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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第3章「か弱き逃避行」
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第50話「迷子?」

 その日の空は灰色だった。太陽を覆い隠す雲から、細かく大量の雫が漏れ出してきそうな日だった。


「……気が滅入るよなあ」


 梅雨入りをニュースキャスターがテレビの中で発表していたのが、確か三日前だった筈。そう考えるとこの空模様は妥当なのだろうが、愚痴を零さずにはいられなかった。


「マジで気が滅入るよなあ」


 もう一度独り言。何しろ洗濯物を溜め込んでしまった。一人暮らしの学生故に量は知れているも、彼のいるここは安いアパートだ。生活スペースは四畳半の和室のみで、あとはキッチンとトイレと風呂場と押入れ。既に圧迫感が凄かった。


(思い切って全部干しちまうか? まだ降ってはないっぽいし)


 ベランダを遮るガラス戸越しに空を見る。降る気配しかないが、踏みとどまってはいるようだ。部屋干しを回避したいという意地が、雨のリスクを背負う事を乗り越えんとしている。


(うし、もういい干すぞ!)


 目の前にある、洗濯物の山を積んだカゴに手をかけ持ち上げた。しかしガラス戸を開けていない事に気づいて一旦置く。勢いで行動したが故のタイムロスだ。


「せいや!」


 鍵を開け、無駄に力一杯ガラス戸を全開にした。反動で少し跳ね返ってきたが気にしない。振り返ってもう一度カゴを持ち、曇天のせいで全く照らされていないベランダに一歩出る。


 その時に、初めて気づいた。


「……へ?」


 少し汚れた、布を丸めたような何かが転がっている。さっきまでは空の方を見ていたせいで、視界に入っていなかった。

 何だ、これは。置いた覚えはないし、何かが飛ばされてくる程の風も吹いていない。完全に正体不明だ。


「とりあえず邪魔だな」


 足で隅にどけようとした時、布の塊が一瞬蠢いた。


「んどぅわ⁉︎」


 尻餅をついた反動で、カゴを後ろに放り投げてしまった。恐らく部屋中に洗濯物が散乱したが、そこに意識を回す余裕はない。驚きのあまり心臓が暴れ狂っていた。


「へ⁉︎ 何! 何か、動物⁉︎」


 その叫びに答えてくれるものは誰もいない。布の塊改め、布にくるまった謎の物体が存在感を放つのみだ。


(いやいやいやマジで何⁉︎ メッチャ怖いんだけど! 猫……にしてはデカイよ⁉︎ 幼稚園児くらいあるよねアレ⁉︎ 襲われたら余裕で死ねる‼︎ どうすんの! 俺食われちゃうの⁉︎ 五秒後には骨なの⁉︎)


 焦りに焦り、まともな思考が出来なくなる。蒸し暑さのせいもあってか汗がダラダラと全身を伝った。


 また布の中で何かが動き、同時に彼の肩が大きく跳ねる。顔面蒼白で涙目なうえに腰が抜けていたが、目を逸らさない。というか目を離した隙に変化が生じるかもと思うと、怖くて逸らせなかった。


 何も出来ないでいるうちに、再びそれは動きを見せた。ベランダをゴロリと転がって、布の端が解ける。


「ひっ⁉︎」


 それが引き金となり、何かを包む布がハラハラと広がり始めた。情けない悲鳴をよそに、その中身が露わになってゆく。


(いやちょ、まだ心とか何やらの準備がうわああ!)


