第67話「墜落」
「「…………」」
穴の空いた天井を、呆然と見上げること数十秒。吐息の音すら発せず、由于夏と守助は固まっていた。
その沈黙を、襖の音が破る。
「どうしたんだい⁉︎」
血相を変えて入ってきた紘久の顔色が、室内の光景を見て更に驚愕に染まる。木屑のこぼれる穴を前に絶句し、再び訪れる沈黙。
「……どうしよう」
由于夏の惑いきった弱々しい声が、静まり返ったこの場によく響いた。しかし守助も紘久も、上手く返すことができない。
氷凰が鈴を連れて、突然飛び去った。詳細までは分からないが、大まかの予想はつく。
鱗士は、荒崎冬汰をとめられなかったのだろう。
「…………どう……って」
半ば独り言のように守助が呟く。
鱗士を責める気は微塵もない。こっちが首を突っ込んで、頼って、任せきりにしたのだ。むしろ責められるなら自分だと思う。
しかしどんなにそう思っても、守助は微動だにできなかった。ここからどうにかできるなら、鱗士に負担をかけたりしていない。
「……どう」
無意識に自分の髪を鷲掴みにし、呻りながら俯く。
なんとかしなければいけない。
見てるだけなんてあり得ない。
なんとかしなければいけない。
でなきゃ最低中の最低になる。
なんとかしなければいけない。
でも自分に一体なにができる。
なにもできない……?
「おい、吉城君……⁉︎」
「吉城君、大丈夫?」
重い頭を僅かに上げる。只事でないものを目の当たりにしたような、二人の視線と声。
気づけば体が震えていた。呼吸も異様に荒い。
また思い出していた。
あのときの出来事が、再び起こりそうになっている。
「吉城君⁉︎」
「な……待ちなさい! どこに行くんだ⁉︎」
由于夏たちの声に、もう耳を貸せなかった。
紘久の脇をすり抜け、客間から飛び出す。靴も履かないで、一目散に玄関を後にした。
「……ッ‼︎」
走る。
なにも見えないし聞こえない。それでも走る。
強迫観念にも似たなにかが、守助の体を動かしていた。
「ごめん! 弱くてごめん……!」
この場にいない人間に、縋りつくような謝罪を吐く。
きっといても伝わらない。けれど今吐き出さなければ、いい加減狂いそうだった。
*
鳥モドキの首が崩れ、頭が胴から離れて落ちる。体の方も大きくバランスを崩した。
「お前……!」
「生意気にも私を見下すのはここまでだ」
同時に冬汰の表情も崩れ、ほんの少しだけ気が晴れた。
……いや待て。私にとっては晴れなんかより、雪でも降ってくれた方が都合がいいな。だったら……。
「……気が曇る? 寒波に曝される?」
「は?」
のたうち回るように羽ばたく鳥モドキは、かろうじて滞空している。しかしまずいはまずいらしく、冬汰の焦りは強まっていた。
「今考えごと中だ。さっさと落ちて死ね。いや、死なない程度に死ね」
「なるほど、言葉と思考が不自由なのか。やはり聞いた通りの頭というところか……」
「は?」
この状況でまだそんな悪態をつくか。
いい度胸だな。度胸だけはいいな。
「ふんっ」
むかついたので、目の前で思いきり羽ばたいてやった。冷気を纏った突風に鳥モドキが煽られる。
「おまっ……やめろ馬鹿!」
「変わった舞いだな」
魚モドキを回避しつつ、冬汰を言葉で更に煽った。手を広げて滑稽にふらつく様を眺め、わざとらしく口元を歪めてみせる。
見世物としては上々だな、もう少し眺めていたいくらいだ。
「だがもういいぞ」
右手の指先を、鳥モドキの方へ向け。
「そろそろ本当に」
氷の刃を伸ばし、無駄にでかい図体を串刺しにし。
「落ちろ」
横一文字に斬り払った。
鳥モドキは完全に羽ばたくのをやめ、背中の冬汰諸共落下を始める。
「……ッ!」
「助けてやろうか?」
「誰が‼︎」
落ちてゆく最中も、冬汰の目に宿る殺意は陰らなかった。ただ爛々と、私と鈴を睨み殺そうとする。
命乞いしないのは天晴れだが、それはそれで面白くないな。ああいう奴は調子に乗るだけ乗って、その後惨めに泣きついてきて完成するようなものだろうに。
無駄に意地が強いな、と冬汰を見下し続けていたとき。紙束が再び光った。
「“肆号”!」
さっき盾に使っていた蝙蝠モドキが、地面に近づいてゆく冬汰の体の下に潜り込んだ。
冬汰が蝙蝠モドキに衝突する。
「グ……ッ!」
張った布に落ちたようなものだろうか。落ちはしたが、そこまでの痛手は負わなかったらしい。本当に死なれても困ったが、やはり面白くないな。こいつ絶妙に面白くない。
「まあ落下対策はしていて当然か」
しかしさっきまでの攻撃で、蝙蝠モドキも無傷ではない。あれも一応飛べるのだろうが、鳥モドキほどの自由は利かないはずだ。
制空権は私が取った。
