「ごめんね、ロイ」
十日が経った。
私達は、幸いまだ、生きていた。
いや、生きてはいるけれど…まだ、死んでいない…ただ、それだけだった。
二日で食料はなくなり、私の祈りも虚しく、ロイの回復は思わしくなかった。抗生剤の点滴は欠かさずやれていたし、雪を溶かして作ったお湯を飲んだりはしてきた。けれど、きっと問題はそこじゃない。
大量出血をし、食事も満足に取れなかったロイにはもう、自分の傷を治すための力がないようだった。
ロイは眠っていても起きていても、ただじっとベッドの上に横たわっているだけ。身動き一つせずにいる姿を見て心配になった私が、何度声を掛けたか分からない。でも、ロイはここ二日で、そんな私の呼び掛けにもボンヤリとしか反応を見せなくなってしまった。
そんな状況になって、私も何もしなかったわけじゃない。
十日間の間に私は四度、ロイが眠った頃を見計らってこの病室から抜け出し、食べられるものを探した。
だけど、見つけられたのはベンダーマシンの中に僅かに残ったお菓子くらい。入院患者用の病院食を作る厨房なら食材があるかも知れないと思って探しては見たものの、院内の案内図にそんな施設の場所が書かれているはずもなく、結局発見出来ていなかった。
そんなことをしている間にどんどん衰弱してしまったロイは、もう、寒くて震えることすらままならないほどになってしまっていた。医学のことなんてちっとも分からない私でも、ロイの状態はちゃんと治療をしないと危険だってことくらいは理解できた。
私は、そうなってからはロイのそばを片時も離れずにいた。
心配だから、とか、そんな気持ちのせいじゃない。ううん、そんな気持ちもあったけど、一番は不安だったからだ。
自分が一人になってしまうことも…ロイが、一人で死んで行ってしまうんじゃないか、ってことも、だ。
ロイは今も眠っている。そんなロイの傍らに腰を降ろしていた私は、ずっとずっと、ロイの髪を撫で続けていた。
いつかの夜に、ロイは彼女を助けに来てくれた“ロイ”の夢を見ていた。あのときも私はロイを撫でていたから、こうしていれば、ロイを一人にすることはないかも知れないって、そう思えていたからだ。
目が覚めているときは私が、眠っているときは“ロイ”に、ロイのそばにいてもらって、彼女を寂しさから守ろうとしていた。
でも、それだけではやっぱりロイを救うことは出来ない…今のまま放って置いたら、確実に、ロイは死んでしまう。
だから私は、ロイがちゃんと寝静まっているのを確かめて、ロイのセミオートショットガンを手に、空にしたリュックサックを背負って静かに部屋を出た。
五度目の食料探しだ。
これまでの四回ではお菓子しか見つけられなかったけど、病院内のいくつかの場所には脚を踏み入れ、そこがどんな施設だったのかは確かめられた。
私は、廊下に出てすぐ、近くに用意して置いたストレッチャーを部屋の前に横倒しにしてバリケードにし、それからポケットにたたんでしまって置いた紙を取り出す。
そこには、最初の食料捜索に出たときに書き写した病院内のフロアマップがある。
残り私が確かめていないのは三箇所。
ひとつはたぶん、リハビリなんかをやっている施設だろうから、そこは後回し。そして残りの二つはフロアマップに何の情報もなかった。
一つは病棟と外来棟に繋がっている建物で、もう一つはこの病棟に隣接はしているけど通路は見当たらない建物だ。
このどちらかが、病院食を作る厨房のある建物かも知れない、と私は考えていた。
他の場所はすべてみこの目で見て確かめたし、残りの良くわからないこの二つのうちのどちらかがそうだろう、っていうくらいの予測を立てるのは簡単だ。
問題は、どっちへ向かうか…
通路があることを考えれば、外来棟にも繋がっている方の建物へ向かうほうが行きやすい。だけど、私は思う。
もしそっち建物が厨房のある施設なのだとしたら、病棟は分かるけど外来棟へも繋がっている理由は分からない。
病棟に外来棟にも繋がっているのなら、そこを行き来するのは病院食なんかじゃなくて、ドクターやナースなんかのスタッフだと考える方が自然だ。
だとするなら、この建物はドクターのオフィスがある場所に違いない。
その仮定が正しければ…残った一つ、病棟に隣接しているのに通路らしいものがない建物の方が、食料があるだろう厨房の可能性が高い…
私はそう結論付けて、紙をポケットに押し込み、ショットガンのボルトを引いて、静かで暗い病院廊下を歩き始めた。
ヒタ、ヒタっと、私の足音だけが廊下に響く。
ライトを照らし、全身の神経を集中して、辺りの様子を探りながら、私は進んでいた。
これまでは、病院の中にネコが入って来た形跡を見ることはなかったし、当然その姿すら見ていない。
でも、だからと言って安心してはいけないんだ、ってことを私は学んでいた。とても大きな対価を払って、だ。
やがて私は、病棟と謎の建物が隣接している辺までたどり着いた。
フロアマップによれば、この壁の向こうにはその建物があるはずなんだけど…
そう思いつつ私は周囲をライトで照らしてみた。