「……あ?」


 風呂敷のように広がった布。

 その真ん中にいたのは、踞るようにして眠る女の子だった。


「よかった子供だ襲われねえ。……いや子供⁉︎」


 猛獣の類でなかった事に安堵し、すぐさま正体が人だった事の驚きに飲み込まれる。


 恐る恐る、這い這いの姿勢で近づいて観察した。やはりどこからどう見ても女の子である。ただしくるまっていた布と同様、体が少し汚れていた。一糸纏わぬ肌にはところどころに擦り傷らしきものも——


「……ってオイ何で服着てないんだよ。いやそれ以外にも意味分からん事だらけだけども」


 思わず目を逸らす。襲おうなどという気は微塵もないが、モラルがそうさせた。


(警察、だよな? こういうのって。なんて説明すんだ?『ベランダに知らない女の子が全裸で倒れてました』。……それ信じてくれんの? 変態誘拐犯にならない俺? でも実際そうなんだよ信じてくれよ……)


 水滴の音が聞こえた。


「ん?」


 ポツ、ポツと間隔が空いて数回鳴った後、連続して無数に連なり始める。

 雨が降ってきた。


「あーあ……」


 ついぞ洗濯物は干せなかった。

 いつまでもベランダにいる訳にもいかないし、謎の少女をこのまま放置する訳にもいかない。彼は仕方なく現状の理解を諦め、少女を抱え上げて部屋に戻った。







 洗濯物は隅に寄せ、布で包み直した少女を布団に横たえた。ざっと見た感じ、命に別状はなさげである。死なれたらたまったものじゃない。いや、そもそもこの状況もたまったものじゃない。


「おーい……もしもーし?」


 柔らかい頰を軽くペシペシ叩く。冷たいが不快じゃない、不思議な触感だ。


「……んう」


 少女は声にならない唸り声を漏らしただけで、目を覚ます素振りを見せない。


(やっぱまず警察か救急に連絡すべきか? 誤解がどうとか考えてる間に何かあったらそれこそヤバ——)


 何の気なしに、ウェーブがかった薄茶色の髪を撫でていると。


「?」


 手が何やら硬い異物に触れた。髪の毛に小石でも絡まっているのだろうか。ぶつけて頭を怪我すると危ないと考え、少女の髪を掻き分ける。


「どこだ?」


 額と頭頂部の間あたりをくまなく探した。しかし結果を言うと、小石なんてものは少女の髪に絡まっていなかった。


「あ、今また触った……この辺、か……?」


 代わりに見つけたのは、琥珀色で硬くて先端が丸みを帯びた突起物。


「へ」


 有り体に言うと……一本の角だった。


「…………」


 少年の表情が急激に強張る。

 手を少女の頭から離す。

 掻き分けてあった髪がフワリと戻る。


(…………えッ‼︎⁉︎)


 驚きをとっくに通り越し、彼を襲ったのは凄まじい恐怖だった。自宅のベランダに見知らぬ少女がいた事すらも霞む、圧倒的な衝撃。


(……人間、じゃ、ない⁉︎)


 見間違いを期待して、もう一度少女の髪を掻き分けた。そこにあるのは、やはり琥珀色の突起物。髪に絡まってなどいない。確かに頭から直接生えている。


(えええええええええええええーーーーーーー‼︎⁉︎)


 手を離して後ずさりする少年。

 あまりに非現実的だが、目の前の少女が現実であると叩きつけられた。人間じゃないものを、果たして警察や救急は扱ってくれるだろうか。


「どぉーすんだよ……」

「う?」

「‼︎」


 その時、少女の瞼が僅かに開いた。数回瞬きを繰り返し、目をこすりながら上体を起こす。細い隙間から覗く瞳は、角と同じ琥珀色だった。


「あば……」

「…………」


 ゆっくり首を動かしながら部屋を見回す琥珀色が、やがて少年の目とかち合った。状況を理解していないらしく、どことなく抜けた表情で少女は動きを止める。


「ええー……と。お、おはよう?」


 どう対応すればいいか分からず、とりあえず挨拶してみる。顔も声も引きつって、おっかなびっくりという言葉がここまで似合う様は他にないだろう。


(……せめて何か言ってくれよお! 怖えよお!)