落下した鳥モドキが、光に包まれて消える。
「この短期間に二度……直すのも楽じゃないんだが」
「知るか」
魚に気をつけつつ整理する。
壊してしまえば、この戦闘中はやはり使えないらしい。つまり、鳥と蛇は封じた。蝙蝠はもう寸前。あと何体いるか分からんが、目下うざったいのは魚と狼か。
よし、なんとかなるな。余裕だ余裕。
上から氷柱を落としまくれば勝てる。
「覚悟はいいな? 楽には終わらせないぞ」
「……ふん」
圧倒的に有利なのは私の方。手加減してやるつもりもない。
しかし悲観するでも、諦めた様子も見せず、蝙蝠の上に立つ冬汰は笑った。見上げているのに、見下したような目を私に向ける。
「誤算はあったが僕は負けてない。負けるのは君で、死ぬのはそいつだ」
「なに?」
魚を躱し、怪訝に冬汰を見下ろす。
この状況をひっくり返せる手持ちがあるのか? さっきのように切羽詰まっているならいざ知らず、今ならなにが来ても躱せるし壊せる。
冬汰は動かない。紙束を開くこともしない。
ハッタリかと疑っていると、僅かに口元を動かした。
「——“漆号”」
直後、私の右肩が弾けた。
「は……?」
破壊された体から、赤くて熱い血が噴き出す。同じものが喉を逆流して、口からもあふれた。
「楽に死なせないとか、冥土の土産とか。そういうこと言うとな、大概は失敗するんだよ」
冬汰がなにか言っているが、よく聞こえない。右肩の焼ける激痛が全身に伝播し、感覚が狂っていた。
かろうじて目に映ったのは、右肩から生える紫色の木だ。枝の先端は白く硬質で、髑髏のような実がなっている。
「っ……さっき、刺されたとき…………」
やられたとすれば、あの瞬間。
蛇で右肩を刺されたときだ。
別の式神を仕込まれた……⁉︎
「流石は最強の一角。“漆号”の成長が速い」
翼が霧散し、体勢が大きく崩れた。
木がさっきより大きくなっている。それに唐突な倦怠感……私の妖気を吸って成長してるのか。
更に吐血したということは、根でも張られて内臓も傷ついているだろう。
「ごふっ」
更に込み上げてきた血で、口内が満たされる。朦朧としつつ、このままでは墜落するなと冷静に思った。
冷気を振り絞り、風に体を包ませる。落下位置をなるべく冬汰から離す。
鈴を上向きにしたまま、私の体が地に落ちた。
「ッッ——‼︎」
駆け抜けた鈍痛に、思わず目を見開く。これでも最小限に抑えたつもりだが、尋常じゃない痛みだ。四肢が粉々になったかと思った。狂狸のときよりまずい気がする……。
「鈴……無事か……?」
「あ……うあ…………」
錯乱状態といった様子で、鈴の目が激しく揺れている。私はそんな酷い有り様か……クソ、苛立たしい。
だが本当にまずい。魚モドキがもうその辺にいるはずだ。冬汰もすぐに来る。なのに遺憾でしかないが、碌に動ける気がしない。
「…………なんで私がここまでして」
これも鈴の能力だったりするのか?
確か“六魔”すら懐柔とか……最初に言われたような……。私はまんまと乗せられたままか? 死ぬまでこいつを守るのか、私は?
「……いや違う」
馬鹿な考えだ。そんなわけがない。
別に誰が死のうが知ったことじゃない。私はそういう奴だろうが。ただ、許せないことがあるだけだ。
冬汰が私を舐めている。だから鈴を守りきって奴を泣かす。
それだけのことだ……!
「くっ……」
歯を砕かんばかりに力を入れ、上体を起こそうとする。しかし体の損傷と妖気を吸う木に阻まれ、思うようにいかない。私を無力化するという冬汰の目論見は、腹が立つことに成功のようだ。
魚モドキが視界に入った。真上からこっちに向かってくる。
景生と同門か……なるほどな。納得してやらんでもない。
どうする。躱せないし防げない。鈴だけ逃しても多分無駄。しかしダメ元で走らせるしかないか?
「……!」
朦朧と思考する最中、忙しない足音が近づいてくるのに気づいた。冬汰までもう来たかと思ったが、走り方に余裕がなさすぎる。奴がそんなに焦る局面でもないだろうに。
この情けなさすら感じる、取り繕いようのない体たらく……。
「……守助?」
頭だけ動かし、足音の方を向く。
予想通りの男が、予想通りの様相で走ってきていた。
「氷凰ちゃ……ッ」
走り疲れて息を切らし、血に塗れて肩から木を生やす私を見て息を呑み。本当に忙しい奴だな。
役立たずを自覚してるくせになぜ来たのかと思うが、今はよく来てくれた。
「鈴を逃がせ……とにかく走ってここから離れろ」
「させない」
……一縷の希望だったが、なんとも間の悪い。
「君もそれを庇いたいのか?」
「うひっ…………⁉︎」
冬汰に睨まれ、守助が竦み上がった。




