第45話「地獄の業火」
覚えのある圧迫感だった。妖気の質はまるで違うが、別世界の存在としか思えない格の差。
紫色の髪で目元を覆った、得体の知れないあの男と同じ。水色の長い髪を靡かせるあの女が、全盛期であれば届いていたであろう領域……。
今、自分を見下ろしているこの男は。
「【無間の……六魔】」
火傷で覚束ない口で、狐華は零れ落としたように呟いた。
狂狸から聞いた事があった。【六魔】と呼ばれた妖怪の中に、炎と熱を操る煉鮫という奴がいると。その破壊力と殲滅力は、忌々しくも自分より上かもしれない、と。
「【六魔】、か。まあいい、好きに呼べ。お前に名乗る名などない」
煉鮫の手のひらで、炎が連続して爆ぜる。花火のような音が連鎖する中、狐華は気づいた。その音と、散る火花の量が毎回異なっている。
これは煉鮫の癖だった。何かしらの理由で手加減が必要な時に行う、謂わばルーティン。手のひらで火炎を弾けさせ、次の攻撃の威力を調整する。
そうでもしなければ、加減を誤ってしまうのだ。
「こんなものか」
威力を定める。右手を狐華に向ける。
「っ!」
さっきの光景が蘇る。全身を焼き尽くさんと唸る炎。再生するよりも早く、この身を破壊し続ける炎。
狐華は這うようにして、その射線から必死に逃れた。直後、空間が焼き払われる。さっきまで狐華が踞っていた場所が、丸ごと灼熱に包み込まれた。
「ぐ……⁉︎」
余波の熱風が狐華の毛先を揺らし、そして焦がす。遅れて、全身をビリビリとした痛みが襲った。
火傷。攻撃は躱したのに、熱された空気だけで。
そもそもさっき燃やされた傷がまだ癒えきっていない。ダメージがあまりに深すぎて、治癒が遅れている。全力で意識を治癒に回しているのに。
「何なのよ……氷凰と違い過ぎる……!」
半ば独り言のように、狐華はか細く吐き捨てた。
氷凰が衰えていたにしても、ここまで差があるものなのか。一度は驚き、治りが遅くなったものの、あの時はすぐに持ち直せたのに。
たった数回の攻撃で、越えようという考えすら浮かばない壁を突きつけられた。
(私じゃ勝てない。殺される……)
どんなダメージも再生出来る自分が、なす術なく殺される。骨どころか、存在したという形跡すら残さず、焼き殺される。
「あまり逃げるな。廊下が無駄に焼ける」
絶えず手のひらで火花を散らしながら、煉鮫は狐華を見下し続ける。
どうする。
このまま続ければ、間違いなく焼き殺される。
一旦退いてしまうと、恐らく二度と侵入出来ない。
であれば……。
「……やって…………やろうじゃない」
狐華はフラフラと立ち上がり、煉鮫の方に体ごと振り向く。ようやく痛みが引いてきた。大抵の痛みには慣れているが、【六魔】の一撃は格が違う。
こんな痛みと恐怖を覚えたのは——あの時、自分が壊れて以来だ。湧き出る憎悪を動力に変えながら、狐華は漠然と思い出す。
狐華の全身が、一瞬脈動した。同時に煉鮫の方へ飛び出す。
「…………」
煉鮫は眉一つ動かさない。何の躊躇いもなく、爆炎を浴びせかける。十二分に手加減した熱が、轟と唸った。
直撃。熱で血の蒸発する、煉鮫にとって嗅ぎ慣れた臭いが鼻を刺した。放たれた炎の中で、人影がぐらりと揺れる。
が、すぐに立て直し、真っ直ぐ業火の中を突っ切って来るのが見えた。
「……ほう」
目を凝らすと、狐華の表面が赤い何かで覆われていた。熱に耐えかね今にも砕けそうではあるが、最低限身を守る機能は果たせているらしい。
煉鮫は聞いた情報を思い出す。
この妖怪は、血を武器とするらしい。他者に摂取させて思考を破綻させ、行動を操れるとは聞いていたが、そういう事も出来るのか。
このまま焼き続けてもいいが、あの様子だとどの道目の前まで詰め寄られるだろう。
そう判断した煉鮫が翳した手を握ると、狐華を呑み込んでいた炎が消えた。血の鎧は、ほとんど消えかかっている。
