第5幕(挿絵あり)
火曜日の朝、いつものように学校へ登校する。特に変わった事はない。変わらない学校への道。変わらない中学校へ向かう生徒たち。でも放課後のことばかりを考える賢一はこれまでにない賢一だ。江川悟との出会いから少しずつであるが賢一の何かが変わろうとしていた。学校に到着したのは昨日と同じ時刻。賢一の班員はまだ来ていない。机に顔を伏せて時間を過ごそうとしたところ、野球部の岸辺が通りすがりに髪のことをからかってきた。どこか昨日と同じ光景。賢一はそんなことを思い、改めて机に顔を伏せて楽しみな放課後を待った。
やがて学校が終わる。机の中にあるものをカバンにしまい、長いこと居座っていた教室から出て早足で図書室へと向かう。気がついたら図書室の前に到着した。昨日と同じ読書に夢中な図書部の先輩が受付をしている。静かな雰囲気は昨日のままで賢一の目に再現されている。江川は机に顔を伏せて寝ているようだ。どこか教室にいる賢一を連想するような姿だ。
賢一はそっと江川に近づき、指先で江川を軽く突いたが江川は起きなかった。今度は体を揺らしてみる。さすがに寝ていた江川も目を覚ました。
あくびをしながら目を覚ます江川はとても眠たそうだ。疲れることでもしたのだろうか。やや心配な気持ちに賢一はなってみたりした。
「ふぁ~だてっち。おつかれ。今日も1年B組に行くか?」
「うん。そうだね。眠たそうだけどさ、大丈夫?」
「ごめんごめん。昨日は朝までゲームをしていたらさ、今日は眠い眠い」
二人はそれから1年B組の教室にむかい、そこで色々な雑談をしながら時間を過ごすことにした。先程まで眠たそうだった江川も雑談の中で段々と目を覚ましてきた。話題はテレビゲームのことばかり。文芸部の話題はほとんどない。ただ今日はどこか昨日と同じ一日にみえる。これは何かの意味があるのだろう。賢一はもしも今日江川宅への誘いがあれば、迷わずその誘いにのろうと心に決めた。
17時頃、二人は学校を帰ることにした。学校の正門付近でボールが足元へと転がってきた。野球ボールだ。江川がそれを手にとった。向こうの方から野球部が走ってきた。賢一と同じクラスの岸辺だった。岸辺は賢一を見てから今朝と同じく賢一の髪のことをからかってきた。野球部の下っ端のストレスがたまっているからか今朝以上に嫌味を増した言いっぷりであった。そして江川にボールをくれと頭を下げてきた。
江川の投げたボールは岸辺よりもはるか先のキャッチャーミットまで飛んだ。あまりに凄いプレーに他の体育部の生徒達も歓声をあげて拍手を送った。岸辺は口をポカンと開けてボールの入ったキャッチャーミットを見ている。
「おい。ウチの貴重な部員をからかったり、手ェ出したりすんじゃねぇぞ!」
江川はそう言い残して学校の正門を出た。賢一は岸辺に少しペコリと頭を下げて江川についていく。江川悟。やはりこの男は凄い。賢一が改めてそう感じた瞬間だった。しかしそれと同時に自分の不甲斐なさを痛感したりもしたようだ。
「ありがとう」
「別にいいよ」
江川はなんだか不機嫌になっている様子だった。岸辺のことに関していえば賢一の事であり、江川が機嫌を損ねる事ではない。なぜ機嫌を悪くするのだろう。
「わるい。今日はオレを、一人で帰らせてくれ」
「ごめん、何か、ボク、みっともなかったよね」
「いや、ああいう奴を見ると胸グソ悪くなって」
「……そう」
賢一はますます分からなくなってきた。岸辺の言動に原因があることぐらいは何となくわかったような気がした。しかし何をどうしたらいいのだろうか。立ち止まったまま江川の言葉を待つしかなかった。六月に入り、夕方の日差しも少し暑苦しい。
「伊達君よ、これだけは言わしといてくれ」
「はい……」
「オレはなにがあっても、伊達君の味方になるからな」
「うん……」
「それを信じてくれるなら、オレたちは一生ダチだよ」
「うん……信じるよ」
「うん。明日からオレのことは“悟”と呼んでいい。オレたちはダチだもんな」
「うん……さ……さ、悟君、ありがとう」
「明日会うときは“くん”をはずしておけよ」
「うん」
「よし」
結局二人は正門を通りかかったところで別れることにした。一人で帰りたいというのはどうも本気な様子であった。賢一は複雑な気持ちで胸を痛めた。家に帰ってから家族に1年B組の教室で放課後を過ごしたのは話したがそれ以外のことは話さなかった。ひたすらにゲームをやり込んで憂さ晴らしをしようとしてみせたが憂鬱な気持ちは晴れなかった。窓から夜空を見る。空には月がかかっている。賢一の右手にはハサミがある。その晩、賢一は自分で自分を切った――