第59話「影が差す」
ひとまずこの日は解散となり、俺と丁は来た道を引き返していた。吉城の家は俺たちが本来帰る方向と真逆の場所で、普段と比べ割と遅い帰路となる。
丁と二人きりというこの状況。普段なら緊張で碌に頭が働かないところだが、今回限りはそうもいかなかった。分からない事、考える事が多くて、そういう気分にはさせてくれない。
「ねえ間定君」
隣から丁が声をかけてきた。多分考え事で難しい顔をしていると思ったのだろう。いつもより遠慮がちで心配そうな表情で俺を見る。
「さっきはその、『帰れって言われても帰らない』みたいな態度取っちゃったけど……。いざって時に役立たずな自覚はあるから……迷惑ならやっぱり——」
そうして俯きがちに口を継いで出たのは、少し意外な言葉だった。いや、普通の人なら別におかしくない。丁が言うからそう思った。
「らしくないな」
率直にそう言い返す。案の定というか、丁は驚いた表情で顔を上げた。いつもくらっている不意打ちをやり返した気分になって、俺は何となく笑いそうになる。
「散々突き放すように仕向けたのに、何にも気にせず俺に話しかけ続けたのはどこの誰だよ?」
「それは、ごめん。あの時は事情も知らなくて……どうしても性分で」
「別に責めてねえよ。寧ろ感謝してもしきれない」
前に同じようなお礼を言った事がある。狂狸の襲撃があってから、初めて学校に行った時だ。丁がいなければ、今の俺はなかっただろう。手を伸ばし続けてくれたお陰で、殻にひびが入って砕けて消えた。
「丁には、鈴がどんな風に見えた?」
「……不安そうだった」
「そういう時、丁みたいに優しい奴がいてくれるとホッとするんだよ。面倒くさく拗れた俺でも、最後には心からそう思ったんだ」
そう自虐的に笑ってみせた。相変わらず下手くそな笑顔だろうなと自覚はしている。
「だからさ、時間さえあれば会いに行ってやってくれよ。俺にしてくれたみたいに」
心を開く相手は、多いに越した事はない。それだけ気持ちが楽になる。吉城だけでなく丁も、鈴にとって強く信頼出来る存在になれば、分かる事が大きく増えるだろう。
「ただ危険がゼロとは言えねえから、いざって時は自分を優先してくれ。さっきと繰り返しになるけど、本当にこれだけは……」
「…………」
つい仕事の感覚で一方的に喋り続け、丁の様子に気づくのが遅れた。
見た事のない表情をしている。大きな目は動揺したように軽く揺れ、むず痒そうに口を噤んでほんのり頬を赤くしたその様子は、まるで、恥ずかしがっているような……。
「……丁?」
「! いや、聞いてたよ! ただ改めてそういう事言われると思ってなくて……は、励ましてくれてありがとう! 私でも力になれるなら喜んでやるよ!」
すぐに笑顔で取り繕おうとするが、赤みがかった顔は既に誤魔化しようがなかった。丁は再び口を恥ずかしげに閉じ、少し俯いて黙ってしまう。
仕事仕様になっていた脳味噌が、ジワジワと熱を帯びてくる。特別意識せずに喋ったさっきの台詞と、丁の新鮮な反応が組み合わさった瞬間、抗いようもなくあっという間に思考回路はショートした。
「…………おう」
そんな有様でまともな会話が出来る筈もなく、俺は一言そう返して丁から顔を背けた。
もっとこういう事に余裕があれば……という後悔に襲われる。さっきの丁は、正直言って……ずっと眺めていたいくらい、物凄く、可愛かった。……何考えてるんだ俺。
その後はほとんど会話もなく、帰り道が分かれるところで一言ずつ交わしたのみだった。手を振る丁の顔がまだほんのり赤く見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。そして俺の方はどうだっただろう。……多分まだ赤かったと思う。熱いし。
「……ふーう」
丁が見えなくなったのを確認してから、俺は大きく息を吐いた。少しは落ち着いた、気がする。今日は色々と気が休まらなかったな。早く帰って氷凰でも眺めながら日常を思い出そう……。
せっせと足を動かすうちに、見慣れた家はいつの間にか目の前だった。門を潜って中庭を横切り、引き戸を開いて玄関へ。
「ただいま」
返事は返ってこないが靴は一足揃っている。その横に自分の靴を並べて脱ぎ、居間に上がれば、卓袱台の前に不貞腐れた面の氷凰が座っていた。
「何だ遅かったな。どこで油を売っていた。腹が減ってきたぞ、さっさと何か作れ」
「落ち着くわ……」
「は?」
氷凰が頬杖をつきながら怪訝な目で俺を見る。その偉そうな態度と上からの物言い。この感じだこの感じ。ああ落ち着く。
「晩飯にはまだ早いだろ」
「遅い帰りの上に私に意見か? 随分偉くなったものだな鱗士の癖に」
「いい感じに落ち着いてきた。そういうのもっとくれ」
「……何なんだ気色悪い」
氷凰の目が不気味なものを見る目に変わり始める。そんな風に思われるのは流石に癪なので、そろそろやめておこう。正直自分でもおかしいと思う。
「まさかあれか? 由于夏といい事でもしたのか?」
「吉城の所行ってただけだ。いい事とか言うな」
