第24話「無間の六魔・狂狸⑤-師匠として-」
奴は翼をはためかせ、鋭利な氷片と猛吹雪を放った。だが狂狸は右手で防御する仕草をするだけで、その場から動かず躱そうとしない。
氷の刃と凍てつく暴風。それらは、右手を数度軽く払われただけで霧散した。細かく砕けた氷が空気中で乱反射し、淡い光が虚しく残る。
駆け出し、狂狸に肉薄する。奴はなるべく触れるなと言ったが、俺の飛び道具が通用するとは思えない。奴の氷柱が全て阻まれた事からも、それは明らかだ。
だから俺が狂狸を殺すには、接近するしか方法がない。
「フッ……!」
鎖を右腕に巻きつけた。それはさながら鈍い鋼色の手甲の様に、俺の握り拳を鋼の塊へと変えた。青く輝く霊気を纏った鈍器へと。
狂狸は右手を縦に振り下ろす。左へと跳んで、見えない矛を躱す。着地と同時に再び地を蹴る。目の前の狂狸に右拳を突き出した。
「“徹甲鎖拳”!」
霊気をブースターの要領で放出し、狂狸の右脇腹に拳が炸裂する。命中した。狂狸はよろめく様に後ろへ下がった。
その真上から、奴が氷の刃を注ぎ込む。それらは狂狸の立つ地面を抉り突き刺さり、巨大な氷山を形成した。
「…………」
これで倒せる様なら苦労はしない。そんな程度の奴が、師匠をあそこまで追い詰められる訳がない。ほとんどノーダメージと考えていいだろう。
だが、いくらか推測出来た事がある。視認、防御が不可能だという“神ノ矛”は、恐らく万能じゃない。
あれは腕を振るわなければ発動出来ないようだ。それを見れば、矛自体は見えなくとも軌道が分かる。
それでも恐ろしく強力な技に違いないが、初見殺しという側面も強い。ネタさえ分かれば、躱す事はそこまで難しくない。
「勝てるかも……って思ってる?」
「……!」
身の毛のよだつ声。同時に砕け散る氷山。
そしてそこに立つ、無傷の狂狸。
「舐められたものだね……実に不愉快だ。身の程を知りなよ」
長い前髪の隙間から、眼球の収まらない虚空が覗いた。
俺を睨んでいる。目がないのにこの表現は奇妙だが、そうにしか見えない圧力を放っていた。
「全盛期の氷凰ならともかく、君如きがまだ死なずに立っていられるのは何故だと思う? 僕がそうしているからだ。この場に限り、生死は僕が決める事だ」
狂狸は手のひらを広げた。右を俺に、左を上空の奴の方へ向ける。そこには見開かれた眼球が蠢いていて、思わず鳥肌が立った。
何をする気だ……?
“神ノ矛”は手を振るって発動する筈。これがミスリードの可能性は低い。そんな事をする意味がないからだ。ノーモーションで使えるなら、最初からそうすればいい。
となると、何か別の技か?
ともかく止まっているのは良くない。狂狸を中心に、円を描く様に走って——
「ッ⁉︎」
走ろうとした時。
体が強張って動けない事に気付いた。
狂狸は歪に笑う。既に遅いと言いたげに。
「“矛前硬変”。的は動かないに越した事はない」
金縛りか!
