第46話「焔ヶ坂山最終攻防」
煉鮫との話が、丁度ひと段落した時だ。
侵入者などあり得ない筈のこの場所に、突然妖気が出現した。少し前に感じた事のある妖気。俺を襲った——今思えば、正気を失わされた焔ヶ坂山の妖怪たちが、その身から垂れ流していた妖気。
その、血のようにおどろおどろしい妖気の主が今、俺の目の前に立っている。
「ああ……その痣。狂狸が言ってた退魔師はお前ね。イライラしながら酒飲んでたわ。……私の前じゃやめろってのに」
火傷を負った左頬を撫でながら、ソイツは憎々しげに言った。
「イエスって事でいいな、その態度」
自ずと目に力が入り、俺は敵を睨みつけた。
容姿は人間の少女に近いが、獣の耳と尻尾。左頬に限らず火傷だらけの体を辛うじて覆うのは、ボロボロになった黒い布切れ。
そんな体たらくと、さっき感じた激しい妖気の唸り。これらから察するに、煉鮫にコテンパンにされつつもどうにか逃げ出して来たらしい。
協力したいと頼んだ結果、ここに待機させられた理由が何となく分かった。煉鮫がやれば、黒禍の封印諸共……という事だろう。やっぱり【六魔】ってのは桁違いだ。
そしてコイツは、そんな怪物と戦い曲がりなりにも生き延びた。随分と消耗してはいるが、一筋縄ではいかないだろう。
だがやってやる。
黒禍ももう奪わせない!
「どきなさい人間!」
奴は吐き捨て、床を蹴る。
「テメエが消えろクソ野郎!」
俺は右手を振り、鎖を横に薙ぎ払った。蛇のような動きで唸りながら、先端の錘が奴の頭へと迫る。
奴は避ける素振りも、防御する様子も見せなかった。ただ真っ直ぐ俺を睨み、突っ走ってくる。違和感を覚えると同時に、錘が側頭部にめり込んだ。
「……っ」
鈍い音が鳴り、奴がふらつく。
俺は急いで鎖を手元に引き戻した。
錘が深くめり込む前に。血痕が着く前に。
「まあ、バレてるわよね……!」
側頭部を手で押さえながら、奴は歯を軋ませる。顔を顰め、苛立ちを抑えられていない様子だ。
正気を失った妖怪たちは、病的なまでに血を欲していた。そこから予想はついている。奴に血を流させる訳にはいかない。恐らくそれが奴の能力だ。
しかし、それにしてもだ。
血を流す事が能力のトリガーだとしても、攻撃を全く意に返さないとは。よほど肝が据わっているのか——
「!……いや、なるほど」
という疑問はすぐに解消された。
火傷が薄くなっている。既に綺麗に消えている箇所もある。どうやら、強い再生能力まで持っているらしい。
なんてシナジーだよ。あの時襲われてなかったらヤバかった。
そして厄介だ。煉鮫にも仕留めきれなかったのはそういう訳だろう。俺が勝つにはどうするべきか……。
「殺す! お前さえさっさと始末すれば、あとは黒禍を持ち帰ってあの方に……!」
そう思考する間にも、奴は俺との距離を詰め続けていた。近づかれすぎるのはマズイ。
俺が半歩下がると同時に、奴は自分の右腕に爪を立てた。
「逃げるなッ!」
そしてそのまま、思い切り縦に引き裂いた。真っ赤な筋が深々と刻み込まれる。血が吹き出したかと思えば飛び散らずに固まって、枝のように俺の方へと伸びてきた。
「……っ!」
血をそのまま武器にもするのか! このまま下がったんじゃ避け切れない。
そう判断し、俺は鎖の霊気に意識を向けた。迫り来る血の枝に向かって右手を翳す。
「“鎖盾障壁”」
伸びた鎖が、右手の前で螺旋を描く。それを伝う水色の霊気が輝きを強め、巨大な円形の盾を形作った。
先程引いた足に力を込め直し、体の重心を前方へと移す。枝の先端が、“鎖盾障壁”に衝突した。軽くない衝撃が全身を伝う。
「ぐっ」
怯んでる場合じゃない。すぐに次の攻撃が来る。そうなる前に手を打て。
