第31話「心当たり」
妖気が突然現れた。正確な数は分からないが、一匹じゃないのは確かだ。俺の周囲に異常はないが、既に霊気と妖気が入り乱れている。氷凰か虎乃辺りが応戦しているようだ。
「こんな時に……う」
個室に篭って便器に洗いざらい吐き出している最中の出来事。どうする……全然本調子じゃない。まだ気持ち悪い。
だが幸い、感じる妖気は小物ばかりだ。この程度ならあの二人の敵じゃない。この状態の俺が出しゃばるくらいなら、いっそ任せちまうべきか……?
「……!」
ドアのすぐ外側に、複数の妖気が近づいてきた。三匹程度……いや、まだ寄って来てやがる。
どうやら悠長な事は言ってられないらしい。
「ああクソ……」
鍵を開け、ドアを蹴り開く。
正面には、俺を見据える異形の妖怪たち。
右手首から鎖を伸ばし、腕に巻きつける。
鎖が、腕が、淡く光を放つ。
「この野郎!」
引いた拳を前へ突き出す。青い霊気が散弾銃のように放たれた。一発、二発と命中したそばから風穴が空き、塵になって消え去ってゆく。目の前にいた連中は、声を上げる事もなく一瞬のうちに一掃された。
……目の前だけだが。
「まだいるよな。分かってる」
個室から出る。その瞬間、右側から真っ直ぐ何かが向かって来た。鎖が巻きついたままの右腕で、即座にその方向を振り払う。
「おわ⁉︎」
「……?」
遅れて顔を動かし、何かが突っ込んで来た方を見る。氷凰が俺の右腕を、すんでのところで躱していた。
数歩後ろに下がり、俺を半目で睨み始める。
「何の真似だ貴様」
「わざとじゃない……」
いや、その前に言いたい事がある。
「男子便所に入ってくんなよ、仮にも女が」
「……チ。不調の貴様がくたばらないか見に来てやったのに。虎乃が行けというから仕方なく」
「そりゃどう……オェ」
また吐きそうになり、口元を押さえる。
酔いに加えて、痣の悪寒。確かに最悪だ。こうしている間にも、妖怪は俺たちの周囲に湧いてきている。一人で対処出来たかと言われると……やられはしないが負傷はしていたかもしれない。
「その様子だと全力とは程遠いな。やれやれ世話の焼ける……」
氷凰が手のひらを俺の方に向けた。冷気が手のひらに集まり、獣の牙のような氷柱が生み出される。そして先端を俺に向けたまま、風切り音と共に発射された。
「……っ!」
反射的に腕で防御しようとするが、案の定無駄な動きだった。氷柱は俺の顔の横を紙一重で通過し、その後ろの妖怪に勢いよく突き刺さる。
背後で血を流し倒れる妖怪を確認し、氷凰はからかうように笑った。
「やはり貴様に背中など任せられんな」
「当て付けかよこの野郎」
巻きつけた鎖を解き、錘が円を描くように振り回す。青い霊気の残光が輪を描き、回転の勢いを更に上げる。
「お前ジッとしてろ」
「は? おい貴様待て——」
慌てだす氷凰をシカトし、十二分に勢いづいた鎖分銅を真っ直ぐに放った。先端の錘は輝く弾丸のように、獲物を容赦なく撃ち抜くべく直進する。
さっきの俺のように、氷凰は腕を盾にする素振りを見せたが、これも同じく無駄な行動だ。錘は氷凰の脇を抜け、その背後の妖怪をぶち抜いた。氷凰は一瞬キョトンとしていたが、すぐ不機嫌そうに顔をしかめた。
「俺に背中は……何だって?」
「うるさい! あの程度私だけで対処出来たわ!」
俺の皮肉笑いに声を荒げながら、氷凰は周囲に吹雪を放つ。向かってきていた妖怪たちは急激に冷やされ、細かな氷片となって粉々に砕け散った。光を反射する氷片、その中心で髪を靡かせる氷凰。性格に目を瞑れば絵になっている。
