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鎖の縁の奇譚  作者: タク生
第1章「奇譚開幕」
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第9話「池の怪③-氷凰は笑い、鱗士は目を奪われる-」

 触手は締め付ける力を増していく。私の首や手足を引き千切らんと言わんばかりに絡み付き、留まる事なく底へと引き込む。水中だからか、それとも触手の柔らかさ故か、振りほどく事も出来ない。息が出来ない上、首を強く締められて貴重な空気が強制的に口から吐き出された。


「ガハッ……!」

「苦しいか? グフフフッ、いいぞ、いい眺めだ。昨晩の奴らや今しがたの男より、女の方が苦しめがいがあるというもの。いたいけな少女なら尚の事なあ」

「⁉︎」


 私を絡め取った妖怪は、水中だというのに饒舌に嗜虐心を口にした。ねちっこくて腹立たしい声だったが、それだけじゃない。池に住み着いている程度の小物が、こんな偉そうな事を抜かしている事も……。


 そして何より、この私をいたいけな少女だと?

 よりにもよってこの氷凰を……人間も妖怪も、誰もが畏怖の対象として捉えた大妖怪である私を、人間の少女扱いだと……‼︎


 妖気を解き放った。触手の絡まった体は上を向いたまま動けないが関係ない。

 ぬるりとしていて薄気味悪かった触手から、柔軟さが失われた。表面のみならず内側まで、触手の中を流れているであろう血まで、全て氷漬けにしたからだ。


「⁉︎ 何だ……小娘お前人間じゃ」


 今更気付いたか、雑魚が。

 私はな、貴様の様な奴が触れていい存在ではないのだよ。


 凍った触手に触れると、そこからヒビが入り始めた。触手は稲妻のような模様を描いたかと思えば、脆くなり崩れていく。表面から氷の破片が零れては水中に散らばり、射す陽の光を反射させた。


 これだけ脆くなれば、脱出など造作もない。

 まだまだ本調子には程遠いが、それでもまあ池の上までは飛べる(・・・)だろう。


 百年前の感覚を思い出せ。

 あの時の私は空を支配していた。

 空で私に敵う者などいなかった。

 何者も寄せ付けなかった。


 私は、【無間の六魔】が一角だ。


 気付けば水飛沫を上げ、私は水面を見下ろしていた。真下にある池が小さく見える。水辺ではあの糞餓鬼と住職の男が、目を丸くして私の方を見上げていた。


「…………」


 私は自分の背中をちらりと見た。

 そこには氷の翼があった。

 私の背から、対になって二枚の翼が生えている。

 それは光を乱反射し、翼自体が光を放っているかのようにも見えた。

 私は落胆し、視線を下に戻した。


「チッ。小さいな……」


 こんなものではない。

 私の翼は、こんなに陳腐なものではなかった。

 百年でここまで弱くなったのか、私は。

 こんな翼では、他の【六魔】どもに遅れを取るどころでは済まないではないか。

 もっとも、奴らが現在生きているのかどうかも知らんが。


「お前……」

「貴様はそこでじっとしていろ、糞餓鬼」


 水面が揺らぎ、件の妖怪が池から顔を出した。

 その容姿を一言で言えば、魚だった。池から飛び出た頭は岸にギリギリ収まる大きさだ。体色は雲の様に白く、表面に鱗はなくぶよぶよしている。そして顔の真ん中に、白目と黒目が逆に配色された目玉が五つ備えられていた。


「この氷……この妖気……ま、まさか! 百年前に姿を消した筈では⁉︎」

「何だ、私を知っていたのか?」


 一見感情の伺えないその面から、ある感情が読み取れた。


 ああそれだ、その感情だ。

 かつて私が向けられた感情……。

 逃げ出したいという欲求が、馬鹿な魚からひしひしと感じ取れる。恐怖に慄かれるというのは、大層いい気分だ。


「なら貴様……この後自分がどうなるかも分かっているよな? 【無間の六魔】に喧嘩を売った者の末路……私を知る貴様なら、当然覚悟の上だよなあ?」

「ぐ……何故! 何故今になってこんな所に……⁉︎ まさか、他の【六魔】も!」

「さあな。あんな奴らの事など知るか」


 先程までの余裕な態度などは見る影もなく、魚は体を震わせ始めた。哀れな姿だ。恐れを覚えた者の姿ほど惨めな様を、私は知らない。


 それを目の前で晒された時、私はいつも気分が高揚した。

 堪らない……。それだけが私を満たしてきた。何もない(・・・・)私を埋める事が出来る、ただ一つのものがそれだ。


 もっと——


「もっと見せろ‼︎ その無様な面を私に晒せッ‼︎」


 捉えた風で標的を煽るように、大きく翼をはためかせた。翼を形成する鋭い氷の刃が剥がれ、池へと無数に降り注ぐ。風を切る音が甲高く響き、刃は乱反射する光の道をその軌道上に描いた。

