第19話「その日②-孤独の追憶-」
俺に両親はいない。死に別れた訳じゃない。多分生きていると思う。どこで何をしているのかは知らない。ただ、碌な親じゃなかったんだなと漠然と考えていた。
赤ん坊だった俺は、籠に入れられた状態で施設の前に捨てられていたらしい。一緒に入っていた紙切れには、『間定鱗士』という名前らしきものが書かれていたそうだ。
物心ついた頃から、妙なものが見えていた。ソイツらはどう見てもそこらの動物とは違っていたし、ましてや人間でもない。見た目は様々で、幼かった俺が一言で言い表すには、『化物』と呼ぶのが一番しっくりきた。
生まれた頃から、左目の下に痣があった。それはまるで蛇の鱗の様で、見る人によっては気持ち悪いと感じるだろう。実際、周りの子供たちの一部は俺を避けていた。俺自身も、慣れるまでは鏡をあまり見たくなかった。
化物が近くにいると、痣が疼いた。これがかなり不愉快な感覚で、昔はその度蹲って独り耐えていた。どんなに怖くて心細くても、そうするしかなかった。
初めのうちは、俺も必死に訴えていた。
『近くに化物がいる』『化物が近くにいると気持ち悪くなる』『いま俺を見て笑った』『引っ掻かれて血が出た』『同じ奴がいつも俺を尾けてくる』
……何度も何度も訴えた。
でも誰も信じなかった。化物は俺にしか見えないらしい。子供も大人も、俺に怪訝な目を突き刺してきた。病院に通わされた。そして軽くあしらわれた。
俺が化物から傷を貰う度、誰も彼もが俺を疎ましげに扱った。今にして思えば、頭のおかしな子供が自傷行為に走ったと思ったのだろう。また病院に通わされ、よく分からない事を口々に言われた。
周りの子供たちが、俺に容赦ない言葉をぶつけ始めた。
『嘘つくなよ』『気持ち悪い』『近付くな』『もう黙れ』『お前なんて生きてる価値ねえよ』『お前の方こそ化物じやないのか』
俺の心は、いとも簡単に抉られ続けた。
化物の事を喋るのは止めた。誰とも口をきかなくなった。どうせ誰も信じない。言っても誰も助けてくれない。独りで耐える事しか出来なかった。悲しくて孤独で潰れそうだったのに、もう涙も出なかった。
両親に捨てられて。他の人には見えないものを散々見せつけられて。訳の分からない化物に痛ぶられて。蔑まれて。独りで蹲って……。
一体俺が何をしたんだって思い続けた。
何で俺は独りなんだ。
何で俺はこうなんだ……?
何で俺は。
何で俺は……何で……何の為に生きているんだよ⁉︎
真っ暗だった。化物だけはハッキリ見える癖に、他には何も見えなかった。
盲目なまま、自問自答を繰り返した。俺は何故親に捨てられた。何故誰も俺を受けれてくれないのか。俺は何故こんな風に生まれてきたのか。
答えは存外簡単だった。浴びた罵声の中を掘り返せばあっさり見つかった。それに気付いた時はなるほどと思った。納得した。
詰まる所、俺に価値なんてものはない。人が普通に生きるのに不要な、余り物の要素を固めて出来た人間もどき……それが俺。価値がないから捨てられて、価値がないから蔑まれる。
全部、俺が原因だ。
十歳の時、俺は自分をそう断じた。
それと同時にこう思った。
どうせ価値がないのなら、せめて自分で捨ててしまおうと。誰の気にも触れないように、ひっそりと死んでしまおうと。
決断してからは早かった。深夜にこっそり施設を抜け出した。真っ暗な道を当てもなく、死に場所を求めて歩き始めた。その時の足取りは、妙に軽かったのを覚えている。
とにかく人目のつかない所へ……。それだけを考えて歩き続けていた時。嫌な感覚が左目の下に走った。
またか。折角死のうとしているのに、まだ俺の前に現れるのか。そう思ってうんざりしながら後ろを向いて——
絶句した。
目の前にいたのは、二本足で立ち上がった大猪の様な化物。今まで見てきた小さい奴とは、明らかに雰囲気が違った。俺は見上げたまま固まり、死を直感した。
「俺が見えるのか、小僧……。こんな夜中に出歩くなと、人の親は言うものだと聞いたが?」
殺る気満々といった口調でソイツは言う。大方、俺が無様に恐れ泣き叫ぶ様子を観察して楽しもうとでも思っていたのだろう。
だが、俺にその時芽生えたのは苛立ちだった。拳を強く握り、見上げながら睨みつけた。
