“転換”
暖かい…
私は、全身を包み込むようなぬくもりに包まれているのを感じた。
もう、寒さなんてない…あれほど凍えるようで、指先の感覚はないに等しい状態だったのが嘘のようだ。
まるで、サンフランシスコの春の朗らかな太陽の下にいるような、もうずっとずっと…十数年も感じることのなかったような心地だ。
これが、天国なのだろうか…?
母さんも父さんもクリスチャンだったし、私もそうだけれど、敬虔な信徒だったか、と言われたらそうでもない。
食事の前にお祈りはしたことはないし、日曜日にミサに行く習慣もなかった。それでも…私は、天国に導いてもらえたのだろうか…?
「ロイ…」
どこからか、声が聞こえた。
静かで、か細い…でも、意志のしっかりした声。
誰…?どうしてその名を知ってるの…?
そう私を呼ぶのは…レイチェルの他にはいないはずだ。
いいえ、でも、待って…もしここが天国なのだとしたら…ここには私を助けてくれた“ロイ”がいるのかも知れない。私に道を示してくれた三人の“ロイ”達が…私を、迎えに来てくれたの…?
「ロイ…聞こえる…?」
再び、懐かしい声が聞こえた。
聞こえる…聞こえるよ…
ごめんね、ロイ…私は研究所に辿りつけなかった…ほんの少しだけ前には進めたけれど…無事にレイチェルを送り届けることは出来なかったんだ…
ごめんね…でも、私、頑張ったよ…だから…もう、交代しても、良いよね?
「ロイ…ロイ!」
バチンっ、と鋭い痛みが頬に走った。
ハッとして、私はまぶたを見開く。
そこには、知らない天井が広がっていた。
そして私の視界に映るもう一つの物。それは、良く見知った顔立ちをした少女だった。
「良かった、ロイ、やっと目が覚めたね」
彼女、レイチェル・オリビア・ヤングは、そう言ってニッコリと柔らかな笑顔を浮かべる。
「レイチェル…ここは…?」
私はわけも分からずに、彼女にそう尋ねた。すると彼女は私の額に掛かった前髪を梳いて
「病院だよ。CPMC、って書いてあった」
と、相変わらずの笑顔で言う。
「病院…?CPMC…カリフォルニア・パシフィック・メディカル・センター…?」
「あ、うん。きっとそれだと思う」
私は、その病院の名を知っていた。
過去に来る前、万が一レイチェルがケガをしたときに備えて、サンフランシスコやバークレーにある大規模な医療施設の場所と名前を調べ上げていたからだ。
私が、レイチェルに未来から来た事を打ち明けた…私を助けに来てくれた“ロイ”が命を落とした場所から、北に斜面を上がる途中に位置するはず…
いったい、どうしてそんなところに…?
負傷した私とレイチェルがなんとかたどり着いたのは、ここではなく、セント・マリー・メディカル・センターだった。
もしかして、時空間転移装置を使ったの…?確かにあのとき、レイチェルに装置を渡していた。意識も朦朧とする中で、私はレイチェルの声を聞いたんだ。
―――ごめんね、ロイ
もしかしてレイチェルは、この場所に私と転移してしまったのだろうか?
ほんの少しだけそう考えて、私はすぐに首を振ってその可能性を否定する。
違う、それはありえない。私はこの場所でログを取った記憶がない。ここに直接転移してくることは不可能だ…
でも、それなら…私は今、どうしてこんなところにいるの…?
そんな疑問をレイチェルに投げかけようとしていたまさにそのとき、 ガタリ、と物音がした。
私は咄嗟に飛び起きて音がした方を見やる。
そこにはドアがあって、そして、そのドアから入って来た二人の人間の姿があった。
一人は、短いショットガンを背負い、灰色のジャケットに身を包んだブロンドのショートカット女の子…レイチェル。そしてもう一人は…グレーのサーモスキンにみを包み、ベネリM6セミオートショットガンを背負った…懐かしく、そしてとうの昔に喪ったはずの、ロイ、だった。
いったい、何が起こっているの…?
