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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第3章「か弱き逃避行」
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第59話「影が差す」

 ひとまずこの日は解散となり、俺と丁は来た道を引き返していた。吉城の家は俺たちが本来帰る方向と真逆の場所で、普段と比べ割と遅い帰路となる。

 丁と二人きりというこの状況。普段なら緊張で碌に頭が働かないところだが、今回限りはそうもいかなかった。分からない事、考える事が多くて、そういう気分にはさせてくれない。


「ねえ間定君」


 隣から丁が声をかけてきた。多分考え事で難しい顔をしていると思ったのだろう。いつもより遠慮がちで心配そうな表情で俺を見る。


「さっきはその、『帰れって言われても帰らない』みたいな態度取っちゃったけど……。いざって時に役立たずな自覚はあるから……迷惑ならやっぱり——」


 そうして俯きがちに口を継いで出たのは、少し意外な言葉だった。いや、普通の人なら別におかしくない。丁が言うからそう思った。


「らしくないな」


 率直にそう言い返す。案の定というか、丁は驚いた表情で顔を上げた。いつもくらっている不意打ちをやり返した気分になって、俺は何となく笑いそうになる。


「散々突き放すように仕向けたのに、何にも気にせず俺に話しかけ続けたのはどこの誰だよ?」

「それは、ごめん。あの時は事情も知らなくて……どうしても性分で」

「別に責めてねえよ。寧ろ感謝してもしきれない」


 前に同じようなお礼を言った事がある。狂狸の襲撃があってから、初めて学校に行った時だ。丁がいなければ、今の俺はなかっただろう。手を伸ばし続けてくれたお陰で、殻にひびが入って砕けて消えた。


「丁には、鈴がどんな風に見えた?」

「……不安そうだった」

「そういう時、丁みたいに優しい奴がいてくれるとホッとするんだよ。面倒くさく拗れた俺でも、最後には心からそう思ったんだ」


 そう自虐的に笑ってみせた。相変わらず下手くそな笑顔だろうなと自覚はしている。


「だからさ、時間さえあれば会いに行ってやってくれよ。俺にしてくれたみたいに」


 心を開く相手は、多いに越した事はない。それだけ気持ちが楽になる。吉城だけでなく丁も、鈴にとって強く信頼出来る存在になれば、分かる事が大きく増えるだろう。


「ただ危険がゼロとは言えねえから、いざって時は自分を優先してくれ。さっきと繰り返しになるけど、本当にこれだけは……」

「…………」


 つい仕事(・・)の感覚で一方的に喋り続け、丁の様子に気づくのが遅れた。

 見た事のない表情をしている。大きな目は動揺したように軽く揺れ、むず痒そうに口を噤んでほんのり頬を赤くしたその様子は、まるで、恥ずかしがっているような……。


「……丁?」

「! いや、聞いてたよ! ただ改めてそういう事言われると思ってなくて……は、励ましてくれてありがとう! 私でも力になれるなら喜んでやるよ!」


 すぐに笑顔で取り繕おうとするが、赤みがかった顔は既に誤魔化しようがなかった。丁は再び口を恥ずかしげに閉じ、少し俯いて黙ってしまう。

 仕事仕様になっていた脳味噌が、ジワジワと熱を帯びてくる。特別意識せずに喋ったさっきの台詞と、丁の新鮮な反応が組み合わさった瞬間、抗いようもなくあっという間に思考回路はショートした。


「…………おう」


 そんな有様でまともな会話が出来る筈もなく、俺は一言そう返して丁から顔を背けた。

 もっとこういう事に余裕があれば……という後悔に襲われる。さっきの丁は、正直言って……ずっと眺めていたいくらい、物凄く、可愛かった。……何考えてるんだ俺。


 その後はほとんど会話もなく、帰り道が分かれるところで一言ずつ交わしたのみだった。手を振る丁の顔がまだほんのり赤く見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。そして俺の方はどうだっただろう。……多分まだ赤かったと思う。熱いし。


「……ふーう」


 丁が見えなくなったのを確認してから、俺は大きく息を吐いた。少しは落ち着いた、気がする。今日は色々と気が休まらなかったな。早く帰って氷凰でも眺めながら日常を思い出そう……。


