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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第3章「か弱き逃避行」
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第60話「追跡者の正体」

(逃げろ)


 パニックになる時間すらなく……どころか頭だけは冷静そのもので、今やるべき事を必死に守助に訴えていた。しかしそれも虚しく、体が従う気配はまるでない。


「見ツケタ……見ツケタ……」


 感情を感じない不気味な声が、頭の上に繰り返しのしかかってくる。


(何してんだよ馬鹿、早く逃げろよ。これ絶対ヤバイやつだろ)


 意志が体に伝わらない。頭と体が別々の存在になってしまったようだ。

 振り向いて何がいるのか、確認する事さえ出来ない。息が苦しくなってきた。呼吸すらきちんと行えていない。行動しなければいけないのに、寝てても出来る事まで覚束ない。


(あれ)


 何も出来ずにいる最中、ある予感が守助の中で現実味を帯びて形になる。


(……もしかして、俺、ここで死ぬのか?)


 頭にそれがよぎった瞬間、体温が消えたと錯覚した。熱くない。冷たくもない。景色からは色がなくなった。

 恐怖のあまり何も感じなくなったのかと、冷静な脳が予測を立てた。


(嘘だろ。俺って訳も分からないまま殺されるほど悪い事した? そこまで? それとも前世のツケ? ふざけんなよそれは前世の俺がきちんと払ってろよ。それが許されるなら俺も来世にこれ持ち越させろよ——)


 唯一働いていた頭が、ヤケを起こしかけた時。

 右手に何かの温度を感じた。感覚が消えた筈が、すぐ近くに何か温かいものがあると分かる。


 どうやっても動かなかった体が、今なら少しだけ動く気がした。首元に力が入る。右手付近を視界に収めるために、守助の体へ脊椎が命令した。背後の何かより、こっちを優先すべきだと無意識に思っていた。


「…………」


 守助の体感とはかけ離れた刹那の間に、それは網膜に飛び込んできた。


 恐怖に引きつった顔で固まる、幼い少女の姿が。


「もりすけ……」

「‼︎‼︎‼︎」


 恐怖、驚き、混乱……全てのものが吹き飛んだ。


 鈴を抱え上げる。

 連続で思い切り地面を蹴る。

 ぶつかる風が体を冷やし、日の暮れかかった景色が後ろへと流れてゆく。


「大丈夫! 絶対大丈夫だからな‼︎」


 そして全力で叫んだ。

 守助のもとに、体が完全に戻ってきた。


「見ツケタ……」


 同じ言葉が繰り返し聞こえる背後を、守助はチラリと確認する。


「うわクソ見なきゃよかった‼︎」


 反射的にそう吐き捨てるほど、それのみてくれは不気味だった。

 白い頭蓋骨のような頭と、ブヨブヨの皮膚が剥き出しになった、大きな鳥のような何か。それが羽ばたきながら、守助を追ってきている。


「鈴も氷凰ちゃんも人の見た目してんじゃん! 何でアレはあんなキモいんだよ‼︎」


 悪態を突きつつ守助は考える。


 鈴が自分の家のベランダに転がっていたのは何故か。多分アレから逃げてきて、たまたま流れ着いたのがあそこだったから。

 アレは何だ。どう見ても妖怪だ。

 何故鈴を襲う。分からない。


 このままどこへ逃げる。


「……間定の家知らねえ!」


 調子が戻った直後だというのに、またもや困難に直面した。アレを倒すのは、覚悟がどうこう以前の話で守助には無理だ。なので逃げるしか術がないのだが、肝心の逃亡先が分からない。


(家の番号も知らねえし、そもそも電話出来ねえし……ワンチャンあれ敵じゃないって事は……)


「見ツケタ……始末……」

「絶対敵じゃねえか‼︎」


 淡い希望的観測は、何とも物騒な譫言のもと崩れ去る。


(そういや間定は霊気だか妖気だか言ってたな……近くに強い妖気があれば分かるとか……逃げ続けてりゃ気づいてくれるかな?)


 この状況から脱するには、鱗士が氷凰の存在が不可欠なのは確かだった。しかし守助の方から知らせる方法がない以上、その可能性に賭けるしかない。

 それも守助の体力が尽きる前にだ。確実性も何もない。


「クッソがああああ‼︎」


 出鱈目に走り続けて、自分がどこにいるのかも把握出来ない。心臓の鼓動の喧しくなり、息も切れてきた。時間切れが迫ってくる。


「ぜっ……絶対大丈夫だぞっ……! 指一本……触れ、させるかよっ!」

「……っ」


 胸元で震える鈴を強く抱き寄せ、ひたすら叫んだ。元々体力に自信がある訳でもないのに、鈴を抱えたまま全力疾走を続け、今にも倒れそうだった。それでも励ます事はやめない。


(しんどいヤバイ吐きそう……いやまだいける大丈夫飲み込め!)