「ふっざけんな……何なんだよお前ら……。こんな時まで出てくるだけじゃなくて…………死に方すら俺に選ばせてくれないのか……⁉︎」
「あぁ?」
「嫌いだ嫌いだ! 何でお前らは俺にしか見えないんだよ⁉︎ 出てくんなよ俺の前に! 死ねよ! 俺より先にお前が死ねよッ‼︎」
直後、俺の視界が飛び、腹に鈍痛が走った。地面を転がって全身に打撲を作っている最中、俺はアイツに腹を蹴飛ばされたんだと気付いた。蹲って呻く俺の背中を、猪は踏みつけた。
「おいおい、喧嘩を売る相手は選べよな」
「うがっ……止めろ、足退けろよ……!」
もがこうとしても微動だにしない。
そのつもりでいたんだから、死ぬのはいい。でも、化物に殺されるのは絶対に嫌だった。散々俺を振り回してきた挙句、最期まで好きにされるのは、我慢ならなかった。
「クソ! 嫌だ‼︎ クソォーーーーーーーーッ‼︎」
「へっ。今更謝ったってもう遅」
グシャという破裂音と共に、猪の言葉は唐突に途切れた。同時に踏みつける重さも消えた。
何が起きたのか分からず、恐る恐る顔を上げた。
「こんな夜中にふらつくのは感心しないな。子供は寝る時間だぞ」
さっきの猪と同じくらい大きい和服の男が、錫杖を携え、鋭い目で俺を見下ろしていた。周囲には他に誰も見当たらない。
この男が猪を倒したのか? あんなのを一瞬で跡形もなく……? 理解が追いつかなかった。
男はしゃがんで俺と目線を合わせた。
「お前何してた? 家は?」
「死のうとしてた……家なんてない。あんなのは家じゃない」
「……さっきのは見えてたのか? 今まで何度も似たような奴を見たか?」
「…………」
俺は無言で頷いた。
この人にも見えてるのか。しかも簡単に化物に勝てる。俺と同類のようで、その実全然違う存在。
「家じゃないと言ったが、今住んでる場所は?」
「……親のいない子供が暮らしてる施設」
「そうか。この辺りでそういう場所というと……」
男は少し考えてから、立ち上がって俺の手を引いて歩きだした。さっきの場所まで随分歩いたと思っていたのに、ほんの数分で施設に着いた。
「…………」
「そういえば名前は?」
「……間定鱗士」
「鱗士、提案があるのだが……。お前、俺の所に来るか?」
「え⁉︎」
目を見開き、男の顔を見上げた。その言葉が冗談じゃない事はすぐ分かった。当時の俺のような子供にも、その表情から真摯さが伝わってきた。
「お前には退魔師の……妖怪と戦う才能がある。だが術がない故に、一方的に痛ぶられてきたのだろう。俺ならその術を教えられる」
「…………」
「死のうとしていたと言ったな。まだ命を捨てるには早過ぎるし、易々と捨てていいもんじゃない……が、決めるのはお前だ。どうしたい?」
「……アンタの所に行きたい」
他に道はないと感じた。
その夜のうちに俺は施設を出て、退魔師の男——導木景生の弟子となった。
師匠には俺を含み三人の弟子がいて、全員が同じ屋根の下で暮らした。既にいた二人の兄弟子たちも、やむを得ない理由でここに流れ着いたらしかった。
師匠も兄弟子二人も、度々出会う他の退魔師たちも、施設の人と違って俺を蔑んだ目では見なかった。特に一緒に暮らす事になった三人は、互いに家族同然に暮らしていたし、俺にも同じように接してくれた。
分け隔てなくという言葉を実感した。
だが、俺はずっとモヤモヤしていた。
十年に渡って刷り込まれた意識が、彼らとすら真に打ち解けようとする事を拒んでいた。「無価値なお前が人間のように振る舞うな」と、見えない誰かが糾弾している気がした。
そんな自分に、どうしようもない嫌悪感を覚えた。
俺には、誰かと仲良くなる権利すらない。
出来る事なら、やっぱりさっさと消えた方がいい。
でも折角、妖怪と戦えるようになった。
あれだけ憎かった妖怪を、殺せる力を手に入れた。
これらの事から、俺は改めて己を断じた。
*
「——死ぬその時まで殺してやる。出来る限り強くなって、人に害なすふざけた化物共を、この命が尽きるまで。こんな事でしか、俺は生きていく理由を見いだせなかった。しかも死ぬ事前提で」
丁は今にも泣き出しそうな顔をしていた。流石に引いたのだろうか。まあ妥当な反応だよな。今の今までどんな誤解をしてたのかは知らないが、俺はこんな奴なんだよ。
「間定君」
「分かっただろ、だからもう俺とは——」
「……怖がらないで?」
え……?