 せっせと足を動かすうちに、見慣れた家はいつの間にか目の前だった。門を潜って中庭を横切り、引き戸を開いて玄関へ。


「ただいま」


 返事は返ってこないが靴は一足揃っている。その横に自分の靴を並べて脱ぎ、居間に上がれば、卓袱台の前に不貞腐れた面の氷凰が座っていた。


「何だ遅かったな。どこで油を売っていた。腹が減ってきたぞ、さっさと何か作れ」

「落ち着くわ……」

「は?」


 氷凰が頬杖をつきながら怪訝な目で俺を見る。その偉そうな態度と上からの物言い。この感じだこの感じ。ああ落ち着く。


「晩飯にはまだ早いだろ」

「遅い帰りの上に私に意見か? 随分偉くなったものだな鱗士の癖に」

「いい感じに落ち着いてきた。そういうのもっとくれ」

「……何なんだ気色悪い」


 氷凰の目が不気味なものを見る目に変わり始める。そんな風に思われるのは流石に癪なので、そろそろやめておこう。正直自分でもおかしいと思う。


「まさかあれか? 由于夏といい事でもしたのか?」

「吉城の所行ってただけだ。いい事とか言うな」


 程々に平静を取り戻した俺は、適当に受け答えしながら部屋へ向かった。荷物を置いて、手早く制服から着替えてまた居間の方へ戻る。

 何となく飲み物が欲しくなってそのまま台所に向かって、誰かが何かした形跡があるのに気づいた。具体的には、茶葉にまみれた急須が放置されている。


「お茶入れたのか? お前が?」


 普段そんな事はまずしないので、俺は軽く驚きながら氷凰の方に振り返った。よく見れば、卓袱台の上に湯飲みも置いてある。


「別にいいだろう」

「悪いとは言ってねえだろ。見るに入れるのは下手くそっぽいけど」

「やかましい! どのようなものであろうと、私が入れたものだぞ! それだけでありがたいと思え!」


 どうやら若干機嫌が悪いようだ。そんなに上手く入れられなかった事が腹立たしいのだろうか。それともまだバウムクーヘンの事を根にもっているのか。

 苛立っているなら無理に触れるのはやめようと思い、とりあえず急須を綺麗に洗って所定の場所に戻しておく。そして当初の目的を思い出した俺は、冷蔵庫を開こうとして……再び視線と意識が別の方に逸れた。


「……オイ」

「何だ、まだ私の茶に文句が——」

「何でこれがこんな所にある?」


 鬱陶しそうにこちらを向いた氷凰の顔が、瞬く間に青ざめてゆく。その視線はフラフラと泳ぎつつも、俺の持つ紙袋の方に注がれていた。


「お前、まさか盗んで……」

「違う! そんな事すればどうなるか想像出来ないほど馬鹿じゃない! ……誰が馬鹿だ‼︎」

「一人で何言ってんだ」


 まあそこは信じてやってもいい。コイツが人に危害を加えるような事をすれば、俺がどうするか。その覚悟は今も変わっていないつもりだ。氷凰も分かっているだろう。

 かといって氷凰が一人で買い物出来るとは思えない。とすると、誰かから貰った?


「誰か来たのか?」

「! そう、そうだ! 景生の知り合いの……冬汰が持ってきた!」

「冬汰って……荒崎さんか。何で?」

「用件は知らん。明日貴様に直接話すとか言って、茶も飲まずに帰りおった……私が出してやったのに」

「なるほど」


 色々と合点がいった。バウムクーヘン貰って気分を良くしてお茶を出したが、口もつけられなかったのか。


 ……まあ、そうなるだろうな。


「…………」


 荒崎さんが、わざわざ訪ねてきた。それも直接俺に用がある。このタイミングで。


 ……嫌な予感がする。







 鱗士と由于夏が帰った後になっても、守助は落ち着かないままに過ごしていた。いつものルーティンで、着替えて洗濯物を取り込んでから、今は学校で出された課題に取り組んでいる。


 しかし頭にちらつくのは鈴に関する事ばかりで、ほとんど手につきはしない。ジワジワと事が大きくなって、いつの間にか守助と鈴だけの話ではなくなってしまっていた。

 とにかく落ち着かない。守助にはその理由がよく分かる。不安だった。もしもこの先、鱗士の言う『ヤバイ』事態が訪れた時、鈴はどうなるのか。鱗士や由于夏はどうするのか。


 自分はどうするのか。


「もりすけ、お腹すいた」

「え? もうそんな時間か……」


 時計を見ると、時刻は現在午後六時半頃。いつの間にか夕飯時になっていた。頭をぐるぐる巡らせているだけで、時間は何の変化もなく過ぎてゆく。そしてお腹も空いてゆく。


「……あ、買い出し忘れてた」


 先送りにしていた食材調達も、最近のゴタゴタで記憶の彼方に消えていた。現在、冷蔵庫の中はほぼ空だ。


「ごめん、買い物してくるからちょっと待っててな」

「えー……じゃあ一緒に行きたい」


 鈴の初めての申し出に、守助は一瞬考える。しかしそもそも普通の人には見えないのだと思い出し、答えはすぐに決まった。


「分かった。離れちゃ駄目だぞ」

「うん!」


 溢れんばかりの笑顔で、立ち上がった守助の手を握る鈴。仮にも保護者として、頼りになるとは言いがたい自分を、こんなにも無邪気に慕ってくれている。嬉しいついでに、不甲斐ない気持ちが込み上げた。

 こんな不安に駆られたままで、頼りにされる資格はあるのか。


(ああ駄目だチクショウ! そういう事じゃねえだろ……しっかりしろよ吉城守助!)


 握られた手に軽く力を入れて握り返す。不安だろうと、資格がなかろうと、それは何もしなくていい理由にならない。既に心に刻んだ筈の矜持を、守助は今一度刻み直した。


 玄関を出て階段を下りる。握ったままの鈴の手は、守助の手の中に収まるほど小さい。目を離せば、どこかに行ってしまいそうだった。

 鱗士や由于夏のような強さがなくても、出来る限りを尽くして守りたい。壊れないように優しく握り続ける。絶対離さないと言い聞かせながら歩いた。


「俺なんかを頼ってくれてありがとう」

「?」


 言葉の意図を確認するように、鈴が見上げてくる。それを説明する代わりに、守助は笑顔を返した。


 何を買おうか。

 また鈴の好きな焼きそばを作ろうか。


 そんな何気ない事を考えていた時、二人の周囲に影が差した。


「……え」


 大きな何かが真上に現れて、二人に注ぐ僅かな日差しが遮られたのだ。


「見ツケタ……」


 不気味な声が降ってきた。

 体が固まって動かない。

 指一本すら、動かない。動かない……。

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