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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第2章「焔ヶ坂山険道中」
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第47話「鮮血の執念」

 酒瓶をもう一本左手に持った。右手では変わらず“鎖盾障壁”を張り、洪水のような血を防ぎ続ける。

 コレ(・・)が具体的に、どの程度の効果を生むのかは分からない。しかし有効である事は確信した。ここで決めてやる。


「ぐ……」


 打ち付けられて体は痛むが、大した事はない。大量の血を浴びたであろう、彼らに比べれば。虎乃に比べれば。


「……!」


 想像したくもない光景が一瞬よぎった。頭を振って振り払う。

 死んでない。絶対に死んでない。解毒出来る可能性も見つけた。大丈夫だ。だから今は、奴に勝つ事だけを考えろ!


 右手の角度に気を使いながら立ち上がった。押し倒されないようしっかり踏ん張る。酒瓶は背中に隠し、呼吸を整えた。


 激流の勢いはさっきより弱い。いくら不死身に近くても、血の量は無限じゃないようだ。流れはこっちにある。


「っ」


 勢いが、更に弱まる。

 左に身をずらし、“鎖盾障壁”の角度を調節しながら、俺は床を蹴った。


「ウオラアアアッ!」


 吹き出してくる血を右に逸らすように構えながら、真っ直ぐ奴の元へ突っ切る。


「ハァ……? どういうつもりよ」


 奴は軽く肩を揺らしていた。やはり、あのレベルの出血は消耗が激しいらしい。格好はつかなかったが、さっきの挑発も無駄じゃなかったというところか。


「突っ込んでくるんなら、この方が手っ取り早いって分かんないの⁉︎」


 噴出が止まり、再び奴の血が固体化した。細長い枝状になり、俺を突き刺そうとする。

 鎖を少し巻き取り、“鎖盾障壁”の大きさを絞った。小さくした分動かしやすくなり、枝をピンポイントで防御していく。


「……ッ!」


 奴は困惑している様子だ。鎖分銅を振り回す俺の戦い方なら、中距離戦の方が有利な筈。なのに肉迫する勢いで接近し、頼みの武器は盾に専念とはどういう事だ。

 大方、そんな風に考えてあるのだろう。


 その混乱のせいか、というよりもこれまでの消耗のせいか、血の枝による攻撃はさほど激しくない。枝分かれして不意を突かれかけはすれど、防げない攻撃じゃなかった。


「くっ!」

「……!」


 何度目かの防御の末。奴との距離は目と鼻の先となっていた。

 背に回していた左手を振り上げ、一際強く床を蹴った。奴の視線が、自然と左手の方へ向かう。


「……な⁉︎」


 瞬間、奴の顔から血の気が引いた。目を見開き、表情が焦燥の波に飲まれたのがはっきり分かる。

 どうやら想像以上の一手を、俺は偶然にも手にしていたようだ。


「止めて——」

「今更通るかよ」


 祈るような言葉。それを無視し、躊躇も容赦もなく。中身の入った酒瓶を、俺は奴の頭に振り下ろした。


「ガ……」


 防御しようと手を上げかかっていたが、間に合わなかった。瓶の破片が床に散乱し、奴は中身の液体を頭から被ってずぶ濡れになった。


「何、で……」


 奴の顔に苦悶が浮かぶ。ガタガタと震え始め、まるで耐え難い激痛に襲われているかのように、胸を押さえて踞る。


「あが、ああああああ‼︎ 治れ! 治れ治れ治れ治れ治れ治れ……‼︎」


 悲鳴と嘆願を混ぜ合わせた声。奴が自分で開けた胸の穴からは、未だに血が流れ続けている。


「ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな……こんな、こんな偶然のせいで、こんな……ッ!」