残った鎧を変形させ、槍状にして両手で構えた。
掠るだけでいい。ほんの一瞬でも毒が効けば——
「ああああああああッ‼︎」
「…………」
叫びながら肉薄する狐華。
しかし、槍は届かなかった。
その前に、煉鮫の拳が狐華の顔面を捉えていた。
「……フン!」
めり込む拳が、腕が、膝が、業火に包み込まれる。
肘から、ジェットエンジンの様な火柱が噴き出す。
拳が、一際眩しく爆ぜる。
「アッガアァァ⁉︎」
ミサイルの如き右ストレートが、狐華の顔面をそのまま殴り抜いた。大きく後方へブッ飛ばされる。首が引き千切れ、顔の抉れた頭が火の玉状態で壁に衝突、破片を撒き散らしてめり込んだ。体の方は頭ほど飛ばず、廊下で力なく転がって墜落した。
煉鮫は攻撃を止め、手のひらで火花を散らし始める。濛々と舞う煙。
やはり調整は苦手だと、爆煙を眺めながら思う。さっきのは弱過ぎたが、今のは少し強くし過ぎた。壁を壊す気はなかった。
「……ぁ」
めり込んだ頭から、狐華は呻き声とも取れない音を漏らす。ただ殴られただけで、こんな事になるのか。恐らくは余力を残した攻撃が、なんて威力だ。
(どうする……どうすればアイツを…………?)
ぼとり、と頭が壁から抜け落ちる。床を転がり、ある角度で止まった。その時の視界の先に、あるものを見つけた。
「……!」
——今、互いの姿は厚い爆煙に遮られている。ただ、小刻みな破裂音が聞こえてくるだけだ。今までの様子からして、これが止むまで攻撃は来ない。
狐華は口を三日月のように歪めた。
「…………」
つくづく失敗した、と煉鮫は溜め息を吐く。間抜けな事に、自分の出した爆煙が視界を遮ってしまっていた。
少し強くやり過ぎたとはいえ、かなり手加減した一撃。敵はまだ生きているだろう。こんな煙の充満した空間に、敵が。
(……こっちに来て正解だったな)
思わず、自嘲気味に苦笑いが浮かんでしまう。
それも束の間、爆煙の奥から妖気が迫ってくるのを感じた。口元を引き締め直し、一層激しく手のひらの火花を散らす。
爆煙の中から、敵が飛び出してきた。
首はガクガクと不安定で、そこに乗っかる顔も酷い火傷だ。元の原型を、ほぼ留めていない。左目は眼窩から垂れ下がり、辛うじて収まっている右目も、飛び出しそうな程ひん剥かれている。
そんな惨状なのに、表情は笑顔だ。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ‼︎」
叫び声と呼ぶには、あまりに悍ましい咆哮を放ちながら、血濡れた両腕が煉鮫に掴みかかろうとする。
火花の破裂音が止む。煉鮫は右手を、手のひらが上を向くようにして思い切り振り上げる。その動きに追従するようにして、巨大な火柱が立ち上った。
空気が焼け、熱が唸る音と共に、断末魔が響き渡る。火柱の中からだ。
「ア……ハハ…………!」
「?」
……いや、違った。断末魔ではない。
「ハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハ‼︎」
火柱の中で、声を上げて笑っていた。
それどころか、まだこちらに手を伸ばしている。さっきのように、血の鎧を纏っている訳でもない。完全に生身で、全身を焼き尽くされながら、掴みかかろうとし続けている。
「まるで亡霊だな」
左手を火柱の中に突っ込む煉鮫。開いた手のひらが、もはや誰かも分からぬ有様な顔面の前に突き出された。
放たれる炎。火柱を巻き込み、一層暴力的な熱となって、敵の体を蹂躙する。
あまりの熱に、離れた場所にいる車骨の鎧が灼熱にまで熱されていた。足をつく床が、仄かな煙を上げて黒く燻る。生身の人間など、この空間にいてはひとたまりもないだろう。
これでも全力の数割以下でしかないのだから、恐ろしい。車骨は一人そう思っていた。