程々に平静を取り戻した俺は、適当に受け答えしながら部屋へ向かった。荷物を置いて、手早く制服から着替えてまた居間の方へ戻る。
何となく飲み物が欲しくなってそのまま台所に向かって、誰かが何かした形跡があるのに気づいた。具体的には、茶葉にまみれた急須が放置されている。
「お茶入れたのか? お前が?」
普段そんな事はまずしないので、俺は軽く驚きながら氷凰の方に振り返った。よく見れば、卓袱台の上に湯飲みも置いてある。
「別にいいだろう」
「悪いとは言ってねえだろ。見るに入れるのは下手くそっぽいけど」
「やかましい! どのようなものであろうと、私が入れたものだぞ! それだけでありがたいと思え!」
どうやら若干機嫌が悪いようだ。そんなに上手く入れられなかった事が腹立たしいのだろうか。それともまだバウムクーヘンの事を根にもっているのか。
苛立っているなら無理に触れるのはやめようと思い、とりあえず急須を綺麗に洗って所定の場所に戻しておく。そして当初の目的を思い出した俺は、冷蔵庫を開こうとして……再び視線と意識が別の方に逸れた。
「……オイ」
「何だ、まだ私の茶に文句が——」
「何でこれがこんな所にある?」
鬱陶しそうにこちらを向いた氷凰の顔が、瞬く間に青ざめてゆく。その視線はフラフラと泳ぎつつも、俺の持つ紙袋の方に注がれていた。
「お前、まさか盗んで……」
「違う! そんな事すればどうなるか想像出来ないほど馬鹿じゃない! ……誰が馬鹿だ‼︎」
「一人で何言ってんだ」
まあそこは信じてやってもいい。コイツが人に危害を加えるような事をすれば、俺がどうするか。その覚悟は今も変わっていないつもりだ。氷凰も分かっているだろう。
かといって氷凰が一人で買い物出来るとは思えない。とすると、誰かから貰った?
「誰か来たのか?」
「! そう、そうだ! 景生の知り合いの……冬汰が持ってきた!」
「冬汰って……荒崎さんか。何で?」
「用件は知らん。明日貴様に直接話すとか言って、茶も飲まずに帰りおった……私が出してやったのに」
「なるほど」
色々と合点がいった。バウムクーヘン貰って気分を良くしてお茶を出したが、口もつけられなかったのか。
……まあ、そうなるだろうな。
「…………」
荒崎さんが、わざわざ訪ねてきた。それも直接俺に用がある。このタイミングで。
……嫌な予感がする。
*
鱗士と由于夏が帰った後になっても、守助は落ち着かないままに過ごしていた。いつものルーティンで、着替えて洗濯物を取り込んでから、今は学校で出された課題に取り組んでいる。
しかし頭にちらつくのは鈴に関する事ばかりで、ほとんど手につきはしない。ジワジワと事が大きくなって、いつの間にか守助と鈴だけの話ではなくなってしまっていた。
とにかく落ち着かない。守助にはその理由がよく分かる。不安だった。もしもこの先、鱗士の言う『ヤバイ』事態が訪れた時、鈴はどうなるのか。鱗士や由于夏はどうするのか。
自分はどうするのか。
「もりすけ、お腹すいた」
「え? もうそんな時間か……」
時計を見ると、時刻は現在午後六時半頃。いつの間にか夕飯時になっていた。頭をぐるぐる巡らせているだけで、時間は何の変化もなく過ぎてゆく。そしてお腹も空いてゆく。
「……あ、買い出し忘れてた」
先送りにしていた食材調達も、最近のゴタゴタで記憶の彼方に消えていた。現在、冷蔵庫の中はほぼ空だ。
「ごめん、買い物してくるからちょっと待っててな」
「えー……じゃあ一緒に行きたい」
鈴の初めての申し出に、守助は一瞬考える。しかしそもそも普通の人には見えないのだと思い出し、答えはすぐに決まった。
「分かった。離れちゃ駄目だぞ」
「うん!」
溢れんばかりの笑顔で、立ち上がった守助の手を握る鈴。仮にも保護者として、頼りになるとは言いがたい自分を、こんなにも無邪気に慕ってくれている。嬉しいついでに、不甲斐ない気持ちが込み上げた。
こんな不安に駆られたままで、頼りにされる資格はあるのか。
(ああ駄目だチクショウ! そういう事じゃねえだろ……しっかりしろよ吉城守助!)
握られた手に軽く力を入れて握り返す。不安だろうと、資格がなかろうと、それは何もしなくていい理由にならない。既に心に刻んだ筈の矜持を、守助は今一度刻み直した。
玄関を出て階段を下りる。握ったままの鈴の手は、守助の手の中に収まるほど小さい。目を離せば、どこかに行ってしまいそうだった。
鱗士や由于夏のような強さがなくても、出来る限りを尽くして守りたい。壊れないように優しく握り続ける。絶対離さないと言い聞かせながら歩いた。
「俺なんかを頼ってくれてありがとう」
「?」
言葉の意図を確認するように、鈴が見上げてくる。それを説明する代わりに、守助は笑顔を返した。
何を買おうか。
また鈴の好きな焼きそばを作ろうか。
そんな何気ない事を考えていた時、二人の周囲に影が差した。
「……え」
大きな何かが真上に現れて、二人に注ぐ僅かな日差しが遮られたのだ。
「見ツケタ……」
不気味な声が降ってきた。
体が固まって動かない。
指一本すら、動かない。動かない……。