アイツこんな技を……。
「大抵は完全に動きを止められる。まあ【六魔】クラスなら、一瞬硬直させる程度……な、ん、だ、け、ど」
ねちっこい口調で喋りながら上を向く狂狸。その方向には、空中で固まったまま動かない奴の姿。
「くっ……そんな馬鹿な……! 私は、こんな」
「ああ、君はこんな程度で止められるような奴じゃなかった。以前の君なら、悠々と空を飛び続けていただろう。だというのに……クク」
狂狸は嘲るように喉を鳴らした。
「やっぱり遥かに弱くなってるねえ、氷凰。本当にどうしちゃったんだい?」
「貴様ッ……‼︎」
「睨んだって動けるようにはならないよ」
狂狸の手のひらは依然、俺と奴の方に向けられている。身動き出来ない、格好の的となった俺たちの方向へ。
逃げろ、と脳が必死に危険信号を発する。
しかし逃げられない。動けない。マズイ。
全身から汗が流れ、たちまち焦燥に飲まれそうになる。
「チクショウ……!」
「怯えなくていいよ。なるべく即死させるよう努めるから」
悪寒が全身を襲う。固まった体を動かそうという意思すら、吹き飛ばされた。
「……止めろォ‼︎」
師匠の声が木霊した。
狂狸の手に、力が篭る。
「——“蜂巣連矛”ッ!」
何が起きたか分からなかった。
ただ、俺の胴体、腕、足のそれぞれ数カ所を。見えない何かが、通過した感覚があった。
「…………ガハァ⁉︎」
次の瞬間には、口から鉄臭い液体を大量に吐き出し、受け身も取れずに地面に倒れこんだ。
遅れて聞こえてくる、何かが墜落する音と、氷が砕ける音。
「うぐ…………あ……」
奴の苦しげな呻き声。聞いた事のない、弱り切った声。
対する俺は、声すら上げられない。目も良く見えない。痛みも薄っすらとしか感じない。
「おやおや、即死させると言ったのに……失敗失敗。矛で滅多刺しにしたのに、うっかり急所を避けてしまったかな」
わざとらしく笑う狂狸の声が、嫌に良く聞こえる。
わざとギリギリ生かしたのかと一瞬思ったが、そんな思考はすぐ消えた。否、何かを思考する事すら出来ない。
「うぐぁ……!」
再び聞こえた、奴の捻り出したような声。動かない体に鞭を打ち、頭をどうにか上に向ける。
狂狸が奴の首を片手で掴み、その体を持ち上げていた。至る所に、体の反対側まで貫通した風穴を開け、そこから赤い液体を垂れ流す、無残な姿の奴を。氷の翼は大半が砕かれ、両手足は力なく垂れ下がっている。が、目付きは恨みがましく狂狸を見据えていた。
俺の体も、あんな有様なのか……?
良く生きてられてるな…………。
「今の君には興味が持てないな。どうして欲しい?」
「…………死んでくれ」
「君がね」
狂狸は奴を地面に叩きつけた。勢いは死なず、奴の体がバウンドして浮き上がる。それを狂狸は蹴り飛ばした。轟音を鳴らして塀に衝突し、奴は口から血とともに息を吐き出した。
「ぐぁ……ゲホッ」
ズルリ、と奴の体が地面に落ちる。苦しそうな咳を何度もするのを眺めながら、狂狸は全身から紫の妖気を放ち始めた。痣に、毛虫が這うような悪寒が走る。
「最期は僕の肥やしにでもなってもらおうか」
駄目なのか……もう。
蜘蛛の時も、魚の時も。直接見てはいないが、虎乃の時も、昨日も。アイツはいつも無敵だった。いつも圧倒的だった。
そのアイツが、あんなボロ雑巾以下の扱いを受けるなんて。血反吐を吐いて、這い蹲うなんて。
これが【無間の六魔】。最強の妖怪。
俺たちに勝ち目は……。
…………。
「……て……か」
「?」
ふと、丁の事を思い出した。
約束した事を思い出した。
「諦めて、たまるか……!」
「おや……」
砕けそうな腕で、体を持ち上げようとする。置き去りだった痛覚が今更仕事を再開したのか、全身が引き裂かれるように痛い。吐き出しそうになった絶叫を喉の奥に押し込む。
「無駄な足掻きだよ。確かに急所は避けたけど、立ち上がれる程軽くない。それどころか、じきに死ぬ程の重傷だ。じっとしてれば、少しは長生き出来るよ」
血反吐が口から漏れ出す。それでも狂狸を睨み続けた。立ち上がろうと試み続けた。
諦めない。絶対に諦めない。死んでたまるか。
だが、上半身すら持ち上がらない。
「……本当にイラつくなあ、人間って。目障り、極まる」
眼球を見開いた右手のひらを俺にかざした。紫の妖気が唸りながら、悪寒とともに接近してくる。
この怪我で躱せる筈がない。
防御しようにも、あれは霊気を食うという。
「クソが…………ッ!」
精神論で何とかなる状況じゃない。
“神ノ矛”がどうとか関係ない。
今の俺は、何をされても躱せないし防げない。
己の危機を再認識した。
「……!」
貪る妖気は、すでに目の前だった。
打つ手がない。思わず目を閉じてしまった。
「…………ッ!」
クソ……ここまでかよ……。
悪いな、死ぬ気はないって言ったのに。
明日も学校行くって、言ったのに……。
今まで死に急いでた奴が、そんな都合良く生きられやしない……そういう事か……。
「……?」
もう妖気は俺の所まで届いてる筈なのに、意識が消えない。まだ死んでない。何か起きたのか……?
