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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第2章「焔ヶ坂山険道中」
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第39話「凍空姫」

 脇腹を貫く針が液体に戻る。それが私から吹き出した血と混ざり合い、一層おどろおどろしい赤へと変わった。今まで見た中でも、かなり上位に食い込む嫌な色だ。


「ハハ! アハハハハハハッ! ざあまないわねえ‼︎【無間の六魔】と恐れられた大妖怪サマが! 狂狸にならいざ知らず、私ごときの妖怪に手傷を負わされるなんてさあ!」


 人型に変わりゆく肉塊が、キンキン声で喚き散らす。上半身の生えた桃色の粘液。その周囲の血溜まりからは、凍りついた赤い無数の手……。見ていて気持ちのいいものではなかった。


 その気色悪い光景が、瞬く間に近づいてくる。

 正確には、私の方から近づいていってる。

 空から地面に、私の体が墜落していく。


「ぐっ……!」


 全身が叩きつけられ、我ながら情けない呻き声が漏れ出した。


 狐娘は目をひん剥いて笑顔を浮かべる。上半身を生やした塊が縦に伸び、股の辺りで二つに別れた。下半身の方も、原型を取り戻し始めているらしい。

 服はどうしようもないらしいが。


「情けない……情けないわねえ、氷凰とやら。私でもお前を、地べたに這い蹲らせる事が出来るなんて。フ……アハハ! 狂狸の読みは正しかったみたいね」

「やかましいぞ……たった一度食らわせただけで、私の上に立ったと思うな!」

「思わないわよ。私は上に立ちたい訳じゃない。けれど……弱くなる前のお前なら、きっと今の一撃を見舞う前に、私は死んでたんでしょうねえ」


 既に再生を終えた狐娘は、全裸で私を嘲笑う。


 額に血管が浮き出るのを感じた。腕を力ませ、上体を持ち上げる。


 ふざけるなよ、子狐が…………!

 何だその『軽んじる』を形にしたような面は。

 舐め腐った笑顔を浮かべて、私を上から見下しおって……!


「睨んだところで変わらないのよ、大妖怪さん。体内に直接血を食らった。内臓も貫通してる。今のお前にはキツいでしょう?」

「っ……!」


 腕から力が抜ける。再び顔が地面につく。屈辱に汚された。

 体が熱い……。流れる血が熱湯に変えられたかのようだ。汗が額を流れ落ちる。息が苦しい。


 ピシリ、という音が背中から聞こえた。氷に亀裂の入る音。翼に傷が走った音……。

 生み出した氷が溶けて脆くなっている。雫が垂れ、形が崩れていくのを感じる。刺された傷の止血すらままならん。


「……ッ‼︎‼︎」

「怒ってるの? でもねえ、私の怒りは……この恨みは、お前なんかの比じゃないのよ。どれだけ強大な力を持ってようとも、それを上回る恨みの前には塵芥も同然……! これはその差なのよ」


 歯を軋ませる私の頭を、狐娘は足蹴にした。裸足の足に付いた土を、私の髪に馴染ませるように、グリグリと力を込めて。


 その度、私の中に火炎の如き感情が湧き上がる。


「…………」


 しかし……何だ、この感情は?

 これほど強く脳味噌を埋め尽くしているのに、その正体が釈然としない。何なのか分からない……いや、違う。


 何なのか、思い出せない。


 いつだったか、同じような感情に支配された事がある気がする。自分ですら底が知れなくて、驚きをも同時に掻き立てるこの感覚……。


 いつだ?

 昨日今日の事ではない。

 もっと昔……そうだ…………確か。

 封印される前、同じ感覚に襲われた事があった。


 何故だか記憶は朧げだ。自分の名が氷凰である事と、【無間の六魔】と恐れられ、その力を振るっていた事。ハッキリしているのはその二つ。


 ならばいつから?

 私はいつからそうなった?

 氷凰として誕生し、【六魔】として君臨したきっかけは?


「う……⁉︎」


 雑音が思考をかき乱した。何者も及びつかない力が、私の頭の中を引っ掻き回す。何かを探しているように。私に、何かを思い出させようとするように。


 とんでもない違和感に目を見開く。頭を抱えたいほどだったが、まともに腕を動かせない。指が辛うじて動く程度……それに気づいた途端、ざわつきが倍増した。


「何だ、これは……!」

「? あの程度で正気を失うの? だったら前言撤回ね。お前は狂狸の読み以上に弱ってる」


 狐娘の嘲笑。力を強める、私の頭を踏みつける足。

 それらが更に、脳内を蠢く蠱毒のような感覚を加速させた。


 こいつの言動が引き金なのか……? いや、違う。これはあくまで……その中の一つ。根本は別のもの。本能が私にそう告げた。


「はあ、はあっ……! うぐ」


 ざわつきが脳を通り越す。更に奥へと潜り込む。私の知らない私の一部を、好き勝手に漁られている。

 到達点が近いのか、呼吸が大きく乱れる。最早、血の毒など比ではない違和感が、私の全てを飲み込んでいた。


 何なんだ……っ。こんなにまで私を乱して、何を思い出せと言うんだ⁉︎ 私は何を体験した……⁉︎


『…………——』


 何かが聞こえた。

 今までのような、私を掘り返す雑音ではない。

 声だ。

 誰の声かは分からない。


『い……そ……姫——』


 雑音が止んでいる……。

 探し終えた、という事だろうか。

 目当ての記憶に行き当たったと?

 つまりこの声は、私の記憶か……?


『今……こそ……姫——しい』


 何だ……何と言っている⁉︎

 記憶に言う事ではないが、ハッキリと喋れ!


