第39話「凍空姫」
脇腹を貫く針が液体に戻る。それが私から吹き出した血と混ざり合い、一層おどろおどろしい赤へと変わった。今まで見た中でも、かなり上位に食い込む嫌な色だ。
「ハハ! アハハハハハハッ! ざあまないわねえ‼︎【無間の六魔】と恐れられた大妖怪サマが! 狂狸にならいざ知らず、私ごときの妖怪に手傷を負わされるなんてさあ!」
人型に変わりゆく肉塊が、キンキン声で喚き散らす。上半身の生えた桃色の粘液。その周囲の血溜まりからは、凍りついた赤い無数の手……。見ていて気持ちのいいものではなかった。
その気色悪い光景が、瞬く間に近づいてくる。
正確には、私の方から近づいていってる。
空から地面に、私の体が墜落していく。
「ぐっ……!」
全身が叩きつけられ、我ながら情けない呻き声が漏れ出した。
狐娘は目をひん剥いて笑顔を浮かべる。上半身を生やした塊が縦に伸び、股の辺りで二つに別れた。下半身の方も、原型を取り戻し始めているらしい。
服はどうしようもないらしいが。
「情けない……情けないわねえ、氷凰とやら。私でもお前を、地べたに這い蹲らせる事が出来るなんて。フ……アハハ! 狂狸の読みは正しかったみたいね」
「やかましいぞ……たった一度食らわせただけで、私の上に立ったと思うな!」
「思わないわよ。私は上に立ちたい訳じゃない。けれど……弱くなる前のお前なら、きっと今の一撃を見舞う前に、私は死んでたんでしょうねえ」
既に再生を終えた狐娘は、全裸で私を嘲笑う。
額に血管が浮き出るのを感じた。腕を力ませ、上体を持ち上げる。
ふざけるなよ、子狐が…………!
何だその『軽んじる』を形にしたような面は。
舐め腐った笑顔を浮かべて、私を上から見下しおって……!
「睨んだところで変わらないのよ、大妖怪さん。体内に直接血を食らった。内臓も貫通してる。今のお前にはキツいでしょう?」
「っ……!」
腕から力が抜ける。再び顔が地面につく。屈辱に汚された。
体が熱い……。流れる血が熱湯に変えられたかのようだ。汗が額を流れ落ちる。息が苦しい。
ピシリ、という音が背中から聞こえた。氷に亀裂の入る音。翼に傷が走った音……。
生み出した氷が溶けて脆くなっている。雫が垂れ、形が崩れていくのを感じる。刺された傷の止血すらままならん。
「……ッ‼︎‼︎」
「怒ってるの? でもねえ、私の怒りは……この恨みは、お前なんかの比じゃないのよ。どれだけ強大な力を持ってようとも、それを上回る恨みの前には塵芥も同然……! これはその差なのよ」
歯を軋ませる私の頭を、狐娘は足蹴にした。裸足の足に付いた土を、私の髪に馴染ませるように、グリグリと力を込めて。
その度、私の中に火炎の如き感情が湧き上がる。
「…………」
しかし……何だ、この感情は?
これほど強く脳味噌を埋め尽くしているのに、その正体が釈然としない。何なのか分からない……いや、違う。
何なのか、思い出せない。
いつだったか、同じような感情に支配された事がある気がする。自分ですら底が知れなくて、驚きをも同時に掻き立てるこの感覚……。
いつだ?
昨日今日の事ではない。
もっと昔……そうだ…………確か。
封印される前、同じ感覚に襲われた事があった。
何故だか記憶は朧げだ。自分の名が氷凰である事と、【無間の六魔】と恐れられ、その力を振るっていた事。ハッキリしているのはその二つ。
ならばいつから?
私はいつからそうなった?
氷凰として誕生し、【六魔】として君臨したきっかけは?
「う……⁉︎」
雑音が思考をかき乱した。何者も及びつかない力が、私の頭の中を引っ掻き回す。何かを探しているように。私に、何かを思い出させようとするように。
とんでもない違和感に目を見開く。頭を抱えたいほどだったが、まともに腕を動かせない。指が辛うじて動く程度……それに気づいた途端、ざわつきが倍増した。
「何だ、これは……!」
「? あの程度で正気を失うの? だったら前言撤回ね。お前は狂狸の読み以上に弱ってる」
狐娘の嘲笑。力を強める、私の頭を踏みつける足。
それらが更に、脳内を蠢く蠱毒のような感覚を加速させた。
こいつの言動が引き金なのか……? いや、違う。これはあくまで……その中の一つ。根本は別のもの。本能が私にそう告げた。
「はあ、はあっ……! うぐ」
ざわつきが脳を通り越す。更に奥へと潜り込む。私の知らない私の一部を、好き勝手に漁られている。
到達点が近いのか、呼吸が大きく乱れる。最早、血の毒など比ではない違和感が、私の全てを飲み込んでいた。
何なんだ……っ。こんなにまで私を乱して、何を思い出せと言うんだ⁉︎ 私は何を体験した……⁉︎
『…………——』
何かが聞こえた。
今までのような、私を掘り返す雑音ではない。
声だ。
誰の声かは分からない。
『い……そ……姫——』
雑音が止んでいる……。
探し終えた、という事だろうか。
目当ての記憶に行き当たったと?
つまりこの声は、私の記憶か……?
『今……こそ……姫——しい』
何だ……何と言っている⁉︎
記憶に言う事ではないが、ハッキリと喋れ!
