
蜘蛛の体はボロボロと綻び、そして鎖に引き裂かれた。肉片と血が飛び散り、元の面影は微塵も伺えなくなった。痣の疼きも、俺を観察する気配も消える。
「終わった、と……。いってぇ……」
痛みに崩れ落ち尻餅をつく。その瞬間、目の前の景色が元の廊下に戻った。
「貴様っ……」
「よう、俺がトドメ刺しちまったな」
奴は俺の前まで駆け寄り、難しい顔をしながら腕組みをした。
「それは百歩譲っていいとして……なに考えてるんだ貴様は! 生きてたからよかったものの、死ぬつもりか⁉︎」
「なんだよ、心配か?」
「当然だろ! 貴様が死んだら私まで死ぬんだぞ⁉︎ 貴様と無理心中なんて絶対に嫌だ!」
奴は俺を指さしながら、信じられないという形相で喚き散らす。まあそんなことだろうと思った。
奴は指さすのをやめ、頭を抱え始めた。
「現に貴様傷だらけではないか! ああもう、なんなんだ貴様……本当に変な奴だな」
「お前に言われたくない」
そう言いつつ立ち上がり、自分の体を見下ろした。制服は蜘蛛の棘のせいで傷だらけになり、腕にも体にも切り傷が目立ち、ところどころ血が滲んでいる。さらに“滅爆鎖撃”の余波を受け、主に右半身へのダメージが大きかった。
「流石に使う距離が近かったかな……」
「は?」
「なんでもない。それよりあの子は」
「あそこで気絶している。特になにをされたというわけでもないな。無傷だ」
奴は親指で後ろを指す。その先に横たわる女子生徒は、見たところ怪我はなく、命に別状はなさそうだ。
「そりゃよかった」
「は? 自分はそこまで傷を負いながら、何故他人のことはそう心配するんだ貴様」
「……なんでもいいだろ」
「というか、さっきはあんな淡白な対応をしていたくせに。貴様はなにを考えて動いているんだ」
「うるせえ」
奴はポケットに両手を突っ込み、不可解なものを見るような目で俺を見た。俺は黙り、奴から視線をそらして横を通り過ぎる。そして女子生徒の所で屈み、彼女の腕を肩に回して持ち上げようと試みた。
「何をしている?」
「保健室まで運ぶんだよ。怪我はなさそうだけど、一応な」
「ほけんしつ……察するに医者の所に連れて行くのか? 貴様が? 怪我人のくせに?」
「そう思うならお前が運ぶか?」
どうせ「たわけ」だの「命令するな」だの言いだすだろうなと、俺は大して期待せず軽い気持ちでそう言った。
「……仕方ない。こっちによこせ」
「え?」
だが、帰ってきたのは意外な答えだった。
豆鉄砲を食らうというのはこのことだろうか。
俺はつい間の抜けた声を出してしまった。
「勘違いするな。万一貴様が死んだら、困るのは私だからな」
奴は背中を向け、自分に女子生徒を背負わせるよう促してきた。理由は利己的とはいえ、コイツに優しくされるのは気持ち悪いな。
「……他になにを企んでる?」
「殴るぞ貴様」
冗談は置いといて。まあ俺も傷が痛むのは事実だ。
こけてこの子に怪我でもさせたら申し訳ない。
「落とすなよ」
「分かって……る⁉︎」
女子生徒を奴の背中に渡す。すると奴は、肺から空気が意図せず漏れ出たかのような変な声を出した。
「……やっぱり俺が運んでやろうか?」
「舐め、るな……! ほけんしつとやらはどこだ……?」
「一階まで降りるぞ」
「っ!」
奴の力んだ顔に若干の影がさした。
*
保健室まで彼女を運んだのは、結局俺だった。というのも、アイツを保健室に入れるのはいささかどうかと思ったからだ。手前で俺がバトンタッチした。
不良に絡まれたという適当な言い訳は流石に訝しがられたが、それでも先生は女子生徒をベッドに寝かせ、俺の傷の応急手当をしてくれた。
まあ色々あったが、俺は今日の授業をなんとか最後まで受け切った。現在は下校中である。
日は真上より西に傾いてはいるが、まだまだ沈む時間じゃない。空は青く、気温は暑くも寒くもない、適度な空間だった。
「貴様、あそこじゃ浮いているのか」
「……別に」
藪から棒になにを言いだすかと思えば、失礼な奴だな。俺は素っ気ない返事を返す。俺が浮いたようが浮いてまいが、コイツにとやかく言われる筋合いはない。俺の勝手だ。
その後は互いに無言状態が続き、やがて家に到着した。やたら威厳のある門を潜り、石畳の上を歩いてやけに広い庭をまっすぐ横切れば、ようやく玄関にたどり着ける。
「ただいま」
俺は扉を横に開きながらそう言うと、居間の方から「おう、おかえり」と師匠の低い声が聞こえてきた。
靴を脱ぎ、さっさと玄関を出て居間に出る。師匠はそこに座っており、顔だけを俺の方に向け顔をしかめた。
「どうした、その怪我は」
「まあ、ちょっとな……。学校に出たんだ」
「大丈夫だったのか? 怪我人は?」
「俺だけだよ。妖怪も倒した」
俺は早々に居間を後にしようと、早歩きで師匠の横を通り過ぎる。
「鱗士」
「悪いけど、疲れてるから話は後で……」
「そうか。……ならちょいと氷凰だけ貸してくれ」
「む……?」
氷凰……って、コイツのことか。名前全然呼んでないからちょっと忘れてた。
「……じゃあ俺は部屋で休むから」
俺はそう言い残して居間を後にした。もっと引き止めてくると思ったが、意外なほどすんなり許してくれたな。
……師匠、アイツとなに話すんだ?