「……!」
しかし。当の煉鮫は、別のものに妙な恐れを抱き始める。目の前の敵だ。
「ア…………アアハハハハハ!」
炎に体を仰け反らせ、全身を掻き毟る苦しげな動きを見せた。……が、すぐにこちらを睨み直し、狂気以外の何者でもない笑い声を上げ始める。
おかしい。さっきから、何かおかしい。
高い再生力を持つとはいえ、さっきまでは極力こちらの攻撃を躱すか防ごうとしていた。つまり、敵の再生は完全ではない。少なくとも、この炎は有効である筈だ。
それが今は、自分の身など一切顧みる気配がない。焼かれると同時に再生し続けているのだろうが、長く持つとは考えづらい。
(——ここで無駄に死んでいい、という事か? まさか……)
煉鮫は何かに気づいたように瞠目した。左手を引きながら拳を握る。瞬時に消え去る、暴力的な炎。解放された敵は、フラフラと覚束ない足取りでそこに立ち続ける。火傷どころか、ほとんど炭になりかけの凄惨たるサマだ。
「煉鮫様?」
突然攻撃を止めた煉鮫に、車骨は訝しげな声を上げて近づく。
「やられたな」
「は……?」
「よく見てみろ」
煉鮫に促されるまま、視線を敵の方へ向ける。改めて酷い状態だ、と思う。よくもこんなにまでなって立ち続けているものだ。顔も、体格も、元があの狐娘だとはとても信じられない——
「……む⁉︎」
いや、待て。
違い過ぎる。
というかよく見れば、見覚えがある。
「まさか……摩り替わっている⁉︎」
「……私たちが到着する前に、殺しておいた者を使って」
煉鮫は頭を掻く。
言ってしまえば、狐華に運が向いていたのだろう。
狐華は侵入成功時、何匹かの妖怪を殺害していた。そして先程煉鮫に殴り飛ばされた方向が、運のいい事に、その内の一匹の近くだったのだ。
爆煙で遮られた視界のお陰で、それは簡単に仕込めた。
死体に、自身の血を注入する。
肉体を変形させ、出来るだけ自身に似せる。
これを、火花の散る音が止む前に終わらせる。
死体からは妖気が放たれない。だからその体から発せられるのは、狐華の血の妖気だけ。これで偽装は終わり。あとは突っ込ませて時間を稼ぎ——
その隙に、黒禍を奪還する。
「私とした事が」
「不味いですぞ……! アレが賊の手に渡り等すればッ!」
無残な姿になった同胞の亡骸を、煉鮫は優しく横たえ、殺意のない炎で包む。数秒後には、跡形もなく遺体は消え去った。
手を合わせ、数秒黙祷した後、煉鮫は車骨の方に振り返る。
「……大丈夫だ」
その表情からは、何故か余裕が感じられた。
*
狐華は走る。全身の再生は大きく進んだが、未だに全身がジリジリと痛む。首の接続部も不安定で、支えていなければ落っことしそうだ。
*
「どの道私は、封印の近くでは戦えない。諸共消し飛ばしかねんからな。お前も、予備の鎧を用意している暇はないだろう」
「であれば、何を以って大丈夫と⁉︎」
*
それに、最大の脅威からはどうにか逃れられたが、恐らくまだ障害はある。
*
「——お前が連れてきてくれたろう?」
そう言い、煉鮫は静かに笑った。
*
「っ!」
狐華は足を止めた。
黒禍の場所は、気配からしてもう少し先の所。
しかしまだ、辿り着くには早いらしい。
「そうよね……。いない訳、ないわよねえ」
忌々しげに歯を軋ませながら、廊下の先に立つ人影を睨んだ。
当たり前だ。主戦力全員が、あの場に揃っている筈がない。肝心の黒禍を守るために、誰かが控えているに決まっている。
文字通り、最後の障害がそこにいた。
「その妖気……お前だな」
「さっきも同じ事聞かれたけど、何が」
立ち塞がる男の右手から、ジャラリと鎖が垂れ下がる。
「悪意のない命を弄んだクソ野郎は、お前だな⁉︎」
鋭い目付きを、一層険しく鋭くし。
間定鱗士は、叫びに怒りを乗せて狐華を睨み返した。




