第48話「氷凰と煉鮫」
最初に案内された客間の中で、俺は胡座をかいて俯いていた。机の上に置いた手が、俺の意思とは関係なく、指を絡ませては解いてを繰り返す。
「落ち着け。貴様が焦っても仕方ないだろうが」
向かいに座る氷凰が、頬杖つきながら半目で俺を見る。言うだけあって、コイツはいつも通りふてぶてしい。
「……分かってるよ」
口ではそう返したが、焦りが消える筈もなかった。
あの時散り散りにされた後、俺以外がどうなっていたのか。それを知ったのは、ついさっきだ。
空間転移を回避した氷凰は、自力で帰還した龍臣と早い段階で合流し……虎乃は、あの血を操る妖怪と遭遇した。
霊気と妖気の衝突を辿り、氷凰たちが到着した頃には、既に虎乃は倒れていた。氷凰が応戦して追い詰めるも、トドメを刺す寸前に逃げられて……後は俺の知る通りだった。
龍臣の探知と、焔ヶ坂山からの使者による入山補助。そのお陰で氷凰はここに突っ込んでこれた。そのお陰で黒禍を守りきれた。何だかんだで、やっぱり頼りになる。
「…………」
そして、瀕死の虎乃が運び込まれてきたのが、その三十分ほど後。
その様に俺は絶句した。霊気は弱り乱れに乱れ、直に目で見なければ、虎乃なものだと気づけなかっただろう。あの血を大量に浴び、顔色も青白くて、荒かったらしい呼吸はとても浅くなっていて……。考えないようにしていた結末が、再び牙を剥いて迫ってきている風に見えてしまった。
そんな状態の虎乃が治療のために運ばれていって、一時間程度経って今に至る。酒で中和出来そうである事は伝えた。俺に出来たのはそれだけだ。龍臣は治療の手伝いを名乗り出て、今頃尽力しているだろうに。
「やっぱり、俺も手伝いくらいなら」
「まだ言ってるのか。貴様だって怪我人なんだろう? そんな奴が行っても邪魔なだけだ。身の程を弁えろ」
氷凰がうんざりしたように溜め息を吐く。一瞬だけ正面を睨んだが、俺はまたすぐ俯いた。
言い方は癪だが、実際そうなのだろう。それでも……大切な人が苦しんでいる時に何も出来ないのは、辛い。こんな気持ち、もう二度と味わいたくなかった。
「……貴様の中では、虎乃はその程度の奴か?」
驚いて指の動きが止まる。思わず顔も上げていた。氷凰は頬杖を止め、居心地が悪そうに頭を掻いている。
「氷凰」
「な、何だ。いくら憎き貴様といっても、目の前でいつまでもうじうじされるとだ……」
「お前に気を遣われると気持ち悪いな」
「捻り飛ばすぞ」
軽く言葉のジャブを交わし合う。おかしな事に、こんな事で気が少し楽になっていた。元を辿ると、本気で殺されかけた仲だというのに。つくづく、奇妙な関係だな。
そんな事を考えていると、どこからか物音が聞こえてきた。近くの部屋で重い物が倒れたような。
「何だ?」
「知るか」
続けざまに、また同じような物音。その寸前に、「ゴフッ」という……なんというか、殴られた時に出るような声が聞こえた気がした。
「……今の声か?」
「……ううん?」
俺の中に走る、嫌な予感。さっきまでの不安とは違う種類の感覚。
必死だったせいか、何か大切な事を忘れている気がする。絶対に見落としてはいけなかった筈の何かが、今の俺から抜け落ちてしまっている。
「…………! ……んやね…………!」
物音に紛れ、聞き覚えのある声が響き始めた。いくつか部屋を隔てた先で、何か喚いてる奴がいる。
「……あ」
「あ?」
「あっ‼︎」
すぐに立ち上がり、俺は襖を開けて飛び出した。
思い出してしまった……。
あれは去年、虎乃が二十歳の誕生日になった日の事だ。当然の如く、虎乃は酒を飲みたがった。よくもまあアイツが二十歳までちゃんと我慢出来たなと、俺と師匠と龍臣が関心していたものだ。
あの時は確か、たった一本の缶ビール。それを虎乃が飲み干した後……。それはそれは、凄惨たる光景だった。とても文字にする事は出来ない。
最終的に、俺は無理やり詰め込まれたつまみの唐揚げを全てリバースし、龍臣は卓袱台に叩きつけられて額を割られ、師匠は怒り狂った。
「……!」
騒がしい部屋を見つけ、思い切り襖を開く。
「何やオラァ‼︎ 触んな押さえつけんなセクハラやでコラァァァ‼︎」
「静まるのだ! お主重症なのだぞ⁉︎ 酒の入った状態で暴れるでない!」
うわあ……。
最悪な事に予想通りだ。部屋の中で喚く虎乃を、車骨が必死に抑えようとしている。そして棚やら何やらは床に倒れまくっている。既に割と暴れてしまっている。
「! おお鱗士殿! 済まぬが手を貸してくれぬか! 傷を大方塞いでから酒を摂取させたまでは良かったのだが……!」
「スマン……こっちがスマン。本当スマン」
「おおお! アッヒャハハハハハハハハ! 鱗くぅん! 鱗くぅぅぅぅぅん‼︎」
「うわあああ……」
目が血走ってる。
顔はさっきの青白さが嘘のように火照ってる。
怖い。今日イチで怖い。
「長は死亡した者達の供養の為居らず、龍臣殿は虎乃殿の放った拳が顎に命中して白目を向いてしまった! 申し訳ないが、今頼れるのはお主だけなのだ!」
「龍臣ーーッ⁉︎」
結論から言おう。
