第44話「飛んで火に入る」
目の前の鎧は、中身が空洞。
そいつの持つ刀は、長く触れると精神を脅かされる。
体がないので、恐らく毒が効かない。
精神に干渉されては、肉体が死ななくとも殺される。
狐華の強みが、ことごとく通じない。
「天敵……って訳」
氷の【六魔】——氷凰から逃げた結果ここに来られた事は、まさしく怪我の功名だと思っていた。しかし、まだそう言い切る事は出来ないらしい。
「覚悟して貰おう。降伏を受け入れるつもりは一切無い」
「する訳ないでしょうそんな事」
目を血走らせながらも、狐華は冷静だった。
相性を見れば最悪の相手だが、勝算はある。この状況における勝利とは何か。それを分かっていれば、いくらでもやりようはあった。
狐華の顔に、狂気的な笑顔が浮き上がる。
「私は死なない。万一そうなっても恐怖なんてない。でも私が死んで、あの方の妨げになる事だけはあってはいけないッ‼︎」
気の振れた妖気が荒ぶる。床に流れ出した血だまりが、文字通りグツグツと煮え滾った。
狐華が床を蹴る。足元で泡立つ血の池から、棒状に固まった血が伸びる。それを掴んで引き抜き、刀のように振り回しながら車骨へと迫る。
澄んだ薄紅色と濁った赤が、金属音を鳴らし再び打ち合った。狐華は鍔迫り合わずに退き、間髪入れずに再度肉薄する。
車骨は冷静に観察する。
刀の持ち方、構え方、振るい方……。どれを取っても並みかそれ以下。素人の動きだった。しかしそれで十分なのだろう。血を操る力と不死性の噛み合いこそが奴の武器。
「だが貴様の能力は拙者に効かん」
「まだ分からないでしょう⁉︎」
狐華が刀を振るう。隙だらけだった。
横に小さく跳びつつ躱し、がら空きの脇腹を薙ぎ払う。上半身がずり落ちそうな程の切り込みが開き、嘔吐するように血が吐き出された。狐華の吊り上がった口からも、同じものが垂れ流される。
しかしやはり、狂った笑顔は消えなかった。
(矢張り乗っ取るしかないか)
狐華の胴体に切っ先を向ける。そのまま一切のぶれなく、空気を抉りながら鋭く突き出した。
再びの金属音。ぐらつく胴を鞭のようにしならせ、血の刀で車骨の突きを弾いていた。
「ぬ……!」
返り血を出来る限り躱しながら、車骨は唸る。深手をそんな風に利用出来る者など、他には存在しないだろう。
だがしかし、一度防がれて終わりではない。
逸らされた切っ先を素早く向け直し、再び突きを繰り出した。
「再生の隙も与えずに……って?」
しかしそれも防がれた。先ほどのように弾き飛ばさず、受けて軌道を逸らされて。あの深い傷が、既に再生を終えてしまっていた。
「遅いのよ」
狐華の持つ血の刀が枝分かれした。車骨の方に向かい、細い刃が矢のように一本伸びる。
それが更に二本、三本四本とねずみ算式に増え、赤い壁のようになり車骨を襲った。
「ぐっ」
背後に飛び退くが、躱しきれずに数カ所風穴が空いた。
(不甲斐無し……!)