私は整理しきれない目の前の状況に頭を抱えた。
もしかして…夢?
ロイは死んでいなくて…私がケガをしていたの…?ううん、でも、待って…ここには、レイチェルだっている…それはおかしい。だってロイがいるのならレイチェルは私のはずだ…ここにレイチェルが二人もいるとしたら私がレイチェルであるはずはない…でも、あれは間違いなくロイだ…それじゃぁ…私は…ロイでも、レイチェルでもない私は、いったい何者なの…?
「ロイ!」
そんなことを考えていた私に髪を短く切りそろえた少女…レイチェルが私の胸に弾丸のような勢いで飛び付いて来た。
私は反射的にその体を受け止めはするものの、やはり事態が飲み込めない。
今、彼女は…私をロイ、と呼んだ…
そう、今の私は、“ロイ”だ…でもそれなら、目の前にいる、この懐かしく頼もしい姿をしている女性はいったい誰なの…?
私は必死になって自分の記憶を辿る。そうしなければ、まるで自分が何者なのかが分からなくなってしまうような気がした。
そう、私は…ロイと出会って、彼女を喪って、レイチェルを助けるために未来からこの時代に戻ってきて…それから…それから…?!
「落ち着いて」
不意にそう声がして、“ロイ”が私の肩にそっと手を置く。私は、その顔を間近で見て確信した。
彼女は間違いなくロイだ。私のために未来からやって来て、そしてその命の限りに私を守ってくれた彼女と、寸分違わない。
そして今、彼女は私の名を呼んだ。やっぱり、“ロイ”、と…
そう…だから…ここには、二組ロイとレイチェルがいるんだ…私もロイで…彼女もそう。そして、髪の短いレイチェルと、そして私の良く知るレイチェルがいる…
そう考え至って、私は初めて、その可能性に気が付いた。
そうか…考えもしなかった…でも、タイムトラベルが私の理解しているとおりなら…この状況は、成立し得る…
「教えて…私に、何が起こったの?」
するとロイは肩をすくめ、苦笑いを浮かべて言った。
「真っ白な未来の、一つの結果、だね」
そんな彼女の困ったような笑顔に、私は遠い昔に覚えた力強い安心感を、確かに思い出していた。
* * *
ボッと音を立てて、青い炎がバーナーに灯った。
屋外のキャンプで使用すためのプロパンが配合されたボンベなら、ブタンだけの家庭用ポータブルバーナーのように火が付かないなんてことはない。
私は、その青い火にコンビニエンスフードを入れた鍋を載せ、嬉々としてチャイニーズリゾットを炒め始める髪の長いレイチェルの後ろ姿を見つめていた。
そして私のすぐ傍らには、髪を短くしたレイチェルと、そして“ロイ”がいて、私の首元から心臓近くまで到達しているらしいカテーテルを抜く作業を始めている。
レイチェルがカテーテルを固定していた糸を小さなハサミで切り、“ロイ”はそれを確かめると、数十インチはあろうかと言う白く細い管を私の体内から抜き去った。
すぐさまレイチェルが消毒薬の染み込んだガーゼで傷口を押さえ込み、テープでしっかりと固定してくれる。
私はじっとそれが終わるのを待ってから、とにかく自分の体を確認した。
背中の傷は塞がりきってはいない感じがするけど、あの病院にいた頃とは比べ物にならない程良くなっている。
腕の傷に至ってはすでに抜糸が済んでいて、皮膚の上に赤く盛り上がる三本の筋があるだけだ。
夢でも幻でもなく…私は、生きているらしい。
「出血も大丈夫みたい」
髪の短いレイチェルがそう言ってホッと息を吐く。それを聞いたロイはも、真剣だった表情を緩めた。
「良かった。でも心配だから、しばらくは抗生剤を使っておいた方が良いね」
「余分に数はあったっけ?また取りに行く?」