「大丈夫だよ。その師匠も兄弟子さんたちも、間定君の事は裏切らないから」
「何、言いだすんだよ…………?」
「それに私だって、間定君の事嫌ったりしないから。大丈夫だから」
「違う……俺はそんな事言ってないだろ」
「うん、言ってなかった。でもさ間定君……さっきから、泣きそうな顔してるよ……」
「泣き、そう……?」
言われて自分を疑った。あれ以来ずっと、泣いた事がなかった。独りで泣いても無駄な事だと気付いたからだ。この先も多分、俺は泣かないと思っていた。
なのに、目頭が熱くなりかかっていた。
「何で……っ!」
分からない、理解出来ない。
何かが崩れそうになった。丁の顔が見れない。俺は顔を抑えて俯いた。
「違う違う違う! 裏切らないとか、そんなの関係ない。俺は……妖怪に八つ当たりして生きながらえてるだけの碌でなしだ! 師匠たちですら、内心で突っぱねてるんだ……こんな奴に誰かと関わりあう資格なんて……生まれてきた価値なんて……‼︎」
「そんな事ない。きっと間定君は、自分でそう信じ込もうとしてるだけ。拒絶されるのが怖いから」
……。
…………。
……………………。
『拒絶されるのが怖いから』
「……………………」
体感した事のない衝撃が、駆け巡る。
頭の中が真っ白になった。
気を抜くと全身の力が抜けそうだ。
自分でもよく立てているなと思った。
「……は」
「何回でも言うよ。怖がらなくても大丈夫。生まれてきた価値がないなんて事、絶対あり得ないよ。そんな寂しい事、言っちゃ駄目だよ」
両腕がダラリと垂れ下がって、持ち上がらなくなった。重たい頭をどうにか正面に向ける。
丁は笑顔を作り、右手の親指を立ててみせた。
「——自分でも気付かない内に……俺は、怖くて嘘ついてたって事か? 丁はそう言いたいのか……?」
「え、いやあ……どうだろう」
「何だよそれ」
「へへ。笑ったね。初めて見た」
丁は嬉しそうにそう言った。さっきはまともに見れなかったその顔を、俺は改めて正面からじっと見た。
眩しい。何もない暗闇に光が射しているようで……。
やっぱり丁は変わってると思う。何の関係もない俺なんかに構い続けたんだから。目が眩む程お人好しだ。
でもその光が、今はとても心地良いものに感じた。
「丁……俺……」
何か言わないと、今度こそ泣きそうだった。どうにか言葉を紡ごうと、口を動かし始めた時。
俺はとんでもない重圧を感じて膝から崩れ落ちた。
「うぐ……⁉︎」
左目の下が貪られるかのような感覚。妖怪が近くにいる。
だがこんな……感知した瞬間、立っていられなくなる程のふざけたデカさは初めてだ。全身が塵になって消えていくんじゃないかとさえ錯覚した。冷や汗が止まらない。上手く息が出来ない。
「⁉︎ ねえ、どうしたの⁉︎」
丁は困惑を露わにし、蹲る俺に駆け寄る。
同時に、校舎の角の方から走る足音が聞こえた。そちらに目をやると、水色の髪を乱れさせながら奴が近づいてきていた。肩で息をし、ひどく取り乱している。
「ここにいたか……!」
「オイ……何だよこれ⁉︎ お前と同等……いやそれ以上だぞ! こんな奴が何で!」
「…………」
コイツは強い……。最強とまで言われた妖怪の一角だ。
そんな奴が、目を見開いて、冷や汗をかいて、呆然としている。信じられなかった。
「こんな妖気を出せる奴、私は自分の他に五匹しか知らん……!」
奴の目がいつもと違う。警戒心が剥き出しになっていた。いつもの余裕が微塵も見られない。
「【無間の六魔】……やはり私以外にもまだ生きていたか‼︎」
*
ターニングポイント。人生にそれがあるならば、後に俺はこの日をそう呼ぶ事になる。
十歳の時以来、二度も体験する事になるとは。あんな事になるとは。
俺は今日という日を、一生忘れないだろう。