体を乗っ取るには、少なくとも三秒は刀に触れさせなければならない。そのためには体に切り込むのではなく、串刺しにするのが望ましい。そうすればさっきのように、刀を弾き出されずに乗っ取れる。
だが既に狐華には警戒されていた。体内で受けられた時に乗っ取りきれていれば……と、たらればが車骨の精神を陰らせる。相性有利と見て、僅かでも慢心した己が許せない。
だが過去を考えている暇はない。出来るだけ早く、自分だけで、車骨は片をつけねばならなかった。
「防ぎ切ろうと言うのなら、それが出来ん一撃を見舞うまでッ‼︎」
「アハハハハハハ! その前に鎧バラバラにして、刀も握れなくしてやるわよ‼︎」
矢張り、と車骨は気を引き締めた。いくら鎧が損傷しようと、自身が死ぬ事はない。しかし、身動きの取れないほどに破壊されては、なす術がなくなってしまう。
そして狐華は、黒禍の元へ急ぐだろう。すなわち車骨の敗北だ。そうはさせない。
(次で決める)
床が揺れるほど、強く踏み込んだ。乾いた音が両者に響く。右腕を腰の後ろに構え、狐華の懐に迫る。
反射的に血の刀で受けようとする狐華。車骨の右腕が薙ぎ払うように振るわれた。
「⁉︎」
しかし、刀の衝突音が聞こえない。衝撃が腕を伝ってこない。
攻撃の軌道を見誤った訳ではない。車骨の腕は予想通りに動き、既に振り切られている。狐華は困惑し、そして目を疑った。
車骨の右腕に刀がなかった。何も握っていない。
(コイツ、死角で刀を持ち替えた……!)
気づいた時には、左手の刀で胸元が深く切り裂かれていた。吹き出す血が狐華の視界を遮る。
今更こんな傷、狐華にとっては大した事ない。しかし意表を突かれたのはまずかった。次の反応が、遅れる。
血飛沫越しの車骨は、既に両手で刀を構え直し、次なる斬撃を放たんとしていた。
「チッ」
傷口から血の刃を伸ばして迎撃する。細く鋭く、無数に枝分かれさせ、眼前の車骨の逃げ場を奪おうとする。
「その攻撃は何度も見た‼︎」
車骨が叫び、床が再び振動した。迫る血の刃に怯む事なく、足を止める事もなく。
その凶器の上を、車骨は床を蹴り飛び越えた。
一度は全身を突かれ、二度目は背後に跳んで躱しきれなかったが、三度目にして完全に見切る事に成功したのだ。
空中でのすれ違いざま、狐華の目元に斬撃を食らわせる。呻き声を漏らし、狐華は顔を覆った。
「こ、の……ッ」
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ‼︎‼︎」
空洞の鎧に反響し、その雄叫びは実際の音量以上の圧を放った。狐華の鼓膜に、目元の傷に障る。
そして、赤く輝く一閃は放たれた。
「……っ」
これまで受けた、横に裂く斬撃とは違った。
縦に、胸元を貫かれていた。
「ぐ⁉︎」
再生した狐華の目に、鳩尾から突き出る薄紅色の切っ先が映った。
狐華の全身に悪寒が走る。
さっきと同じ感覚だった。精神に何かが侵食してくる。心を食われる。
「どけっ!」
手に持つ血の刀を頭上に投げる。瞬時に変形し、狐華の背後に無数の棘が突き立てられた。
硬いものが砕け、破片が飛ぶ音。
次いで床に散らばる細かい音。
「……もう遅い。この器が崩れようと、貴様は必ず此処で仕留める」
刀が抜ける気配はない。
意識が遠のき始める。
視界がぼやけた。
背後に立つ鎧を壊す前に、自分の意識の方が持たないと狐華は悟った。
「…………ッ‼︎ 私は……」
空中で棘を伸ばす血の塊を、ふらつく頭に鞭打って見上げた。そこに意識を向ける。顎を力ませ、歯を食いしばりながら、必死に自我を保っていた。
「私はまだ……!」
血の塊から、ギロチンのような赤い刃が落とされ、
「死なないッ‼︎」
狐華の体を、胸元から両断した。
一文字の線を境に、胸から上がずり落ちる。
「⁉︎」
車骨が突き刺した部分から上が、胴体から離れる。
狐華の頭と視界から、意識を蝕む霞が消えた。
(しまった! 不味い……!)