「ところでコイツら、どこからこんなに湧いて出た?」
手元に戻した鎖を薙ぎ払い、目を血走らせながら襲いくる妖怪を一蹴する。横から長い爪を振り上げる別の妖怪。後ろに跳んで、下ろされた爪を躱す。
「私が知るか。どこからか突然群がってきた」
手に氷の刃を作り、妖怪の頭を串刺しにしながら氷凰は吐き捨てた。その背後からは大きな口の妖怪が飛びかかってきていたが、地面から生えた氷柱でソイツも串刺しになる。
「突然、何の前触れもなく湧いて出た……」
「…………」
背筋に電流が走る。
既視感があった。
同じような事を、俺は経験している。
つい最近の事だ。
「氷凰……ひょっとしてこれさ」
「奇遇だな。恐らく同じ奴が頭に浮かんだぞ」
前触れなく現れた妖怪の群れ。
あの電化製品店の時と同じ。
紫の髪をした男のような何かが、俺の脳裏に焼き出された。
「……アイツが消える時、黒いマントの変な奴連れてたよな。多分アレが、特殊な結界で空間同士を繋いでたんだよな……?」
「多分、な」
「もし……もしアレがこの近くにいたら…………」
狂狸が。
【憎】とやらが。
俺たちを殺そうとしている。
「アレを探す。虎乃たちと合流するぞ」
「鱗士」
「もしって言ったろ。先走ったりしない」
「……分かってるならいい」
氷凰は背を向け、外に駆け出す。直前の咎めるような表情が頭に残った。
背後の妖怪を薙ぎ払い、一度呼吸を整える。平常心を保て。奴の事は今は置いておけ。
「はあ……」
……よし。酔いも少しマシになってきた。氷凰に続いて外に出る。
「っ……これは」
痣の感覚で分かってはいたが、中とは量が格段に違った。抜きん出て強いのはいないがこの数……何十匹だ?
虎乃が応戦し、氷凰も既に加勢していた。
何匹かが俺に気づく。異様な視線が俺を刺す。
「鱗くん伏せ!」
響く虎乃の叫び声。俺を見る妖怪たちの背後へと移動した、宙に浮かぶ翡翠色の勾玉。俺は思考が追いつくより前に姿勢を低くしていた。
霊気の束が勾玉から放たれる。翡翠の輝きはそれぞれ一直線に、妖怪を背中から撃ち抜いた。貫通した光が、俺の頭上を抜けていく。
「もう体調はええの?」
「粗方。それより龍臣は⁉︎」
「まだ復活してへんけど」
龍臣……。俺より遥かに長い間、あのペーパードライブに付き合わされてたからな。出来るなら労ってそのままにしておいてやりたいが……すまん、起こさせてもらうぞ。
塵になる妖怪共の間を駆け抜け車に近寄り、助手席の窓を叩く。
「龍臣起きろ! やって欲しい事がある!」
「鱗くん何事?」
「湧いてくる妖怪の発生源に心当たりがある。確定じゃないが、もしそうなら龍臣に探せるだろ?」
「……了解や。私と氷凰ちゃんで相手しとくから、起こすの任せた!」
妖怪の一匹が妖気の球を撃ち出す。だが防御するまでもなく、眼前で消え去った。三つの勾玉を頂点とした結界が、俺とその妖怪の間に張られていたからだ。
元から心配してないが、改めて安心して防御を任せられる。俺は振り返り、窓叩きを再開した。
「龍臣! 気持ちは分かる、凄く分かる! でも頼む起きてくれ!」
死んだように座り込む龍臣だったが、その眉が僅かに動く。もう一息だ。ドアを開き、声を更に張り上げる。
「早くしないと、起こすの虎乃にバトンタッチするぞ!」
「せやで! 思いっきり揺らしたるからな!」
二人の声が響いた時、龍臣の両目が見開かれた。
「これ以上俺を追い詰めるのは止せ!」
「よし、状況分かるか?」