 ネガティブな思考を振り払い、死に物狂いで足を上げる。


 その足が、遂にもつれた。


「ヤッ——」


 しまったと感じた時点で、守助の体は前につんのめっていた。両足が地面から浮く。風景が上へと、ゆっくり流れる。顔は正面を向いたまま、体が地面に向かってゆく。

 せめて鈴を衝突から庇うため、身をよじろうとした瞬間。


「吉城君!」


 聞いた覚えのある声が、守助の鼓膜に届けられた。女の声。鱗士ではない。しかし氷凰とも声質が違う。

 よじった体ごと、顔が声の主の方に向く。


 丁度その方向にあった家の玄関から、丁由于夏が必死の様相で飛び出してきていた。


(何で⁉︎)


 ガムシャラに走った結果、守助は偶然にもこの場所——由于夏の家の近くにまで逃げてきていたのだ。自室の窓から異様な光景を目の当たりにした由于夏が、慌てて一階に降りてきて今に至る。

 それを守助は知る由もなかったが、体は瞬時に反応した。抱えていた鈴を、駆け寄ってくる由于夏の方に差し出す。


「頼む‼︎」

「……!」


 何の説明も出来なかったが、由于夏は守助に応えてくれた。無言のままに鈴を受け取り、胸元に抱え込む。


「とりあえず逃げて間定か氷凰ちゃぶぐ!」


 どうにか解決策を伝えようとしたが、言い終わる前に勢いよく地面に衝突。


「任せて!」


 由于夏の背中が離れていく。後ろにいた鳥もどきが、地面に倒れる守助を追い越した。やっぱり鈴が狙われていると再認識する。


 まだ自分に出来る事はないかと考え、とりあえず力を込めて体を起こす。全身が痛いが立てないほどじゃなかった。


(間定の家……闇雲に探して見つかるもんじゃない……俺がアレに勝てりゃ苦労ねえ……どうする? どうすりゃいい? モタモタしてたら丁までヤバイ……どうするどうするどうする……)


 全力疾走のつけが、今になって効いてきた。酸素が足りなくて頭が上手く回せない。口で激しく呼吸しながら、曲がり角に消えた由于夏たちを追う。考えた訳でもなく、手段のないもどかしさが足を動かしていた。


(どうする……どうにも出来ない訳はないんだから考えろ……俺は……俺は……何もしないなんて事……)


二度とゴメンだ(・・・・・・・)…………!」


 無意識のうちに、そう絞り出す。

 同時に、守助の真上に再び影が差した。


「吉城!」


 それが一瞬で追い越して行ったかと思えば、昨日と今日で妙に聞き慣れた声。力が抜けそうになるのをどうにか堪え、その主——鱗士の方を見た。


「マジで来てくれるとは……スゴ……退魔師」

「鈴は……まだ無事みたいだな」


 痣の辺りを押さえながら、鱗士は由于夏たちが走っていった方を睨む。


「今、逃げてる……変な、鳥? みたいなのが、鈴を追いかけて……今は丁が……早く!」

「丁も⁉︎ ……いや、多分もう大丈夫だ」


 何を根拠に。そう聞こうと言葉を発そうとする前に、何か固いものがぶつかり合う轟音が届く。同時に響き渡る、金切音のような悲鳴。少し遅れて軽い寒気が体を包み、ゾワリと鳥肌が立った。


「な、何⁉︎」

「アイツ……ここ住宅街だぞ……」

「……まさか氷凰ちゃんか?」


 困り顔で鱗士は頷く。さっき自分を追い越して行った影が氷凰だった事に、守助はこの時になって気づいた。


「その辺の人には見えてないだろうからいいけど。吉城、歩けるか?」

「こけただけだし……息も落ち着いてきたから大丈夫」


 鱗士と守助は小走りでその場所に辿り着き……その光景に二人とも絶句した。


「遅かったな鱗士。そして残念だったな、由于夏を助ける役が出来なくて」


 透明の翼を背中から生やした氷凰が、余裕の笑みでその場の全員を見下ろしている。シルエットだけなら天使と言って差し支えない彼女が腰掛けているのは、巨大な氷柱。痙攣する鳥もどきの胴体を串刺しにし、そのまま地面をも貫いて鎮座する氷柱。


 そんな状態で笑顔を浮かべられては、守助には天使どころか悪魔にしか見えなかった。


「……これ、地面大丈夫なの?」


 鈴を抱いたままへたり込む由于夏が、ポツリとそう漏らす。守助としても同感だった。


「…………」


 ただ、鱗士だけは別の事で頭が埋め尽くされていた。ゆっくり歩き、死に体の鳥もどきに近づく。


「間定……?」


 鳥もどきを目の前にして立ち止まる。鱗士はまだ、何も言わない。


「こいつを知ってるのか?」


 鱗士の様子に気づいた氷凰が、氷柱の上から飛び降りる。悪魔の笑顔は引っ込み、真剣な顔つきで鱗士を見据えていた。


「すぐここを離れるぞ。氷凰、その氷柱も消せ」

「とりあえず戻るのか?」

「家は駄目だ」


 家は駄目。

 その言葉の意味が分からず、守助と由于夏は顔を見合わせる。鈴を狙う化物は、氷凰が倒した。その時点で脅威は去ったのではないのか。もし追手が他にいたとして、一番安全なのは鱗士の家ではないのか。


 氷凰が氷柱を消している間に、鱗士は二人に振り返る。そして、簡潔に告げた。


「鈴を狙ってるのは妖怪じゃない。これは——」







「……弐号(にごう)が壊された?」


 そう零し、懐から本のように纏めた紙束を取り出した。パラパラとそれをめくり、あるページで指を止め、その事実を改めて確認する。


(アレに戦闘力はない筈……誰かに、それも弐号を倒せるような奴に匿われてるのか)


 紙束を閉じ、舌打ちを一つ。


「忌々しい。この世の癌が」


 苛立った様子で吐き捨てた。

 何度も仕事をしてきたのに、あんな人間の幼児程度の力しかない妖怪に、自分は何を手間取っているのか。情けない話だ。


 今はもういない親友ならどうだろう。

 とっくに終わらせていたか。

 それとも見逃していたか。


 見逃していたかもな。そう思うと苛立ちが増した。その男は強かったが、甘かった。親友だったが、そこだけはずっと相容れなかった。


「やっぱり明日、鱗士と相談するのがいいかもな」


 荒崎冬汰は溜め息を吐き、紙束を懐に収めた。

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