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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第3章「か弱き逃避行」
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第53話「氷凰、見つかる」

 電柱の陰に隠れながら、そいつの背を見失わないよう睨みつける。昨日は何故か全速力で走り去っていたが、今日はそういう訳でもないらしい。首にかけていた妙なものを頭に装着して、小僧はゆっくり歩き続けていた。


「ああくそ……何でこんな事に」


 ばうむくーへんを頬張りながら、私は小声でぼやく。昨日鱗士が買ったものはその日のうちに食べ尽くしたので、これはいつも食べている普通のばうむくーへんだ。

 これも美味いが、昨日のは正しく別格だった……。しっとりしていて、芳醇な桃の香りが口に広がっては鼻から抜けていき、残るのは一生味わい続けていたい圧倒的な余韻。あんなものがこの世に生まれたのなら、百年の眠りも悪くないとすら思えた。


 しかしもう一度あれを味わうには、あの小僧の監視を続けなければならない。それも、私の姿が見られたという不都合を隠しながら。


 面倒な事になった。新しくばうむくーへんを取り出しながら、視線と殺気を小僧の背中に飛ばす。

 全てはあの小僧が私を目撃したせいだ。覚悟しておけよあいつ!


「……が……い——♪」

「?」


 そんな私の苦労など知りもしない様子で、小僧は何かを口ずさんでいる。遠くてよく聞こえないが、どうやら歌っているようだ。

 近くに人気がないからって一人で急に……変な奴。思わず苛立ちが失せてしまった。


 しかし、見れば見るほど霊気は普通だ。妖怪が見えるようにはとても思えない。どこにでもいる、その一言でかたがつくただの小僧。

 私にとって面倒で厄介な状況なのは本音だが、興味が全くない訳でもなかった。何故あいつはあの時、私の姿が見えていたのか。どういう秘密があいつにあるのか。


「…………」


 まあ小難しい事を考えるのは性に合わんから、とりあえず適当にやり過ごして何か分かれば良しとしよう。


 そういう訳で尾行続行だ。今のところ私に気づいている様子はない。電柱から電柱、時に曲がり角に身を潜めながら小僧を追い続ける。

 因みに昨日は空中から見下ろしていたのだが、見つかった上に小僧が時たま空を見上げる動作をするので、今は歩きだ。


 あいつもやはり、私の事を警戒しているらしい。見上げた状態で何か探すように、頭を動かしたり振り返ったりする事もある。ちらりと見える表情もおっかなびっくりな様子だ。

 そうしてキョロキョロするうち、数回私と目が合った。小僧の様子に変化はないので、やはり今は私の事が見えていないらしい。


「……ん゛んっ」


 試しに大きめの咳払いをしてみた。小僧は特に反応しない。当然だろうが、聞こえていないらしい。


 ……どこまでならバレないんだ?


 逆らいがたい好奇心で、体がうずうずし始めた。例えばこう、足とか引っ掛けても私に気づかないのか?

 息を吹きかけたら流石に気づくか? もうあいつと一緒にいる妖怪なんかより、そっちの方が気になる。


「…………」


 気持ちを抑えられなくなり、遂に私は電柱の陰から飛び出した。小走りで小僧の背後に近づいてゆく。


「おい、昨日ぶりだな」


 横に並んで声をかける。無反応だ。キョロキョロしているが、こんな近くにいる私に全く気づかない。

 思わず口元を抑えて笑いを堪えた。何だこれ……もしかして楽しいんじゃないか?


「はぁー……」


 息を吸い込んで、肺に空気を溜め込む。それを凍り付く程ではないくらいに冷やして、小僧の首筋に吹きかけた。


「ふぅー」

「うぎっ⁉︎」


 小僧は目を見開き、奇声を上げながら肩を大きく跳ねさせた。私と反対方向に後ずさり、なお一層キョロキョロと頭を動かす。


「冷たっ! 何⁉︎」

「…………ぷくくっ」


 頰に溜まった空気が漏れて、滑稽な音が鳴った。口を手で塞ぐのでは処理が間に合わない。

 なんて事だ……人に気づかれないというのがこんなにも面白いとは! あの何が起こったか分からず目をぱちくりさせる様、堪らないな……!


「ええ……ええええええええええ?」


 頭の装置を外し、不安を顔一杯に広げながら視線を泳がせる小僧。後ずさりきって壁に背中がぶつかり、衝撃で「へぐ」、と間抜けな声が響く。


「あばばばばば……」

「……ん?」


 笑いを噛み殺しながらその光景を眺めていたのだが、様子がおかしくなり始めた。小僧の体がガタガタ小刻みに震え始め、目に見える速さで顔が青に染まってゆく。とくに膝がやばい。震えすぎてブレて見える。生まれたての子鹿の五倍くらい震えてる。


 流石の私でも心配した方が良いのでは、と考えがよぎった瞬間。小僧が膝から崩れ落ちてへたり込んだ。


「お、おい⁉︎」

「ががががががががばががが」


 実体化していないので無意味な呼びかけなのだが、つい声をかけてしまう程の様相だった。


 何だその顔色……死人か? 生きてる内にそんな色になる事あるか⁉︎ うわ、さっきからカチカチ鳴ってると思ったらそれ歯か! 震えて歯がぶつかってる音か! あと今どこを見てるんだ……眼球の動きどうなってるんだ……下手な妖怪より怖いぞ……。