まあいいか。
割と本気で疲れたし、結構眠い。
俺は廊下を渡って部屋に入り、鞄を下ろして床に寝転がる。まぶたは自然と閉じ、俺の視界はたちまち黒く塗りつぶされた。
*
「で、なんの用だ?」
呼び止められた私は、あいつが出ていってから景生の対面であぐらをかく。この大男は、あの糞餓鬼にとって師にあたるらしい。普段からそう呼んでいるし、明らかに私に対するときと態度が違う。
私よりこいつの方が強いとでも思っているのか、あの糞餓鬼は。ふざけるな、戦えば勝つのは私だ。
「率直に言おう。鱗士が妖怪と戦う様子を見て、お前さんはどう思った?」
「どう思った、だと……?」
その言葉で、私の頭の中にあのときの苛立ちが次々とあふれ出した。口から吐き出さなければ、苛立ちでどうにかなってしまいそうなほどに。
「どうもこうもあるか! なんなんだあの無茶苦茶なやり方は⁉︎」
「と、いうと?」
「相手の妖怪が人質を取っているのを見て、あいつ懐に飛び込んでいったぞ! 人質を助けたところで、結局自分が捕まっては意味ないだろうが! あいつが自分諸共私を殺すつもりではないかと思うと気が気でなかったぞ! 景生、貴様あの糞餓鬼になにを教えているんだ⁉︎」
私はありのままの苛立ちをぶつけながら、正面に座る景生を指さした。ああ、口に出すと幾分かマシになると思ったが駄目だ。やはりあの糞餓鬼には苛立ちしか湧かない。
「……そうか。そうだろうな」
「なんだと?」
「お前さんにはさっさと言っといた方がいいな。これからアイツとは長い付き合いになるんだろうし」
「ふざけるな。私は必ずこの術を解いて、あの糞餓鬼を」
「解く算段はあるのか?」
「う……」
クソ、師弟揃ってこの私を小馬鹿にしおって……絶対許さんからな。
「まあなんにしろ、しばらくは嫌でもつるむことになるんだ。大人しく聞いちゃくれないか?」
「……さっさと言え」
その時の景生は、よく見ると少し悲しげな表情をしていた。それは十中八九あいつが原因なのだろうと、私は薄っすらと思った。
「鱗士はな、自分がどうでもいい存在だと思ってる。自分にはなんの価値もないと思ってるんだ」
「どういう事だ」
「悪いな。こっちから切り出しといてなんだが、詳しくは俺の口から言うことじゃない。とにかくアイツはそういう風に思ってる。今回の無茶な行動も、お前さんに躊躇いなく“結命鎖縛”をかけたのも、それが原因だ」
「…………」
やはり変な奴だ。
人間なんて所詮、一番大事なのは自分だろうに。
それをあいつは、大事どころかどうでもいいだと?
わけが分からん。
「……それで、私にどうしろと?」
「頼みがある。アイツのことを守っちゃくれないか」
「……貴様、意味が分かってその台詞を吐いたのか?」
「ああ。頼む」
景生は鷹のような目で私の目を見る。こいつの顔は凄まじく威圧的だが、この視線にそんな意図はないと直感した。ただ誠実に言葉通りの嘆願がそこにあった。
「ハッ。嫌だね」
「…………」
「何故私があんな奴を守らなければならないんだ。大前提として言っておくが、私は人間が嫌いだ。中でもあいつは大嫌いだ。忌々しい術をこの身にかけた元凶を助ける気など起きん」
「…………」
「私が守るのは私自身だ。私はあの糞餓鬼と違って、死ぬのはごめんだからな」
「…………」
「だから、まあ……結果的にだが。あいつを守ってしまうこともあるかもな……。大変不本意だが」
「……ありがとう、氷凰よ」
景生はそのでかい図体に乗った頭を深々と私に下げた。
何を感謝してるんだこいつは。そうでもしなければあいつが勝手に死んで、ついでのように私も殺されそうだから仕方なくだ。そう、仕方なくそうなるというだけだ。礼を言われることじゃない。
私は景生から視線をそらした。






