第43話「怪我の功名」
穴が消え去った。氷柱を撃ち込む暇もなかった。
まんまと逃げ果せた狐娘が去った後には、大量の血痕が散らばるのみ。
「ハア、ハア……」
くそ……仕留め損なった!
【六魔】の連中ならいざ知らず。いくら桁外れの再生力であったとしても。ここまで力を引き出したというのに……!
苛立ちに歯が軋み、拳が震える。
寸前の焦りに、肩は上下していた。
「今の黒い穴……俺たちを飛ばした妖気と同じだった」
龍臣が口元に手を当てる。
まあ、確かにそうだった。完全に四散したと思ったのに……いや、別個体か? そもそもアレは何者なんだ。何匹いるんだ。
「チッ、だが今はどうでも良い。問題はあの狐娘だ」
私は龍臣を鋭く睨んだ。奴はそれだけで察したらしく、少し顔を曇らせた。
「追えるか?」
「……あれだけ強烈で個性的な妖気が二つだ。出来なくはないかもしれんが」
その視線が下に——重症の虎乃の方へと落とされる。
顔色は最悪。呼吸も荒い。血も多く流している。意識も既に失っているらしい。
龍臣の言わんとする事は、言葉にせずとも明白であった。こんな弱りきった状態で、私の速度に対応出来る筈もない。かといって放置するなどもってのほか。
「全く……」
頭を掻きながら、自分の心境に舌打ちする。
何で私も、こんな地味男と同じような事を考えているんだか。我ながら気持ち悪い。
「場所だけ教えろ。貴様は残って、虎乃のそばにいてやるんだな」
「……氷凰」
「まあ、あれだ。無理に連れ回して死なれでもしたら、鱗士の奴が黙っていないしな。それに狐娘を生け捕りにすれば、治療法も聞き出せるだろう。私だけでさっさと行って、さっさと戻ってくれば良い。簡単な事だ!」
龍臣を指差し、二人を見下ろす。
猶予は長くないだろうし、そもそも探せるかどうかも分からない。不安定極まりないと、言った私にでもすぐ分かる。
だが。
「今とれる方法はそれだけだぞ。虎乃を死なせたくないならさっさと探せ!」
「言われなくとも……! そっちこそ頼むぞ」
「フン。誰にものを言っている」
私は氷凰だ。【無間の六魔】が一角だ。
次こそ必ず仕留めてみせる。
*
多少の賭けだった。
連れてきた空割全てに、狐華はあらかじめ自身の血を混ぜ込んでいた。この赤い液体の性質は、他者を蝕むだけに留まらない。
摂取した者の位置や状況を、狐華はある程度把握する事が出来る。更に、妖気や霊気を多少操作し、意図した行動を強引に取らせる事も出来る。
最後の空割が、何者かに行動不能にされた事は知っていた。
行動不能の空割が、何故か移動し始めた事も知っていた。
ある地点で、急に動きを止めた事も知っていた。
そして、空割の妖気を強引に操作し、その地点に跳ぶ事が狐華には出来た。
「……フ」
自然と笑い声が漏れ出した。
瞬く間に移動した場所には、大した力のない妖怪が視界内に数匹。既に全員、末期の中毒状態に陥らせた。
見たところ、木造の建築物の中のようだ。しかし、ここ以外にも多数の妖気。ただの建物ではない。
何より、狐華にとって最も慣れ親しんだ感情が。
厳重に封印されているであろうせいで、心臓を串刺しにされるほどの恍惚感は届かないが。
穢れなき『憎悪』が——黒禍の気配が、この空間内に確かに存在した。
「見ぃつけた‼︎」
空割の纏う外套を引っ剥がして羽織りながら、狂喜を顔全体に浮かび上がらせる。
血で身も心も蝕んでも、誰一人として口を割らなかった。どんなに狂わせ、苦しめても、在り処を喋る奴はいなかった。
そんな連中の執念とでも呼ぶべきものが、たった今崩れ去ったのだ。無駄になったのだ。
そう思うだけで、甘美な蜜が脳を満たした。
(あとは見つけて持ち帰れば……)
不意に、全身を妙な気配が駆け抜けた。
体の内側で何かが爆発したかのような衝撃。皮膚がはち切れ、血が飛び散る。
「っ⁉︎」
ダメージはすぐに回復したが、訳が分からず呆然とする。
その正体は、侵入者に対する拒絶反応。
狐華はおろか、焔ヶ坂山に住まう妖怪たちですら知り得ない事だった。ここに不正侵入出来た者は、狐華が初めてなのだから。
「せっかく服着直したのに」
血まみれになったボロボロの外套を見下ろし、小さく舌打ちする。
そして気づいた。今しがた自分を襲った現象の気配が、再び近づいてきている。内部から爆発させんと、何かに向かって迫ってくる。
「まさか……!」
狐華は振り向く。気配の矛先を、瞬時に悟った。
台座の上で無造作に転がる空割の全身が、風船のように膨らむ。
(コレが壊されるのはマズイ!)
