上
チリン――。
あの人がほほえみました。それがわかるから、わたしは嬉しさに涙をこぼすのです。
チリリン……チリリリン……。
あの人がわたしを探しています。それがわかるから、わたしは淋しさに舞うのです。
地上を走るあの人にわたしを見つけることはできません。わたしがあの人を見つめることもできません。
わたしはただこの地の底で静かに舞い続けるしかないのです。
あの奇跡のような日々を思い出しながら――。
***
真夏の工房は骨まで溶けてしまいそうな暑さです。
るつぼといわれる釜には砂が入っていて、時間をかけて熱してとろとろになるまで溶かします。ですから、その工房にいる職人は頭に巻いた手拭いがびっしょり濡れるほどに汗をかいてしまいます。
職人は顔を上げると腕を額にあて、汗を拭いました。精悍な顔立ちの青年でした。
青年はとろとろした真っ赤なものを背丈ほどもある鉄パイプの先に巻きつけて、息を吹き込みながらふくらましていきます。くるくると回されるパイプの先についたとろとろの赤さが少しずつ薄れていきます。熱が冷めて透明な硝子になると、職人はクルンッと円を描くようにして切り取り窓辺にそっと置きました。
窓辺にはさまざまな形の硝子たちが並んでいます。どれも真夏の強い日差しを受けて、きらめいておりました。器に射す日差しは工房の床に小さな虹を浮かび上がらせ、軒につるされた風鈴たちはチリリリンとささやきます。
青年は工房を出て、日の光を浴びながら大きく伸びをしました。
湧水がたまってできた小さな泉にツイーッとトンボが飛んできて、水面にチョンとお尻をつけて去っていきました。小さな水紋が広がってすぐに消えました。
お日様は揺れながら燃えています。暑い暑い日でしたが、工房の中はもっと熱気がこもっていたので、青年には外が涼しく感じられるほどでした。
工房は小高い丘の上にポツンと建っています。眼下には青々と作物が実った畑とたくさんの屋根が散らばっています。遠くには町の長者様のお屋敷があって、その周りはたくさんのお店が軒を連ねています。
青年にはあまり馴染みのないところです。月に幾度か硝子細工を売り、そのお金で必要なものを買いに行くくらいで、あとは工房の隣にある小屋のように小さな家でひっそりとくらしているのでした。
裏の林は蝉のなる木でもあるかのようにワシャワシャと夏の声が重なり合って響いています。林の向こうにはモクモクと大きな入道雲が山のようにそびえていて、お日様に届きそうです。
青年は額に手をかざし、お日様を見上げました。力強く燃える様はるつぼの中で熱せられた硝子を思わせるので、なんだか親しみを覚えるのでした。
ゆらゆら揺らめき、とろとろとろけ――お日様の下が細長く伸びて垂れてきたかと思うと、珠になって千切れました。
朱色のとろりとしたものがひとしずく、まっすぐに落ちてきて、青年の目の前にある泉にポチャリと沈みました。
澄んだ水の中で朱色のものが魚のように揺れています。それは金魚にも見えましたが、まちがいなくお日様のしずくです。なぜならそれはポオッと橙色の光を放っているのでした。そしてよくよく見ると、どことなく人の形をしています。しかも優雅に泳いでいるかに見えた動きは溺れかかってもがいているのでした。
青年はあわててすくい上げようとしましたが、あと少しのところで思わず手を引っこめました。ものすごく熱かったのです。
それもそのはずです。メラメラと燃えるお日様から垂れてきたとろとろのしずくなのですから。
けれども熱いからといって見捨てるわけにはいきません。
「しばらく耐えてくれ」
青年は泉に向かって声をかけると、工房へと急ぎました。窓辺に並んだガラスの中から小さな金魚鉢を手に取ると、転げるように泉へと戻ります。
すぐにお日様のしずくを水ごとすくい上げると、金魚鉢をそっと傾けて水をこぼしました。
金魚鉢の底では朱色をした女の子がぐったりと横たわっています。
「おいっ、大事ないか?」
もしや手遅れではないかとあせりつつ声をかければ、女の子はゆっくりと起き上がりました。女の子が微笑むと朱が濃くなり、ガラスが熱くなりました。まるで金魚鉢の中に小さな炎を入れているようです。
青年は頭の手拭いをシュルリとはずし、それで金魚鉢に触れました。そうしなければ触れられないほどに熱かったのです。
「わたしなどほうっておけばよかったのに」
女の子が言いました。弱っているかと思いきや、青年のことをにらみつけています。
「そんなことを言われても目の前で溺れているのを見捨てるわけにもいくまい。さて、どうすれば君を天上に帰してあげられるだろうか」
「わたしはここに残るわ」
女の子はプイッとそっぽを向きました。勢いよく首を振ったので、いくつもの火の粉が散って金魚鉢の中で星のように瞬きました。
「お日様の子がこんなところにいるわけにもいかないだろう」
「お日様の子なんて呼ばないでよ」
「ではなんと呼べばいい? 名はなんという?」
「名なんてないわ。天上では必要ないもの」
「ではぼくが君に名をつけてもいいだろうか」
「勝手にすれば」
女の子は少し拗ねたように答えました。なぜだかとても踊りたい気分になったので、それをごまかすために青年から視線をそらしたらそんなふうな態度になってしまったのです。
「真火というのはどうだろう」
「真火……」
心の底にポッと小さな火が生まれました。
「気に入ってくれたかい? ぼくは科戸」
「科戸……」
その名前を口にすると丘の下からひんやりとした風が吹きあがってきて、工房の軒につるされた風鈴がチリリと小さく鳴りました。
「真火。帰らないなんて駄々をこねるもんじゃないよ」
「帰らないんじゃないの……帰れないのよ」
女の子はくやしそうに言いました。帰れないことよりもそれを科戸に言わなければならないことの方がくやしいのでした。
なぜならこれは罰だからです。真火はお日様の子として罪を犯したのです。
お日様の燃え盛る懐で真火は地上を見下ろしていました。するとなんとも涼しげに澄んだ泉があるではありませんか。その凛とした美しさに見とれていると、チリリンとこれまた清らかな音がきこえてきます。見たことも聞いたこともない美しさに真火の心は地上に吸い寄せられました。
けれども灼熱のお日様のもとでそんな清涼なものに惹かれることは罪なのです。ただひたすらに烈々と燃えたぎることこそが美徳なのです。涼やかなものに惹かれてしまえば、その身にこもる熱が失われてしまいます。
ですから真火はそんな気持ちを隠していましたが、いつも地上をうっとりと見つめる姿をお日様に見つかってしまい、追放されたのでした。そんなにも涼やかなものに惹かれるのならば存分に味わってみるがいい、とお怒りの言葉とともに。
「そうか。悪いことを言ってしまったね……」
科戸は涼やかなものに囲まれているのに反して、その言葉と声はとても温かでした。お日様の懐のような烈火のごとき熱ではないけれど、真火をとろとろに溶かしてしまいそうにやわらかでした。