 次こそは聞き逃さない。

 目を閉じ大きく息を吐き、記憶の声に耳をすます。
















『今のお主にこそ、〈凍空姫(いてぞらひめ)〉の名は相応しい』


「……………………な」


 巡る違和感が吹き飛んだ。

 なるほどそうか、この感情は……。


「ハアー……」


 全てを思い出した訳ではない。私を私たらしめた過去……それは未だに分からん。今の言葉がどういうものなのか、それも詳しい事は何一つ分からん。


 しかし、何故その言葉を今思い出させられたのかは、分かった。


「おい。いつまで私を踏んづけている? どけろ」

「……は? 虫の息が何を偉そうに」

「どけろよ。不敬だぞ」


 腕に再度力を込める。

 上体を、頭に乗った足ごと持ち上げる。


「今の私は相当苛ついている。鱗士に術をかけられた時以上にだ。感情としては近いが、質は別物と言って良いほどな」

「っ……安い恨みに頼った空元気って訳? すぐボロが出るわ。今にそんな力を入れてられなくなる」

「ククク……どうした? 声が少し上ずっているな。恐ろしいものでも目の当たりにしたか⁉︎」


 体から冷気が漏れ出した。吹き付ける吹雪じゃない。私が極低温を、衣のように纏っている。


 触れている地面が凍った。

 狐娘の足が凍った。


「貴様は勘違いしている」

「何……⁉︎」


 くるぶし、膝、太腿と、奴の体を氷が駆け上る。腰に達する直前、私は勢いよく頭を上げた。

 凍った部分が、ガラス細工のように砕け散った。狐娘は態勢を崩して、顔を驚愕に染めたまま尻餅をつく。啜り笑いながら私は立ち上がり、体についた土を払った。


「確かに私は恨んだ。それはそれは強くな。安いかどうかを貴様に決められる筋合いはないが」

「は? それが勘違い……?」


 納得のいかない面で、狐娘は私を見上げる。

 いい眺めだ。


「安っぽいに決まってるでしょッ! たかだか一度不意を突かれて、足蹴にされた程度で向けられる恨みが‼︎ そんなものが私を上回る訳が——」

「別に貴様なんざ恨んじゃいない」


 うるさい台詞を断ち切って言葉を投げ捨てた。さっきまで余裕ぶっていた癖に、立場が逆転すればやいやいと情けない。


 ……だからこそ、私は恨む。


 許さん。

 許せん……。

 許されない……!


 狐娘を睨みつけながら、記憶の言葉を反芻した。


〈凍空姫〉……。

 響きとしては悪くない。言葉通り、この私が名乗るに相応しい異名と言って差し支えない。

 しかし言葉の主は、肯定的な感情で私をそう呼んだのではない……。記憶の奥底、忘れてしまった部分がそう言っている。


 あれに篭っていたのは……この狐娘と同じ感情。

 私を、徹底的に下に見た感情。


 両の拳に、万力のように力を込める。


 ああ情けない。

 ただ言葉で侮辱されるのとは訳が違う……。

 この私が性根から見下されるとは。

 劣っていると、心の底から思われるとは。


「ふざけるなよたわけが……。私が上、それ以外は全て下だ……!」


 熱が引いてきた。

 凍土に佇んでいるように身が軽い。


「だというのに……あろう事かこの私が下の存在だと信じ込まれるとは。恨めしい。その程度に思われるような素振りを、一瞬でも見せた私自身が……! 私は恨むぞ、私自身をッ‼︎」


 私は強い。

 最強の存在だ。

 このような事は、もうあってはならない。


 清算する方法は、ただ一つだ。


「立て」


 尻餅をついたまま固まる狐娘。待っているのに一向に動かないので、業を煮やして話しかけてしまった。


「お前……何なのよそれは⁉︎」

「あ?」


 何の事かと思い、自分の体をよく見てみる。


 いつの間にか、背中の翼は完全に修復されていた。ヒビも雫も見当たらない。そして、大きさが変わっていた。一回りは大きくなり、体を覆うには大き過ぎるくらいだ。


 頭に手をやる。いつの間にか氷の装飾らしきものが乗っかっていた。見えないが、どうやら曲線が後ろに流れるような形状らしい。


「力がみなぎってくる。さっきまでの自分が恥ずかしいな」


 まだまだ百年前には及ばない。

 しかしまあ……この子狐に分からせるには十分だ。


「早く立て。座り込んだ相手をいたぶるのでは、私の気が収まらん」

「うるさい……! 砕けた足なんてすぐに——」


 狐娘の表情が変わる。

 足を取ってから、それなりに時間は経った。少なくとも、再生するのには十分だっただろう。


 だが、狐娘は未だに片足のままだった。傷からは血が一滴も出ていない。断面を氷に覆われているせいで。

 さっきは半凍りの肉塊からでも再生出来たというのに。今は一部が凍りついただけで、完全に押さえ込まれてしまっている。


 いい気味だな。


「おっと、私とした事が。つい力を入れ過ぎたようだ」

「クソッ……! クソクソクソクソ‼︎ 氷の部分を取り除けばこの程度!」

「やってみろ」


 周囲に冷気を集結させ、氷柱を生み出す。いつも行う慣れた攻撃手段。これすら感覚がまるで違った。あの言葉と同時に……正確には、記憶の一部が蘇った事で、私がかつての戦い方を思い出したかのようだ。


 神経が研ぎ澄まされてゆく。

 比例して口角が釣り上がる。


 負けるつもりで戦った事は一度もないが……今回は尚更だ。

 これより先、私が手傷を負う未来がまるで見えん。

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