破裂寸前、空割内部の血液に妖気を送った。自身の持つ再生力を、無理矢理に作用させる。
包帯がはち切れ、醜悪な肉塊となって数回脈打った後、空割は不快な音とともに炸裂した。
破壊と修復が、一瞬だけせめぎ合った結果。
水風船を落としたような血痕の真ん中に、拳より小さい、不気味な残骸が残されていた。
(間に合った……?)
大した躊躇いもなく、その塊を拾い上げる。触れてみて分かったが、弱く脈打っているらしい。
そして、ほんの僅かに感じる雑多な妖気は、空割のそれだった。まだ、どうにか生きてはいる。
(跳べて一回ってところね)
使うのは、黒禍を手にして帰還する時。そう決め、塊を自身の血で包み込んだ。硬化させれば、ある程度の攻撃は凌げる。
「敵襲か⁉︎」
「馬鹿な! 侵入者など今までいなかったというのに」
「とにかく急げ!」
ざわつきが大きくなり始める。妖気がいくらか、狐華のもとへと向かってきている。
総じて、大した強さではなさそうだった。
部屋の出入口に向かい台座を飛び降りる。丁度顔を覗かせた妖怪の額に、血液の鎌が深々と突き刺さった。
そのまま通路へ躍り出て、近くにいた妖怪の首を次々と跳ね飛ばす。血が混ざり合い、鎌はますます赤く染まった。
響く悲鳴と、目に見える動揺の波。
場を混乱が包み込んだ。
「情けない」
転がった頭を蹴り飛ばし、侮蔑の眼差しを突き刺す。この程度の連中が黒禍をどうにかしようなど、身の程知らずも甚だしい。やはりあれは然るべき者の手に……あの方の手になくてはならない。
「ああ……私も狂狸に続きます……!」
恍惚気味に身震いし、どこからか漏れ出す憎悪へ意識を向けた。封印されているとはいえ、常人ならば吐き気を催す邪悪な存在感。それも狐華にとっては、癒しの波長のように感じられた。
距離はさほど遠くない。
しかし何故か、簡単に辿り着けないという直感があった。封印とは別の何かだろうか。この空間が特殊なものだという可能性も……。
思考した一瞬の隙の後。
突如視界が急降下した。
「……⁉︎⁉︎」
そして気づけば、首のない自分の体を床から見上げていた。
思わず目を剥く。
首を、落とされた。
気づかなかった。
狐華には攻撃を避ける必要性はほとんどないが、それでも完全に不意を突かれた。
「油断大敵」
体の背後より聞こえる、しゃがれた声。そこには盛大な怒りが込められていた。
「その血生臭い妖気……貴様か」
「何が?」
「我が同胞を手にかけ、命を愚弄したのは貴様かッ‼︎」
全身を赤く染めた鎧武者——車骨がそこに立っていた。
薄紅色の刀を狐華の胴体に振り下ろす。頭をなくした首元から、赤黒く細い手が伸びてそれを防ぐ。そのまま体を振り向かせ、鎌を薙ぎ払った。
血の細腕を振り払い、車骨が鎌を受け止める。
赤く染まる二つの刃が交わった。
「見ものだったわよ。どいつもこいつも、ちょっと血を浴びただけでトチ狂って。私が命じれば『ワン』とでも鳴き出しそうなほどに縋ったりして。堪らなかったわ……!」
「成る程。もう喋らずとも良い」
転がる頭で車骨を煽る。効果は明らかに覿面だった。徐々に狐華の鎌が押され始める。
「ここで死ね。下劣な女狐」
そして、鎌を弾き飛ばしながら、狐華の体を大きく袈裟斬りにした。黒いローブの下で、肌に大口のような傷が走る。血が大量に、車骨に向けて吐き出される。赤い鎧に赤い血が塗りたくられた。
「殺してみろ。この落ち武者」
一瞬ふらつきはしたものの、狐華の体は倒れる気配を見せない。それどころか、落とした首は未だに車骨を睨み、喋っている。