 そんな彼の言葉にも反応せず、ぼーっと視線を送り続ける少女。地獄のような間に少年が押し潰されそうになった、その時。


「⁉︎」


 少女は突然目を見開き、息を飲んで縮こまった。大きな瞳から伺えるのは、恐怖の感情。体も小刻みに震え、纏う布をぎゅっと掴んで強く体に密着させる。そして座った姿勢のまま後ずさり、背中が壁に着く距離まで少年から離れた。


「あ……」


 少年はその態度を目の当たりにして、冷静さを取り戻した。

 予想もしていなかったものと出会う恐怖。それが全くの未知だった恐怖。自分の感じたそれを、この少女も同じく感じているのだ。


「ゴ、ゴメンな? 怖いよなそりゃ」

「…………」

「起きたらこんな狭い部屋に、知らねえ男と二人きりなんて、俺よりもよっぽど怖いよな。気が付かないで、ゴメン」


 自分は何を勝手にビクついていたのだろう。何を情けない事を考えていたのだろう。


 少女を安心させようと、何とか笑顔を作り出す。元よりあどけないと表現される事の多い顔だ。少しは落ち着いてもらえるかもしれない。


「大丈夫、大丈夫だから。俺は吉城守助(よしじょうもりすけ)。とって食ったりしねえよ」


 立膝の姿勢で、出来るだけ目線を同じ高さにしながら話しかける。当然ながら、まだ警戒されていた。下手に近づくのは逆効果と考え、そのまま更に言葉を繋ぐ。


「色々聞きたいけど、まずは落ち着かなきゃだよな。風呂にも入った方が良さそうだ。使い方分かるか?」

「……?」

「いや、初めて聞きましたみたいな顔。まさかだろ」


 いやしかし、相手は角のある少女だ。普通の人間とは違う価値観や文化を持っているのかもしれないと思い直す。

 かと言って、自分が入れてやれる程心は開かれていない。守助が頭を抱えていると、空腹を訴える虫の音が少女から聞こえてきた。


「むう……」

「そっか、お腹空いたか。ちょっと待ってな」


 守助は立ち上がってキッチンへ向かった。冷蔵庫から昨夜の残りの焼きそばを取り出し、電子レンジに投入する。数分経って温まったそれを、フォークと一緒に持って戻り少女に差し出した。


「ほれ。口に合うか分からんけど」

「……?」

「そんなに熱くなってないって。変なもんも入れてねえし」


 少女は怯え逡巡しつつ、焼きそばと守助の顔を交互に見る。それでもぎこちない持ち方でフォークを手にし、焼きそばをこれまたぎこちなく取ろうとした。

 しかし、慣れないのか上手くいかない様子だ。何度か試すも、隙間から麺がずり落ちてしまっている。


「貸してみ」


 守助は少女の手から優しくフォークを取り、十分な量を巻き取って口の前まで運んでみせた。


「あーん」

「……あ、あー」


 恐る恐る開いた口に、そっと焼きそばを運び入れた。閉じたタイミングでフォークを抜き取り様子を伺う。

 ゆっくり咀嚼する少女。不安に塗れていた瞳が、僅かに活気付いたように見えた。少なくとも不味くはなかったらしいと、守助は胸を撫で下ろす。


「…………」


 口を動かしながら、少女は少し俯いた。もう震えてはいなかったが、今度は肩が不規則に跳ね始める。


「……どうした? 大丈夫か?」

「う……ひっく」


 その言葉がトリガーとなったのだろうか。大粒の涙が溢れ出し、少女の頰を大量に伝っては落ちていく。


「え、アレ⁉︎ どっか痛いのか⁉︎ そ、それともやっぱ不味かった……⁉︎」


 焦る守助に対し、大きく左右へ首を振る。

 そして少女は、目の前にある胸に抱きついた。


「……!」

「うぅ……あったかい……怖かった……!」


 初めてまともに聞いた声は、酷く憔悴しきっていた。

 咄嗟に手を上にしてどけていた焼きそばを、ひとまず床に避難させる。自由になった両手で、守助は少女の頭と背中をそっと撫でた。


「名前は?」

「……(すず)

「大丈夫。もう大丈夫だからな、鈴」


 鈴が泣き疲れてまた眠るまで、守助は胸を貸し続けていた。

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