 屈んだまま俺を見上げ、跳ね上がりながら手を伸ばしてきた。奴のひん剥かれた目には、大粒の涙が溜まっていた。


「こんな事ォォォォォォ‼︎」


 なりふり構わず、とはこういう事を言うのだろう。距離こそ近いが、それだけだった。この手が俺に届く未来が、欠片も見えない。


 だから、それを躱してカウンターを打ち込む事は、何も難しい事じゃなかった。


「“徹甲鎖拳”」


 鎖が巻きつき、霊気を噴出しながら放たれる拳。それが、がら空きだった奴の腹に直撃した。


「ゴホッ」


 空気が無理矢理押し出され、声とも呼べない異音が漏れ出す。拳を振り抜き、そのまま奴の体を吹き飛ばした。背中から床に墜落し、防御姿勢もとらずに転がってゆく。


 俯せの体勢で奴は止まり、咳とともに血を吐いた。痙攣する手で体を持ち上げようとしている。胸の穴は、まだ塞がっていない。


「…………」


 痣に意識をやるとよく分かる。奴の妖気は異常なほどに乱れていた。纏わり付いて侵入してくるような、あの底なしの禍々しさが感じられない。

 毒としての効果はおろか、あの様子を見るに再生力までもが著しく阻害されているようだ。奴の強み全てが、たった一本の瓶で帳消しになっていた。


 ……実力で言えば、勝てたかどうか分からない。

 車骨や煉鮫との連戦による消耗。

 偶然手にした酒瓶。

 好条件が重なったからこその状況……。


 一抹の悔しさを胸にしたまま、俺は奴に近づく。


「【憎】について、色々聞かせてもらおうか」


 苦しげな表情のまま、奴は俺を睨んだ。這いつくばり、口と傷から血を流しっぱなしにしながらも、俺に向く殺意だけは微塵も衰えていない。


「……あそこに、酒があるなんて……分かってたら……こんな事には……」

「だろうな」


 その悪態には、素直に同意しておく。


「【憎】の首領は?」

「…………」

「黒禍はいくつ持ってる?」

「…………」

「構成員の数は?」

「…………」

「狂狸について何か知ってる事は?」

「…………」


 奴は何も答えない。ただ、涙を溜めた目で俺を突き刺すように見ているだけだ。何も教えてやる気はない、という意志がひしひしと伝わってくる。


 何を聞いても無駄なようだ。

 だったら、終わりにしてやるよ。


「お前さあ……何をもう勝ったつもりになってるのよ……」

「っ?」

「確かに、酒は私の弱点……毒も再生も覚束なくなる……こんな傷も治せないほどにね…………」


 不穏な空気が俺を撫でる。何か見落としたか……?

 しかし現に、コイツは既に死に体だ。この状況から、更に奥にある黒禍の部屋まで、俺を退けて侵入する方法なんて……。


「ハッ……⁉︎」


 ……しまった。

 一つだけある。


「でも……川みたいに大量ならいざ知らず、瓶一本くらいなら…………!」


 コイツがここに侵入出来た理由。

 空間を移動する方法。


「死ぬ気になれば、強引に発動する事も不可能じゃないッ‼︎」


 叫ぶと同時に、奴は再び吐血した。

 妖気が蘇る。血生臭く、憎悪に塗れ、悍ましい執念に駆られた存在感が、痣に直撃する。

 その中に混ざる、小さな異物。色んなものを一緒くたにしたような、奇妙な妖気が紛れている。


「ッ!」


 反射的に鎖を振るった。

 錘に霊気を集中させ、頭部を狙う。


「勝ちか負けかで言うなら……勝つのは私だッ‼︎」


 しかし、それが命中する事はなかった。

 奴の体が、黒い穴に飲み込まれた。一秒もしないうちに、何もかもが消え去った。







 封印を施していようが、狐華にはその場所が筒抜けだった。さっきの場所からここまで程度、漏れ出す憎悪を辿れば訳はなかった。


 黒禍の封印されている部屋。中央の台座に木箱が置かれ、入るための扉も封をされた、通常開く事のない部屋。

 その空間が突如歪み、黒い穴が出現した。







「嘘だろ……⁉︎」


 あの黒マントまだいたのか!