閉ざした視界を、ゆっくり開く。
目の前に立っていたのは、妖気を全身で受け止める、傷だらけの大男。
「は……?」
「無事か…………? 鱗士」
師匠が、俺を庇って立っていた。
待てよ……何してんだよ。
だってアンタ、もうボロボロで……霊気も異常な程消耗してて…………。
そんな状態で、【六魔】の一撃をモロに食らったら!
「何を……何をやってんだよ⁉︎」
「何を? 決まってる……。師匠が、弟子を…………見殺しにする訳ねえだろ」
「でも……‼︎」
「死に急ぎだったお前が、必死になって……『死んでたまるか』……って。こんな嬉しい事があるか? そりゃ身も投げ打つってもんよ」
「ふざけんなッ! そんな状態で嬉しいだぁ⁉︎ 散々『自分を大切にしろ』って言ってきた癖に……ッ‼︎ 何やってんだよぉ⁉︎」
師匠は首を横に向け、霞んだ目で俺の方を見て。
少し微笑んだ。
「……悪いな」
「ッ‼︎」
何だよそれ。
全部覚悟したみたいな……そんな顔。
止めろよ。
師匠はすぐ狂狸に向き直る。
「鱗士は殺させん……黒禍も渡さん」
「無理だね。今こうしている間も、君の霊気は僕に食われ続けているんだ。誰も助からない」
「そりゃどうかな……?」
紫の妖気に、異変が起こる。師匠に噛み付いた位置が変色し始めた。
群青色——師匠の霊気の色へと、ジワジワ濁り始める。
「霊気を食われると言うのなら……逆にこっちから、流してやるまでよ!」
群青色の侵食が激しさを増す。狂狸が驚いたような反応を見せる間に、濁りは全体に行き渡った。
全てを賭けているせいだろうか。あんなに消耗していたのに、源泉のように止めどなく、霊気が溢れ続ける。
全快の時以上の膨大な霊気。
命を削った最大出力……。
「俺の霊気が食い尽くされるのが先か、はたまたお前が爆ぜるのが先か…………‼︎」
「……っ!」
群青色の輝きが眩さを増した。妖気を伝った霊気は、狂狸にまで達しているだろう。切り離しても既に遅い。
必殺の一撃が、放たれる。
「食らえ狂狸…………‼︎ “絶”ッ‼︎」
轟音とともにそびえ立つ、霊気の柱。
狂狸を飲み込み、天を穿ち、雲を抉る。
群青色の輝きが、網膜を焦がす。
この世の光景とは思えなかった。
何もかもが、規格外だった。
「…………」
やがて柱は直径を縮めてゆき、一筋の光となって消滅した。
捲き上る土煙。
それが徐々に晴れてゆく。
異世界の時間が、終わりを迎える。
「…………」
そして露わになる、長身の人影。
「僕が食い尽くす方が、ほんの少し早かったかな」
「…………クソ」
師匠の巨躯は支えを失った。
倒れる動作が、現実を叩きつけるようにスローに見える。
「…………」
音を立て、倒れ伏す体。
霊気は、一切感じられなくなった。
「嘘だろ……? オイ…………師匠……なあって……」
呼びかけても、何も返ってこない。
「危ない危ない。まさかあんな手を使って殺しにかかってくるなんてね。流石の僕もそれなりの負傷を覚悟したよ。でもまあ、案外軽傷で済んだな。所詮、その程度だって事だ——」
再び轟音が響き、狂狸の不快な声が掻き消された。
「…………」
さっきと同じ鼓動のような感覚が、全身を駆け巡った。痛みが消えた。血を流した事による疲労感すら、吹き飛んだ。
気付けば立ち上がっていた。
さっきまで、狂狸が立っていた真正面付近にいた。
腰を入れて突き出された左拳。
穴が全て跡形もなく塞がった体。
痣に留まる、電流の走る感覚。
怒りのみが浮かぶ脳。
「ッ……⁉︎⁉︎」
さっきより数メートル後退した位置で、よろめきながら腹部を押さえる狂狸。開いた口から、押し出された空気と血が流れ出す。
轟音の正体は、俺が狂狸を殴り飛ばした事によるものだった。
「それ以上喋るな屑」
涙の止まらない目で、苦しむ狂狸を睨んだ。
「——その下卑た口、二度と開かないようにしてやるよ…………狂狸」