 同時に、魚から感じ取れる恐怖が最高潮に達したのを感じた。薄気味悪い目玉が見開かれ、像がぶれるほどに全身が震え始める。逃れようとしたのか体をよじらせたが、既に遅かった。


「ああ」


 自分の口元が愉悦に歪むのを自覚した。

 奴の姿そのものは嫌いだが、その瞬間、その様だけは。


「——最高だ」


 思わず恍惚の声が漏れ出した。

 光の道が奴の体に到達したのを皮切りに、その道を辿って来たかの様に次々と氷刃が押し寄せた。全ての氷刃が道のりを終えた頃には、池の中心に氷の剣山がそびえ立っていた。刃の隙間から生々しい色の液体が吹き出し、滴り始める。


「ふん。そんな狭っ苦しい所で弱い人間しか相手出来ん奴に、この私がやられるか」

「……そういうお前は百年間、狭っ苦しい棺桶に封印されてただろ」

「うるさい!」


 ……人がせっかくいい気分になっていたというのに、あの糞餓鬼。

 私は地面に降り、人間二人の方へと近付いた。


「貴様、どうやら私の力を理解しきれていないらしいな? いい機会だ、死なない程度に殺してやる。あの魚の様にな」

「それ俺どんな状況だよ。あれは完全に死ぬだろ。お前諸共」

「耐えてみせろ、すんでの所で」

「お前は俺をどうしたいんだ」

「殺してやりたい。それと私を見下すな糞餓鬼」

「そこを恨むなら身長差を恨めバカ妖怪」


 私の目線より上にある面は、露骨に面倒くさそうにしていた。

 何でこいつは私を恐れないんだ。いくら自分に無関心といっても限度があるだろう。それ所かこの私を平然とバカ呼ばわりして、一向に改める気配がない。

 だからこいつの事がいけ好かないんだ。


「二人とも落ち着いてくれ。今は早くここから出た方がいい」

「……確かにそうですね。どっかの誰かが派手にやったせいで、そろそろ警察が来るでしょうし」

「何だと貴様……!」


 どこまで私を小馬鹿にすれば気が済むんだこの糞餓鬼!