次こそは聞き逃さない。
目を閉じ大きく息を吐き、記憶の声に耳をすます。
『今のお主にこそ、〈凍空姫〉の名は相応しい』
「……………………な」
巡る違和感が吹き飛んだ。
なるほどそうか、この感情は……。
「ハアー……」
全てを思い出した訳ではない。私を私たらしめた過去……それは未だに分からん。今の言葉がどういうものなのか、それも詳しい事は何一つ分からん。
しかし、何故その言葉を今思い出させられたのかは、分かった。
「おい。いつまで私を踏んづけている? どけろ」
「……は? 虫の息が何を偉そうに」
「どけろよ。不敬だぞ」
腕に再度力を込める。
上体を、頭に乗った足ごと持ち上げる。
「今の私は相当苛ついている。鱗士に術をかけられた時以上にだ。感情としては近いが、質は別物と言って良いほどな」
「っ……安い恨みに頼った空元気って訳? すぐボロが出るわ。今にそんな力を入れてられなくなる」
「ククク……どうした? 声が少し上ずっているな。恐ろしいものでも目の当たりにしたか⁉︎」
体から冷気が漏れ出した。吹き付ける吹雪じゃない。私が極低温を、衣のように纏っている。
触れている地面が凍った。
狐娘の足が凍った。
「貴様は勘違いしている」
「何……⁉︎」
くるぶし、膝、太腿と、奴の体を氷が駆け上る。腰に達する直前、私は勢いよく頭を上げた。
凍った部分が、ガラス細工のように砕け散った。狐娘は態勢を崩して、顔を驚愕に染めたまま尻餅をつく。啜り笑いながら私は立ち上がり、体についた土を払った。
「確かに私は恨んだ。それはそれは強くな。安いかどうかを貴様に決められる筋合いはないが」
「は? それが勘違い……?」
納得のいかない面で、狐娘は私を見上げる。
いい眺めだ。
「安っぽいに決まってるでしょッ! たかだか一度不意を突かれて、足蹴にされた程度で向けられる恨みが‼︎ そんなものが私を上回る訳が——」
「別に貴様なんざ恨んじゃいない」
うるさい台詞を断ち切って言葉を投げ捨てた。さっきまで余裕ぶっていた癖に、立場が逆転すればやいやいと情けない。
……だからこそ、私は恨む。
許さん。
許せん……。
許されない……!
狐娘を睨みつけながら、記憶の言葉を反芻した。
〈凍空姫〉……。
響きとしては悪くない。言葉通り、この私が名乗るに相応しい異名と言って差し支えない。
しかし言葉の主は、肯定的な感情で私をそう呼んだのではない……。記憶の奥底、忘れてしまった部分がそう言っている。
あれに篭っていたのは……この狐娘と同じ感情。
私を、徹底的に下に見た感情。
両の拳に、万力のように力を込める。
ああ情けない。
ただ言葉で侮辱されるのとは訳が違う……。
この私が性根から見下されるとは。
劣っていると、心の底から思われるとは。
「ふざけるなよたわけが……。私が上、それ以外は全て下だ……!」
熱が引いてきた。
凍土に佇んでいるように身が軽い。
「だというのに……あろう事かこの私が下の存在だと信じ込まれるとは。恨めしい。その程度に思われるような素振りを、一瞬でも見せた私自身が……! 私は恨むぞ、私自身をッ‼︎」
私は強い。
最強の存在だ。
このような事は、もうあってはならない。
清算する方法は、ただ一つだ。
「立て」
尻餅をついたまま固まる狐娘。待っているのに一向に動かないので、業を煮やして話しかけてしまった。
「お前……何なのよそれは⁉︎」
「あ?」
何の事かと思い、自分の体をよく見てみる。
いつの間にか、背中の翼は完全に修復されていた。ヒビも雫も見当たらない。そして、大きさが変わっていた。一回りは大きくなり、体を覆うには大き過ぎるくらいだ。
頭に手をやる。いつの間にか氷の装飾らしきものが乗っかっていた。見えないが、どうやら曲線が後ろに流れるような形状らしい。
「力がみなぎってくる。さっきまでの自分が恥ずかしいな」
まだまだ百年前には及ばない。
しかしまあ……この子狐に分からせるには十分だ。
「早く立て。座り込んだ相手をいたぶるのでは、私の気が収まらん」
「うるさい……! 砕けた足なんてすぐに——」
狐娘の表情が変わる。
足を取ってから、それなりに時間は経った。少なくとも、再生するのには十分だっただろう。
だが、狐娘は未だに片足のままだった。傷からは血が一滴も出ていない。断面を氷に覆われているせいで。
さっきは半凍りの肉塊からでも再生出来たというのに。今は一部が凍りついただけで、完全に押さえ込まれてしまっている。
いい気味だな。
「おっと、私とした事が。つい力を入れ過ぎたようだ」
「クソッ……! クソクソクソクソ‼︎ 氷の部分を取り除けばこの程度!」
「やってみろ」
周囲に冷気を集結させ、氷柱を生み出す。いつも行う慣れた攻撃手段。これすら感覚がまるで違った。あの言葉と同時に……正確には、記憶の一部が蘇った事で、私がかつての戦い方を思い出したかのようだ。
神経が研ぎ澄まされてゆく。
比例して口角が釣り上がる。
負けるつもりで戦った事は一度もないが……今回は尚更だ。
これより先、私が手傷を負う未来がまるで見えん。