「……うおお!」
体重を乗せて床を蹴る。“鎖盾障壁”に刺さった血の枝諸共、奴を力づくで押し返した。奴が軽いのか、存外上手く力が入る。
赤い枝が液体に戻り、床に血痕を作った。能力を解除して、押し出されるのを防いだのだろう。それでも、三歩ほど背後に下がらせる事は出来た。
距離が開き、血の武器は消えた。好機と捉え、“鎖盾障壁”を解除した。輝きはそのままに鎖を唸らせる。先端の錘を、奴の眼前の位置まで持っていく。
触れないように。
返り血がかからないように。
軽く引き気味に鎖を操作しながら、錘に霊気を集中させた。
「“滅爆鎖撃”」
炸裂する霊気が、奴の顔に襲いかかる。同時に鎖を手繰り寄せた。
「が……っ!」
短く悲鳴を上げ、奴は顔を片腕で覆った。通りはしたようだが、こんなもんじゃ勝てない。戦いながら弱点を探るしか……。
「鬱陶しい……! あの【六魔】や虎乃ならともかく……お前みたいな奴に阻まれるなんてッ!」
「……あぁ?」
剥き出しの目で、俺を睨みながら怒号を飛ばす。
その中に、聞き捨てならない言葉が混じっていた。
「今何つった」
「……?」
「何で、虎乃の名前を知ってる」
顔を再生させながら、奴はうざったそうに俺を見る。その表情が、俺の中の火に油を注ぐ。嫌な予感が、ふつふつと湧き出してくる。
「さっき会ったからよ。もうそろそろ毒で死んでるかもね」
「……!」
事もなさげに、奴は吐き捨てた。
馬鹿な。そんな。嘘だ。
浮かんでくるのは、そんな安っぽい否定の言葉。嫌な予感が、絶望に変わっていくのを感じた。
「……何よその面。そんなにショックだった?」
苛立った表情が、みるみる嘲笑に染まってゆく。弱みを握ったと言わんばかりに、煽る口調で奴は続けた。
「必死だったわよ? 何遍も何遍も血を被って、その度フラフラになりながら足掻いてさあ……! あぁ、思い出すと胸が熱くなるわ……」
胸に手を当て、身振り手振りを加えながら大仰に奴は語る。一挙一動が俺の中の絶望を刺激し、更に別のものに変えてゆく。顔が引きつる。
「でも惜しいわ……虎乃の持つあの憎悪の心。何をする事も厭わない強い感情。全てを捨てされる程の恨み。きっといい仲間になれたのに」
「…………」
絶望が、消えた。今の一言で、全てが別のものに変わっていた。
「ハッ! ハハハハハハハ‼︎」
あまりの怒りと憐れみに、最早俺は笑っていた。
「いい仲間? 虎乃がお前と? 何の寝言だド畜生」
「は?」
奴の目が、不可解なものを見る目になる。
知るか。人の姉弟子に勝手な事言ってくれた分、今度は俺が言わせてもらう。
「アイツが自分で思うより、虎乃は恨みと折り合いつけて生きてるさ! お前や狂狸みたいに、道理の外の住人じゃねえよ! もしそう見えたってんなら、お前の頭の中は随分幸せだなッ‼︎」
虎乃は俺と違って強い。何年もウジウジと殻に篭ってた、俺と違って。そう……俺はあんな風に振る舞えない。呑まれて戻ってを繰り返して、尚も平静を保てる自信はない。
「幸せ……?」
奴の表情が、凪いだ。血みどろの妖気が張り詰める。痣に悪寒が走った。
「殺す」
「さっき聞いた」
どうやら地雷を踏んだらしい。だが悪いともマズイとも思わなかった。お互い様だ、クソッタレ。
お前は、俺の尊敬する人を侮辱した。
「ガァァ‼︎」
本気の殺意を込めて睨み合った、その一瞬の直後。先に動いたのは、奴の方だった。
振り上げた右腕を、自分の胸——丁度心臓のあたりに、何の躊躇もなく突っ込んだ。肋骨が砕け肉を押しのける、吐き気のする悍ましい音が、薄暗い廊下に反響する。
「……っ」