狐華の特異性に、車骨は感づき始めていた。妖怪の生命力が人間のそれより強いとはいえ、こんな状態で平然と生き続ける奴はそういない。今の袈裟斬りの傷も、既に塞がっているようだった。
(しかし不死身などあり得ない。必ず弱点がある筈だ)
刀を強く握り直す車骨。
狐華の体はその場で屈み、自分の頭を拾い上げる。敵を眼前にして、あまりに隙の多い所作。その間に攻撃を受けても問題ないという自信の表れだった。
「焔ヶ坂山……そこに黒禍の欠片があるのは分かってた。これは確かな情報」
車骨を睨み続けながら、狐華は首の切断面を合わせた。その位置が気に食わないのか、眉間に皺を寄せ細かく微調整をする。
「なのにいざ行ってみたら、なんてことないただの山だった。黒禍どころか、妖怪の気配すら感じなかった。……よくやるわよね。偽の焔ヶ坂山を作ってまで、隠蔽しようとするなんて。ま、そんな努力も無駄に終わったわけだけど」
納得のいく位置を見つけたのか、狐華は頭から手を離す。切断面は、既に綺麗に結合していた。
「喋らなくて良いと言った筈だが」
「お前に指図されるいわれはない」
焔ヶ坂山とは、通常ここを指す名前ではない。世間一般に認知される焔ヶ坂山は、狐華が最初に訪れた場所の事だ。
そこは本当に、何の変哲もないただの山。本物の焔ヶ坂山——すなわちここを隠すための、偽物の焔ヶ坂山である。
どうやって黒禍の在り処がここだと知ったのか。偽物を偽物と断じることが出来るほどの情報筋だというのか。
どうやら【憎】とやらは、相当侮ってはならない組織らしい。
車骨は魂を奮い立たせる。狐華の懐へ踏み込み、鋭く刀を振り上げた。狐華は動かない。そもそも躱すつもりもない。脇腹に迫る刃を、ただ無抵抗に待ち構える。
「無駄ってのが分からないの?」
左脇腹から右肩へ、一直線の軌道を描かんとする刃。首を落とした時と同じく、狐華を真っ二つにするであろう、高速の赤い太刀筋。
「私は、お前程度に殺せない」
「……!」
それが狐華の胸あたりで、甲高い音と共に止まった。肉の引っ掛かりなどではない。硬い石に弾かれたかのような抵抗が、刀越しに車骨へと伝わった。
(体内で血を硬化させれば、この程度わけはない!)
狐華は挑発的に歯を覗かせた。
まずはこのまま、血を固めて武器を奪う。そして間髪入れず、鎧に付着させた血を針状にして串刺しにする。そうすれば戦闘不能にしつつ、無駄な抵抗をする攻撃手段も失くさせられる。
「死ぬのはお前よ、落ち武者!」
「……この刀が欲しいか」
確信した勝利が、陰りを見せた。
寒気がする。背筋が冷えたんじゃない。
体に切り込まれた刃から、よくないものが這い上がってくる。
「が……ッ⁉︎」
意識をかき混ぜられるかのような感覚が狐華を襲った。脂汗が流れる。飲み込まれる。自分が自分でなくなる。別の何かに食われる。
「どうした。欲しくばくれてやろうぞ」
「クソ……!」
受け止めていた刀を、血を逆噴出させて体内から弾き出した。塞がりかけていた傷をそのまま逆走し、峰で体内が抉られる。夥しい血が床に垂れ流される。
狐華の呼吸が、大きく乱れた。
「肉体は不死身でも、精神に干渉される事には不慣れな様だな」
「黙れッ‼︎」
血に妖気を流し込む。車骨に付着したものと、今流れ出したもの両方に。
赤黒く濁った無数の針が、鎧全体を貫いた。頭も胸も腕も足も……急所の外しようもない範囲攻撃。
だが狐華は、ただ困惑を露わにする。
「手応えが、ない……空洞?」
血が液体に戻る。無数の穴が空いた鎧武者は、変わらずそこに立ち続けていた。
「殺せないのは、貴様も同じだ」
「……っ」
目を充血させ、狐華は一層強く車骨を睨んだ。