切断面から血を吹きながら、狐華の半身が飛び上がる。赤い鎌を生み出し、両手に持って車骨の方へと襲いかかった。
「ぬうっ」
刀を弛緩した胴体から引き抜き、防御姿勢を取ろうとするも、既に出遅れていた。
片方の鎌で左腕を切り飛ばされた。
もう片方も防ぎきれず、右腕に深い裂傷を刻み込まれた。
「アハッ。虚を突き返された気分はどう?」
鎧に鎌を食い込ませ、顔を紙一重まで近づかせて狐華は笑った。その表情に、先のような余裕はない。呼吸も乱してはいたが、やり遂げた達成感を滲ませていた。
「その腕じゃあもう刀を振れないわね? 今にも千切れそうよ」
「…………」
狐華の胸元から下が、フラフラと振り返って少し屈み、切断面同士を擦り合わせる。時間を数える間もなく、真っ二つだった体は繋がった。
「……無念、と言わざるを得んか」
非常に苦々しげに、車骨は零す。己への憤りで、刀が震えていた。
「あの空間を跳ぶ黒い外套の妖怪。貴様が此処に侵入出来たのは、恐らくあれの所為だろう。拙者が持ち帰った、あの妖怪の亡骸の」
「へえ……お前が? それは傑作ね」
侵入者に気づき、その経路を察した時、車骨は真っ先に自分を責めた。だからこそ、真っ先に迎撃に向かった。良くも悪くも、誰より実直であるが故の思考と行動であった。
「拙者がやらねばならなかった。他の誰でも無く」
「ああそう、もう喋らなくていいわよ。お前の話に付き合ってる暇はないの」
鎌を引き、狐華は車骨から離れた。彼女の最優先事項は黒禍の回収。戦闘不能の車骨に用はなかった。
「拙者だけで、片を付けたかった……。彼の方の手を、煩わせる前に」
「?」
立ち去ろうと動かしかけた足を止める。車骨の言葉が引っかかった。
「あの方?」
「そうとも。己の蒔いた種の始末を、我らが長に任せたく等無かった……!」
何を言っている?
そう問おうとした狐華の台詞は、車骨ではない何者かに遮られる事になった。
「——丁度いい位置だ。自分から離れてくれて助かった」
「! 誰……」
次の言葉も、狐華は最後まで言えなかった。
車骨たちのいる場所より垂直に伸びる通路から、凄まじい熱が溢れ出す。渦を巻く業火が一直線に、狐華へ襲いかかった。
「ーーーーーーーーッ!⁉︎」
熱された空気に呑まれたせいで喉がただれ、声が出ない。何が起きたのかも分からないまま、全身が破壊されてゆく。もがいても、逃れようがなかった。
「おっと、まだ殺してはいけないんだった。色々と聞き出さなければ」
若さの中に威厳を内包した、独特の声。彼が翳した手を握るのと同時に、狐華を包む炎が鎮火した。
解放された狐華はその場に踞った。全身が焼け焦げた無残な姿で、必死に酸素を肺に取り込む。喉が焼けたために、思い通りに息が出来ない。
「力及ばず、申し訳有りませぬ……」
姿を現したその男に向かい、車骨は膝をついた。男は静かに首を振り、それを諌める。
「お前はいつもよくやってくれている。あとは私に任せろ」
そう言い、視線の矛先を狐華へと向け直す。車骨への微笑みと優しい声が、まるで別人のものだったかのような形相だった。
威圧的極まる、真紅の眼光。そこから注ぎ落とされる、慈悲の欠片もない心情。
『怒り』を形として表すのなら、今の彼以上に適したものはないだろう。
「私は加減が苦手だ。お前には聞きたい事が山ほどあるが、それは叶わないかもしれない。加減を誤って、聞く前に消してしまわない自信がない」
「がっ……は」
喉が再生し、ようやく満足な酸素を取り込めた。咳き込みながら、狐華は見上げる。
「だから最初に一つだけ、お前が従うべき事を言っておこう……。地獄の底で、彼らに詫びろ」
焔ヶ坂山の長にして、【無間の六魔】と謳われた大妖怪——煉鮫。その烈火の如き佇まいを。