冷や汗が頰を伝う。思わず目を背けたくなった。いくら再生出来るといっても、正気ならあんな行動は取れない。
「ガフ……!」
胸に手を突っ込んだまま、軽くこねる動作をする。嘔吐でもするような感覚で、奴は大量の血を吐いた。肺にも血が入ってるのか、気体と液体が混ざり合う音までもが小さく聴こえてくる。
絵面だけでも十分ヤバイが、状況はもっとヤバイかもしれない。心臓を抉る……言葉にするまでもなく、とんでもない大怪我だ。そんな馬鹿みたいな傷を負えば。
「死ぃぃぃぃぃぃねぇぇぇぇぇぇぇぇ‼︎‼︎」
出血量も、馬鹿みたいな量になる。
「う……⁉︎」
血の雨、血の滝……いや、血の壁。あまりの夥しさに、背中で嫌悪感が跳ね回った。液体よりも先に匂いがここまで届き、俺は顔を顰める。
大量の血が空中でひとりでに、まるで巨人の腕のように変形した。奴の胸から俺の方へと、長く伸びてくる。
「くっ、“鎖盾障壁”……!」
右手を翳し防御しようとする。ギリギリだがどうにか間に合っ——
「同じ手段で防げると思うなぁぁぁぁぁ‼︎」
血の腕と“鎖盾障壁”が衝突する。前回と同じなのはここまでだった。足が、踵が床から離れる。しまったと思う頃には既に遅かった。
「うおお⁉︎」
俺の体が、空気を裂きながら背後へと突き進んでゆく。防御ごと押し飛ばされてゆく。
勢いに抗い、どうにか背後を確認した。どこかの部屋の入口の扉が、すぐそこにまで迫っている。
ヤバッ——
「がはっ!」
そこから数秒と経たないうちに、俺はその扉に打ち付けられた。木製のそれを粉砕し、部屋の中にそのまま叩き込まれる。苦し紛れの受け身は、ほとんど役に立たなかった。背中から全身に、鈍痛が駆け抜ける。
「っ」
赤い腕が液体に戻り、シャワーのように部屋中にブチまけられた。天井も壁も床も、みるみる赤く染められてゆく。奴の妖気が部屋中に充満して、むせ返りそうになった。
左手にネットリした液体が触れる。それだけで痣が疼いた。ほんのりとした怠さも登ってくる。何に触れたのか、目で確認するまでもない。
諸に浴びる事だけは“鎖盾障壁”で防げているが、それも時間の問題だろう。今も血の噴射は続いているのだ。
最悪だ。煽っといてこのザマかよ。
どうする……防御したまま突っ切るか? いや、もうそんな手は通じない。だからと言ってこのままだと、ジワジワ汚染されてゆくだけだ。
必死に頭を回す。考えろ。この場を任されたなら、それに応えろ。こんな所でくたばるな。何とかしろ。
「……⁉︎」
思考が不意に途切れる。すぐ隣で鳴った、ガラスの音に気を取られた。
視線をそこに移す。割れた酒瓶が床に転がり、中から透明な液体がこぼれ出ていた。
改めて部屋をよく見れば、備えられた棚には大量の酒瓶が置かれている。酒置き場か、ここ。背中のこれも棚で、ぶつかった衝撃のせいで落ちてきたと。
って、そんな呑気な事を考えてる場合じゃない。今は打開策を……。
こぼれた酒が床を広がり、血の付いた左手に触れる。
「……?」
嫌悪感が洗い流される感覚。痣の疼きも治った。
左手を持ち上げる。付着した筈の血が見当たらなかった。それどころか、少しずつ登ってきていた怠さすらも消えている。
視線をもう一度落とす。よくよく見ると、酒の水たまり付近は全く汚れていない。いや、さっきまでは血塗られていた筈だ。
それが綺麗に流された……?
「まさか……」
背中にある棚から、適当に一本酒瓶を取り、血濡れた壁に投げつける。ガシャンと甲高い音で瓶は砕け、中身がぶちまけられた。
酒の付着した壁から、血が洗い流された。薄っすらとした赤すら残さず……それどころか、部屋の生臭い妖気が少し弱まりすらした。