「は? ……」
慌てまくっていた表情から一変し、緊張感を滲ませ始める龍臣。流石に飲み込みが早い。
「おいおい、どこからこんな量が」
「多分どこかに発生源の妖怪がいる」
「なるほど……ソイツを探せばいいんだな」
龍臣は深く息を吐き、目を瞑る。研ぎ澄まされた神経が肌に刺さるように錯覚した。それ程の集中が見て取れる。
「……おかしな妖気があるな。そこからどんどん別の妖気が流れ出てる」
「流石、早いな」
龍臣は探知に長けている。
俺はある程度近く、もしくは途轍もなく巨大な妖気でないと正確な所は読み取れない。虎乃は俺よりも上だが、特別得意ではない。
だが龍臣は違う。ほんの数秒あれば、どこにどんな奴が何匹いるか手に取るように分かるという。もう少し時間をかければ、妖気の痕跡や退魔師でない人の薄い霊気までもを辿れるらしい。
虎乃の破天荒さが目立ってしまってはいるが、龍臣も相応の実力者なのだ。
「どっちだ?」
「待て、こまめに移動してるっぽい。それも点と点とを一瞬のうちに。普通に追っても無駄だぞこれ」
「近くに人は?」
「いないが」
「なら空からやれる。氷凰!」
氷凰は次々襲いくる妖怪を氷塊に変えながら、俺の声に反応して振り返る。どこにも傷は負っていないが、切りのなさ故に苛立っているようだ。眉間に皺を寄せている。
「発生源見つけた! 上から狙えるか?」
「! ……私を誰だと思っている」
だがその表情は、すぐさま自信に満ちた笑みに塗り替えられた。氷凰の背中に冷気が集結し、氷の翼を形作る。
氷で出来ているとは思えない程しなやかに、そして大きく羽ばたき、その体はロケットのように空へ突き抜けた。
「どこだ⁉︎」
「そのまま真っ直ぐ、目の前の山の麓だ!」
龍臣は数百メートル離れた、今の氷凰から見て正面の山を指差し叫んだ。氷凰の翼が再び、その方向を大きく扇ぐ。それに伴い放たれる、無数の氷片と猛吹雪。それぞれが乱反射し、まるで氷凰から光が放たれているかのような光景だった。
遠くから響く、木々がなぎ倒される音。龍臣の指した辺り一帯が、冷気の暴力に食い荒らされた。
「これは、凄いな」
「あの時はやっぱ手ぇ抜いてたんやな……ちょっとショックやわ」
唖然とする龍臣と、苦笑いする虎乃。
虎乃はとあるいざこざで、氷凰と一瞬だけ戦闘になった事があるのだが……やはりその時との差は凄まじく感じる。本当に手加減していたのか、封印から目覚めて時が経ち、感覚を取り戻し始めたのか。
「アイツは仮にも【無間の六魔】だからな。普通は——」
「まあけど互角やった事に変わりないし。てかあんなんと喧嘩した私凄ない?」
「……慰めようとした俺が馬鹿だったよ」
虎乃はブレないな。ドヤ顔になった代わりに、苦笑いが俺に移った。
「それで龍臣、今の当たったか?」
「ああ、完全に捕らえてた。まだ死んでないみたいだけどな」
「……ちょっと見てくる」
氷片の積もった麓へ走る。
正体があの包帯妖怪だと決まった訳じゃない。だが可能性はある。そう思うと、足を進めずにはいられなかった。心臓の動きが自然と早まる。
「……っ」
いや……。
もはや可能性云々じゃなく、そうであれと願い始めていた。手がかりがそこにあるかもしれないのだ。【憎】という組織が何なのか。
拳を握り、歯を軋ませながら、走り続けた。
「…………」
息を切らし始めた頃、氷塊の前まで辿り着いた。周囲の木をへし折り、地面を抉る氷……。
その脇の地べたに、黒い布切れを纏った人型の妖怪が、血の池を作って倒れていた。