「残りもあるけど、ストックも欲しいから、あとで着いてきて」
「うん、分かった」
ロイが、髪の短いレイチェルとそんな確認を交わすその向こうで、私の良く知っている容姿のレイチェルは、嬉々とした表情を浮かべてコンビニエンスフードと雪を放り込んだ鍋をかき混ぜている。
想像もしなかった光景だ。
「…さすがに、こんなのは思い付かなかったよ…」
私が呟くと、そばにいた髪の短いレイチェルが
「ロイを助けたくって、一生懸命考えたんだ」
と曖昧な笑みを浮かべる。
私が想像した通り、あのとき、私が手渡した次元転移装置でレイチェルが選択したのは、シェルターの座標ではなかった。
私達が転移したのはあの日。私達が、「真っ白な未来」を歩きだしたまさにその瞬間だった。
そこにはもちろん、あのネコ達の襲撃を切り抜け、レイチェルにこれまでの事を話した“私”と、そのことを受け止め兼ねていたレイチェルがいた。
私と一緒にあの病院から転移したレイチェルは、あろうことか、過去の私に助けを求めたのだ。
時の流れから飛び出れば、元いた時間の影響は受けなくなる。それは確かに、これまでのロイ達によって証明されてきたことだった。でもまさか、こんな方法を選び取るだなんて、この状況になるまで考えたことすらなかった。
確かにネコ達の襲撃を生き延びた私は、あの場所から立ち去ろうと提案したときにログを残した。それ自体は、事がうまく運ばなかったとき、次の“ロイ”に道標を残すためだけの意味合いだったのだけれど…レイチェルは、シェルターではなくあえてあの場所、あの時間を選んだ。
それは、あの瞬間が私とレイチェルにとっての「真っ白な未来」の始まりの瞬間だったから、と、レイチェルは言った。もし転送によって悪い事が起こっても、きっとそこなら、影響は最小限で済むんじゃないかと、そんな想像も聞かせてくれた。
実際、今のところはその可能性はないようだ、と、ロイが教えてくれもした。
「こっちは慌てたけどね」
そう言ったのは、“ロイ”…過去の私だった。
「これまでのロイがしてこなかったことをしようって思ってタイムトラベルの話をしたつもりが、まさかその瞬間にいきなり結果が飛び出して来るだなんて思ってもなかったよ」
過去の私にとっては、まさに“その瞬間”の出来事だっただろう。
「ロイならきっとなんとかしてくれるって、そう思ったから」
レイチェルは頬を掻きながら、きまりが悪そうにそう言う。するとロイは、なんだか嬉しそうな笑みを浮かべて私を見やった。
「もう一度、あの場所で傷付いたロイを見捨てるなんて出来なかったしね」
その意味も、すぐに理解できた。彼女は、私と同じ四人目の“ロイ”。あの場所で傷付き倒れたロイを残して、一人シェルターに転送されたんだ。
彼女は…あの場所で私を助けることで、かつて出来なかった事を成し遂げたって思いがあるのだろう。
もし私が同じ立場だったら、同じことをしたに違いない。そして、同じように嬉しさの溢れ返る笑みを浮かべていたことだろう。
ロイが二人に、レイチェルも二人…こんなのは滅茶苦茶だけど、それでも…私は、命以外の大切な何かを取り留められたような気がしていた。
「状況はどうなっているの?食料なんかは、足りてる…?」
「うん、平気。あの場所から先の出来事は、“レイ”から聞いたよ。だから、進むのは危険だと思って、ここに拠点を作ったんだ。あなた達が弾を大量に持ってきてくれたおかげで、近くのショッピングモールをほぼ制圧出来たから、食力も弾も武器も、そこから入手できる」