 マズイ、侵入される。黒禍のある部屋まではそう遠くない。走れば十秒もかからないが、それだけあれば黒禍を持ち出し、空間を跳んで逃げるには十分だ。







「ゲホッ、ガハ……! ハハハハハ、ざまあみろ…………‼︎」


 穴から、息を切らす狐華が這い出した。咳と血を同時に吐き出しながら、尚も集中を途切れさせまいと歯を軋ませる。


 狐華にとって、酒は猛毒だった。浴びるだけで、碌に力が使えない。再生も働かず、血の毒も効力を発揮出来なくなる。

 その状態で強引に力を使った反動で、体の調子はさっき以上に最悪だった。


 しかし狐華は意に返さない。一度の使用が限界だった空割の肉塊を、これまた強引に操作して能力を維持させる。







 考えるより先に、俺は走り出していた。任されておいてこのザマ。あの時と同じように、俺はまた——


「……⁉︎」


 角を曲がり、例の部屋を正面に捉える。異変に気づいたのは、それとほぼ同時だった。

 何か(・・)来る。山の外からだ。凄まじいスピードでここに近づいてきてる。







(たったの十秒……それだけ持たせられれば勝てる‼︎ あれ(・・)を手に持つだけの時間があれば!)


 崩れそうな足に鞭打って立ち上がり、部屋の中心に手を伸ばす。それを持って、もう一度穴に飛び込めばいい。ここで体がバラバラになろうが、それさえ出来ればどうでもいい。


「ああああああああああああ‼︎」


 全身を襲う激痛。流れる血がささくれ立っているような感覚。久しく痛みや死に怯えた事はなかったのに、今日だけで何度こんな目に遭ったのか。憎悪が湧いてきた。


 許さない。

 許さない。

 許さない……!







 ——冷たい。氷柱が突き刺さるような妖気。


「……はっ」


 こんな状況なのに、笑いが漏れた。

 俺が正体を確信した直後、それはここに到達したらしい。外壁をブチ抜いて突っ込んだのだろう、轟音と振動が辺りを揺らした。肌寒くなったのも、気のせいじゃない。


 背後から聞こえていた轟音が、一際大きくなった。外壁だった破片と一つの人影が、俺を追い越してゆく。


「遅かったな」

「私が来る前に終わらせておけ。情けない奴め」


 ほんの一瞬すれ違っただけだったが、確かにそう言い合った。







 右手のひらが、木箱を掴んだ。憎悪が腕を通り、脳髄を刺激する。


 やった。間違いない、本物だ。

 あとは空割を通って戻るだけ。今にも倒れそうだが、どうにか持たせる事が出来た。


 体を黒い穴に飲み込ませる。背中から沈んでゆく。狐華の口元が吊り上がった。これで狂狸に続き、黒禍を我らの手に——


「ッ⁉︎」


 突然、扉が吹き飛んだ。封など無意味であるかのように、何かが力づくで突っ込んできていた。


 吹き込んでくる冷気。向けられる殺意。

 鳥肌が全身を包み込む。


(何が……)


 何が起きたのか。

 それを認識する前に、狐華の右手が——


 黒禍を持つ手が、斬り落とされていた。


「……な⁉︎」


 黒禍が離れてゆく。

 麻薬のように甘美な憎悪が抜けてゆく。


 いつの間にか血涙の流れていた目を、飛び出しそうなほど見開いた。


「間一髪だったらしい……が」

「……ッ‼︎」


 水色の長い髪が靡く。

 同じ色の澄んだ瞳。勝ち誇った眼差しが、狐華の視線とかち合った。


「負けたのは貴様だ、狐娘。無様に血反吐を吐いて這い蹲れッ‼︎」

「…………‼︎」


 手が再生出来ない。酒の影響がなくても、断面が凍っていて間に合わない。空間移動は既に取り消せない。もう空割を使っても、ここに侵入する事は出来ない……。


「ッッッッッッッ‼︎‼︎」


 ドス黒い絶望と屈辱が、狐華の心を踏み潰した。


「クッッッッソオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ‼︎‼︎‼︎」


 敗北を悟った慟哭とともに、狐華は黒い穴に飲まれて消えた。

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