「……息吹きかけただけだぞ」


 私の中に新たな感情が芽生える。

 これが……罪悪感か。







 息も絶え絶え、膝も未だガタガタ、顔面蒼白涙目のままではあるが、小僧はどうにか立ち上がって歩いている。まさか時計の長針が半周以上してもその場から動かないとは思わなかったが、無事……無事? まあ動き始めたので良しとしよう。


「ハアー……ッ! ハアー……ッ‼︎」


 それでも壁に手をつかないと上手く歩けないらしい。時たま横を通り過ぎる連中に怪訝な視線を飛ばされている。そしてそれを気にする余裕も持ち合わせていない。


 ……私が言うのも何だが、こいつよく今まで生きてこられたな。ここまでの根性なしを見るのは多分初めてだ。ちびっこくて敵意なしとはいえ、妖怪を家に連れ込んでいる奴だとは思えない。不意に鏡に映った自分を見たら死ぬんじゃないか?


 ……監視中にそうなった場合も、私が殺した判定にならないだろうな……全然関係ないのに。冗談じゃないぞこの腰抜け火薬庫。


「……着いた」


 弱々しすぎて気の毒になる声で小僧が呟く。安堵と緊張と警戒心が合わさる、ある意味器用な声色だ。

 小僧の視線の先に目を向けると、白く塗られた三回建ての建物が映った。昨日も訪れたこいつの家である。正確にはこれの一室だけだが。全部込みでも多分、鱗士の家の方がデカイ。……あいつ生意気だな。


「……! っ!」


 小僧は真っ赤な目を見開いて周囲を見渡す。警戒心がさっきので跳ね上がったのか、より念入りに辺りを睨みつけていた。

 まあこいつの臆病さならそうなるだろうな。私も流石にいらん事をした自覚はある。しかし悲しいかな、現状その警戒は全くの無意味だ。まだ私の事が見えていない。既に五回は目が合った。


「ハァ〜……」


 ひとしきり睨み終えると、小僧は大きく深呼吸した。かと思うと、力強く地面を蹴る。これまでの情けない牛歩が嘘のように、確固たる意志を乗せた歩み……否、走りだった。


「!」


 虚を突かれ、駆け足になるのが一瞬遅れる。小僧は少し先を既に曲がり、居室に続く階段に足を掛けているようだった。かつかつと硬質な足音が聞こえてくる。


 どうしようもない軟弱者なのは間違いないのに、急にそれだけでないような気配を垣間見せる。昨日もそうだ。私に攻撃の意思を見せるなど、今日の様子を見ている限り到底考えられないのに。

 やはり、変な奴。追いながら頭に浮かんだのは、先程と同じ感想だった。


 階段を上がる。目的の階に辿り着く。小僧は扉の前に立っていた。


「……あ」


 ここまで来て、はたと気づき私は踏み止まった。

 別にここまで近づく必要はなかったのだ。妖気か霊気に変化があれば、下からでも流石に分かる。というか、近づき過ぎるべきではなかった。さっき調子に乗った反動で意識が薄らいでいたが、見つかるとマズイのだ。この小僧は何らかの条件で、私を見る事が出来るのに。


「……⁉︎」


 小僧がびくりと肩を震わす。強張った不自然な動きで、少しずつ首がこちらに向き始める。


「……!」


 まずい、しまった。

 ……しまった!


 背筋を嫌な汗が伝う。

 思い切り足音を立てて駆け上がってきてしまった。今しがたも声が漏れていた。もし今、あいつが私を認識出来る条件が揃ってしまっていたら。


「…………」


 額に汗を浮かべる顔が、完全にこちらを向く。

 目が合った。


「「…………」」


 小僧の肩から、鞄がずり落ちた。

 互いに視線が逸れない。相手の瞳を見続けている。


「「…………」」


 訪れたのは沈黙だった。この世はこんなにも静かなものだったのか。なんて居心地が悪いんだ。しかしどうすれば良いのか分からない……この地獄を抜け出すにはどうすれば——


「……い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛い゛ぎや゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」


 そんな苦悩が、呆気なく消し飛ぶ。代わりに新たな地獄が訪れた。


「——————⁉︎」


 なんの前触れもなく大気を震撼させたのは、超絶大音量の金切り声。脳が振動の末に粉々になりそうな程強烈なそれに、私は堪らず耳を力一杯塞いだ。


「ッ‼︎」


 ほんの一瞬の災害が終わりを遂げる。発生源である小僧が、口を両手で塞いだからだ。あまりの事にちかちかとする目が、辛うじてその事実を捉えていた。


「も……もりすけ?」


 きい、と扉がゆっくり開く。中から小さくふわふわしたものが、恐る恐ると顔を覗かせた。さっきのが効いたのか、片手で頭を抑えている。


「……やってしまった」


 色々と言うべき事や考えるべき事はあるのだろうが、私は真っ先にそう思った。

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