虎乃はもう大丈夫だが、龍臣が大丈夫じゃなくなった。
*
鱗士が血相を変えて出て行ったせいで、私は部屋に取り残されてしまった。襖も閉めずに、何をそんなに慌てる事があるというのか。
「……ふむ」
しかし、それなりの苦労をしてここまで来たというのに、到着した瞬間に決着がつき、後は何もやる事がないとは。いささか拍子抜けな気もする。
朝に出発し、今や日が落ちているのだ。時間に対して、最終的に目的地でやった事が少な過ぎやしないだろうか。別にいいが、何となく損した気分だ。
というか暇だ。
私も部屋を出るとしようか。全くの偶然であるが、面白い相手がいた事だしな。
「氷凰」
「!」
丁度立ち上がろうとした時だった。開けっ放しの襖の向こうに、例の面白い相手が立っている。
「……まさか貴様が、こんな所で大将をしているとはな。ええ? 煉鮫」
私や狂狸と同じ——【無間の六魔】が一角。逆立った髪に、赤く鋭い瞳をした男。そいつに向かって頬杖をつき直し、私は皮肉を込めて笑いかけた。
「お前こそ、退魔師の少年と共に行動しているとは思わなかった」
煉鮫は部屋に入って襖を閉め、私と対面する位置に座った。
「ふん。好きでそうしてる訳じゃ——」
「何より、話が通じる事に驚いている」
「おいこら焼き魚!」
何だ、おい。鱗士といいこいつといい、私を小馬鹿にしないと死ぬ呪いにでもかかってるのか? しかもこいつに至っては百年ぶりに顔を合わせて、第一声がそれとはどういう了見だ!
「睨むな。馬鹿にしたんじゃない」
「貴様……私を獣か何かとでも勘違いしていたのか?」
「ああ、正直そう思っていた」
「あ⁉︎」
こいつ山ごとブッ刺して殺してやろうか!
拳がわなわなと震え、今にも弾けてしまいそうだ。
「すまん……しかしそれ程までに、今のお前はあの時とは別人だ」
「ハン。そうかそうか、今の私は牙の抜けた獣か」
何故こんなにも苛つかされなければならないのか。面白い相手? 撤回だ撤回。鱗士以下だこんな奴。
「……いや、少し違う」
「何がだ?」
「牙の抜けた獣。鱗士の話を聞いた時は、私もそうなったのかと思った。だが、こうして会って話してみると……上手く言えないが」
煉鮫は釈然としない様子で、目と目の間に指を置く。違和感を内包した目で私を見る。
何となく空気が変わった気がした。私は無意識のうちに頬杖を止める。
「あの時のお前は……獣の牙を生やされていた……」
「何……?」
「いや、分からない。分からないが……今のお前が、本当のお前なんじゃないか。ほんの一瞬話しただけだが、そんな気がする」
「いや待て、意味が分からんぞ。貴様は何を言ってるんだ」
気づけば、机に両手をついて身を乗り出していた。嫌な気分がする。嫌悪だとか敵意じゃない。これは、この感覚は……。
「何度も言うが、詳しい事なんて私には何も分からない。根拠も何も存在しない。ただ私がそう感じただけの事だが、それを踏まえて言おう。今のお前と昔のお前を比べてみると、後者の方が圧倒的に不自然に感じる」
「だから意味が分からん! 貴様は何をもってそんな事を言える⁉︎ 私の何を知っている⁉︎」
「逆に聞こう。氷凰、お前は百年前の自分をどう思う? あの災害の如き憎悪の源はなんだ? 今のお前の中にはないのか?」
全身が強張った。
喉に言葉が詰まった。
「……そ、れは…………」
百年の眠りから目覚めて、程々に時は経った。かつての事は何度も思い返した。ひたすらに暴れていた事は覚えている。狂狸や煉鮫、それ以外の【六魔】と殺し合った事だって覚えている。
「…………」
だが……他の細かな部分や、それより先を覚えていない。
「……っ」
私は口を開けたまま固まっていた。
私が私である前……そこで『何か』があったのは間違いない。狐娘との戦いで、それだけは思い出していた。しかし、その『何か』がどんな事なのか。どのようにして私を駆り立てたのか……。
それが、どうしても分からない。
私は何故あの時、人間を憎悪し力を振るっていたのか。分からない。
あの時の私はどこへ消えたのか。分からない……。
今しがた抱いた嫌な気分が何なのか、ここまで考えて理解した。
狐娘と戦っていた時は逆だった。更に記憶を掘り起こせれば、かつてのような力が戻ると思っていたのに。あの時は前向きであったのに。
煉鮫の言葉が、私に薄気味悪さを突き付けた。今の私は、思い出す事を恐れている。避けたいと思っている。あの程度の会話で、この私が後ろ向きになっていた。
「【憎】なる組織も気になるが、お前の事も不可解だと私は思う」
「……戯言だな、たわけ」
乗り出していた身を引っ込め、私は座り直す。ただでさえよく分からなかった自分の事が、また分からなくなった。何なんだ、私は。何があったんだ。
机に視線を落としても、答えがある筈もなかった。
「話す気分じゃなくなった」
「……そうか。私もまだやる事がある」
煉鮫は立ち上がり、襖を開く。
「今のお前には、頼る相手がいる。大切な事だぞ」
振り返らずにそう言い残し、襖は閉められる。
また私だけ残された。