ロイの言葉に、私はふと、引っかかった。彼女は、“レイ”と言う名を呼んだ。確かにレイは、レイチェルの愛称だけれど…かつてレイチェルだった私も、そんな風に呼ばれた記憶はない。まして、私がレイチェルをそう呼んだこともない。
「レイ、って?」
「それは私だよ」
不意に、そう髪の短いレイチェルが声を上げた。
「こっちのロイと話して決めたんだ…私も、戦う。二人のロイと一緒に、私も、レイチェルを守る。大切なのは、何かがあってもレイチェルだけは死なせちゃいけない、ってことだからね」
「…そう…。最悪でも、レイチェルの一人をシェルターに転送出来ればそれで良い。私かあなたのどちらかが倒れても、残りの一人がレイチェルと一緒に研究所を目指せる。私とあなたで周囲を警戒して、レイにはレイチェルの直掩に着いてもらうことにしたんだ」
二人はそう言って私を見やる。そしてレイが私に言った。
「私も戦うための準備をしたよ…このショットガンも撃てるようになったんだ。マグナムの強装弾とバックショットがあるんだ。小さい口径だけど、至近距離なら打撃を与えられた。これからは、私も戦うんだ。そのために髪もロイみたいにしたし、名前もね、“ロイ”にするとややこしいからレイっていうことにしたんだ!」
レイチェル…レイは、胸に銃身の短い、まるでオモチャのような小さなショットガンを抱えている。
「覚えてる?モズバーグ520ミニモデル…子供向けの狩猟用ショットガンだよ。ショッピングモールで見つけたんだ」
ロイがそう教えてくれた。
覚えてるか、なんて自分に聞かれるのはなんだか不思議な感じがするけど…でも、そう言われた私は確かに、まだ子どもの頃、テレビで全米ライフル協会が「8歳の誕生日にショットガンを!」なんてキャンペーンをやってたのを思い出していた。
父さんも母さんも「頭がおかしい」って言っていたけど、まさかそれを幼い自分が取り回すことになるなんて思ってもみなかった。
胸に小さなショットガンを提げ、長かったブロンドを私達のように切り揃えたレイチェル改め、レイは、決意のこもった、頼もしい瞳で私を見つめている。
そう…私は、彼女を見てそう感じてしまった。
私が守るはずだった“レイチェル”は、私が思うよりも早く、そしてしなやかに、強く大きく成長していた。
たった十日間…ううん、私にとっては、日付の境も合間な時間だったけれど、レイチェルはそんな時間の中で、戦う事を決意したんだ。
私は…その決意を固めるまでに十年も掛かった。私があんなに不安で寂しい思いをしてようやくたどり着いた決心に、たった十日で彼女は“追い込まれて”しまったんだ。
そう思ったら、私は思わずレイに腕を回して、胸の中に抱きすくめていた。
申し訳ないって想いと、感謝の気持ちと、そして誇らしさがないまぜになったような感情がギュッと胸を締め上げる。
「ロイ、痛いよっ」
不意にレイチェル…レイがそう言うので、私はハッとして彼女を開放した。すると彼女は目に涙を溜めながら、まるでかつて私が聞いていた“ロイ”の声と同じように、静かな、でも、落ち着いた声色で私を見上げて言う。
「…無事で良かった…」
そんなレイに、私は感謝の言葉を掛けずにはいられなかった。
「うん…ありがとう、レイ…」
そう言うと、レイは再び私の胸元に顔を埋める。そんな彼女を再び抱きしめていたら、カンカンと金属を叩くような音が部屋に響いた。
顔を上げるとそこには、私の良く知る容姿をしたレイチェルが、スプーン片手に私達の方に向き直っていて、嬉しそうな表情で呼ばわった。
「さっ!とにかくディナーにしようよ!私、お腹空いちゃった!」
そんな言葉と、そして部屋に漂う香ばしい香りに私達が心を奪われ、その後しばらくは部屋に沈黙が訪れたのは言うまでもない。