 ……いや、待てよ。


「……そうかそうか。なら私が責任を持ってどうにかしよう」

「あ? 何だ急に」

「素早く迅速に……。さっきより一刻を争うようだし、より加速するとしようか?」


 私は風を周囲に集め始めた。

 気温が冷えていく。

 奴の不可解な様子の表情が一変、途端に青ざめ始めた。


「どうした? そんな顔して。何か問題でもあるのか? 迅速に退散したいのだろう?」

「いや、待て……お前それは」


 なんて愉快な光景だ。

 この糞餓鬼は今、確実に恐怖の感情を抱いている。

 生意気で減らず口な、あの糞餓鬼がだ。

 いい気分だ、より奮発して強い風を起こしてやるとしよう。


「やめろ、ちょっと待——!」


 奴の声は吹き荒れる暴風の中に消え、私の耳には届かなかった。

 ざまあみろ。







 暴れ牛に引き摺り回されるかの様な苦行の末、俺は先程の道路に投げ出され、蹲った。


 胃の内容物が荒れ狂ってるみたいだ。

 すこぶる気分が悪い。

 気を抜くとまた出しそう(・・・・)だ……。


「う……」

「おい、こんな所で吐くなよ? そんな汚い物を見せられる私の身にもなれ糞餓鬼」

「くそ……」


 奴は俺が絶不調である事が大層嬉しいらしい。

 さっきからずっとニヤニヤしている。


「……さっさと帰るぞ。警察に見つかりたくない」

「顔の青い餓鬼が偉そうに言うな」


 ふらつきながらもなんとか立ち上がった俺に、奴は相変わらずな態度を取る。絶対いつか滅ぼしてやると、改めて思った。


「ちょっと待ってくれないか」

「……はい?」


 榊さんに呼び止められた。

 何故この人はあの拷問絶叫兵器に乗せられてもケロリとしていられるのかという一抹の疑問を覚えつつ、俺は振り返る。


「凄かった……。あの化物をものともしないなんて。上手く言えないが……私はさっき、凄いものを見たんだと強く思うよ」

「いや、あんまそういう事言うと……」

「フッフッフッ、そうだろうとも! 何せ私は大妖怪、氷凰だぞ。あんな魚は文字通り雑魚だ。私にとってはな! ハッハッハッ‼︎」


 調子に乗ると言おうとしたのだが、遅かった。

 奴は髪をかきあげ、いつものドヤ顔を堂々と晒す。


「飽きないな、お前は」

「何か言ったか?」

「別に」

「まあまあ。とにかく、君達のお陰でずっと引っかかっていた懸念がなくなった。ありがとう」


 榊さんは深々と頭を下げた。

 彼はずっと、池の妖怪の事を考えては不安に陥っていたのだろう。自分一人だけが気付いていて、他人には理解されない非常識な脅威を抱えて。誰も信じないような看板を立ててしまう程に。


「……お礼とか、そんな」

「そうだな、貴様は今回何もしていないからな。おい坊主、敬うなら私だけ敬え」

「おまっ……失礼だろ!」

「失礼? 貴様がその台詞を私に言うのか? 貴様こそ私に対して失礼だろうが」

「失礼じゃない妥当だ。お前にゃあれくらいで丁度いいんだよ、バーカ」

「な……何だと⁉︎」

「はは、仲がいいんだね」

「「どこがッ‼︎」」


 同じ台詞を吐いた事に気付き、俺と奴は互いに視線を逸らしながら舌打ちをした。口を開けば噛みつき合い、目を合わせれば睨み合う俺たちだったが、この時初めて息が合った。


「とにかく、君たちも疲れたろう。お礼も兼ねてと言っては何だが、うちヘ来ないか? 大したもてなしは出来ないが、バウムクーヘンが確かあった筈だ」

「いや、悪いですし……」

「構わないよ。私にはそれくらいしかしてやれないからね」


 俺は、誰かとそういう風に関わるのが苦手だ。

 妖怪関連なら事務的に接せるが、自然な会話はどうにも慣れない。別に今更慣れようとも思わない。他人と親しくなるというビジョンも見えない。


「というか……そもそも俺は今回何も」

「向こうが来いと言ってるんだ。行けばいいだろう」

「あ?」


 丁重に断ろうとしたのだが、奴が口を挟んできた。

 奴は俺から視線をずらし、何が腹立たしいのか憮然とした表情で腕組みしている。


「何だお前急に……。まさか気遣いか?」

「正直貴様の事などどうでも良い、このたわけ。ただ……もてなしだぞ?」

「…………」

「礼だぞ?」

「……つまりチヤホヤされたいのか? お前」

「はあーあ……。貴様は何もしていないが、私は無理矢理駆り出されたのだぞ? それで何の報酬もなく、貴様にこき使われ続けろと? 景生はそんな教育を施すような男には見えなかったがなー……」

「お前な……」


 わざとらしく伸びをしながら粘着質な事を言うが、珍しく正論じみていた。なんだかんだでおあいこな気もするが……。


「……分かったよ、悪かったな。榊さんも、すみません」

「いや、いいんだ」


 榊さんは微笑ましげに笑った。

 この人、俺の隣にいるのがヤバイ妖怪だって忘れてるんじゃないだろうか。


「…………」


 俺はさっきの光景を思い出した。

 光を煌々と浴び、輝く翼を羽ばたかせるその姿。池の妖怪に手こずる素振りは微塵も見せず、圧倒的な力を見せつけた蹂躙振り。一頻り遊び終えた後のように、残酷で無邪気な表情。


 ムカつくし、バカだし、子供っぽい癖に……。

 俺はあの時、コイツに見とれてしまっていた。

 弱い俺は、あんな強さが欲しいと思った。


「……!」


 一瞬、体に静電気が走った様な気がした。

 だが俺は対して気に留めず、榊さんに案内されるままに付いていった。


「ところで、ばうむくうへんって何だ?」

「……行けば分かる」

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