すぐそばにはナースセンターのカウンターがあって、電力もなく真っ暗に沈黙したコンピュータ用の液晶モニタや、カルテか何かだろうか、分厚いファイルなんかが無造作に置かれている。
そんな何の役にも立ちそうのない物に目を走らせていた私は、ふと、カウンターの奥に何やら金属の扉のような物を見つけた。
私が振り回しているライトが、シルバーの表面にくすんで反射している。
そばに寄ってみると、それは確かに扉だった。でも、部屋の中に入るための扉ではない。高さは私と同じかそれよりも少し高いくらい。真ん中に扉を上下に隔てる裂け目が見えるから、恐らくは縦に開くのだろう。
一見するとダストシューター見えないこともないけど…ダストシューターにしてはずいぶんと大きい。
そう、これは…ダストシューターなんかじゃない…
たぶん、病棟に食事を運んで来るためのワゴンを載せるエレベータだ…
通路がなかったのは、このエレベータで厨房と病棟が繋がっているからだったらしい。
私は、遂に食事の希望が湧いてきて、胸がソワソワと落ち着かなくなる。
手袋を外した指を裂け目に捩じ込んで、体重掛けて下に力を加える。ゴリゴリっという妙な音を立てて、扉下側が床の中に十インチほど沈んで、真っ暗な隙間が姿を表した。
私は今度はその隙間に腕を入れて、上側の扉を押し上げる。再びゴリゴリと音がして、ようやく私なら楽に出入り出来そうなくらいまで裂け目が広がった。
ライト手にとって、隙間の中を照らして見る。中は、思った通りエレベータのシャフトになっていて、十フィートほど下には手すりのようなものが付いたエレベータのむき出しのリフト部分が見えた。
ここを降りていけば…きっと厨房があるに違いない…
私は、そんな思いだけで意を決し、ドキドキと強く鳴る心臓の鼓動を抑え込むために大きく深呼吸をして、手袋をはめなおす。
そして、上半身をシャフトの中にもぐり込ませて、そこにあったワイヤーを握りしめた。
オイルか何かのヌメっとした感触が、手袋越しにも伝わってくる。それでも、ギュッと握れば大丈夫そうだ。
私は自分の手と腕を頼りに、そのままシャフトの中へと侵入した。
ワイヤーを脚で挟んで、ゆっくりと滑るようにして下へと摺り落ちる。残り三フィートくらいのところで、私は思い切って飛び降り、リフトの上に降り立った。
ライトで周囲を照らすと、すぐ目の前に、さっき開けたのと同じような上下に開く扉があった。内側から見ると鋼材がまる出しになっていて手は掛けやすそうだ。私は再び手袋を外して扉を開く。
ゴリゴリと音をさせて開いた扉のその先は真っ暗。ライトで照らして、私はそこがようやく広い空間である事を理解して、静かにシャフトから這い出た。
ライトが照らし出したその空間には、扉と同じようなくすんだ銀色の何かがたくさん置いてある。
ひとつひとつは何かは分からないけれど、それを見た私は、そこが厨房である事を確信した。
一瞬、とてつもなく嬉しくなって駆け出しそうになる。でも、一歩踏み出した私は、自分の気持ちを無理矢理に押し留めて、もう一度大きく深呼吸をした。
ここが厨房なら、食料はきっとある…でも、食べ物がある場所には、ネコが入り込んでいる可能性だってあるんだ。
自分にそう言い聞かせた私は、背負っていたショットガンを抱え、銃身ごとライトを握って、ゆっくりと慎重に歩き始める。
ネコを警戒する意味で辺りを照らしてみれば、銀色の設備にコンロやシンクがあり、鍋が置きっぱなしになっていたりすることに気が付いた。
やっぱりここは、厨房なんだ…!
そんな思いに駆られて、やっぱり気持ちが高ぶってしまう。
でも、次の瞬間、私はライトの先に得体の知れないものが、息が止まった。ライトの光の中に映っていたのは、毛むくじゃらの何か、だった。
ううん、それは…さび色の模様をした毛皮…間違いない。
巨大なネコが、私のすぐ前に丸まっていたのだ。
私はジャケットのこすれる音がしないように気を付けつつ、そっとショットガンの銃口を向けて、ネコの様子を観察する。
ライトの中で丸くなっているネコは、身じろぎ一つせずに、じっとその場に伏せたままだ。
私は、恐怖に支配されそうになっていた気持ちを落ち着けて、ネコをまじまじと観察する。私がこれまで見てきたネコもけっしてそうじゃなかった、とは言えないけど、このネコは、明らかにこれまでのどのネコよりも痩せていた。
あばら骨がくっきりと浮き出ていて、脚も骨に毛皮が張り付いているようにしか見えない。それに、お腹のあたりは、見るからに凹んでいる。
そして、ネコのお腹をじっと見つめていた私は、気が付いた。
このネコ…息を、してない…?
ライトの中に横たわるネコは、呼吸をしていなかった。本当に、ピクリとも動かない。見かけだけはすぐにでも動き出しそうに見えるし、半信半疑ではあったけれど…
私は、ショットガンの銃口でそっとネコの体を押してみる。
ネコに、反応は見られない。
それどころか、私が押したことでバランスが崩れたのか、丸まっていた状態からごろんと転げて、床に伸びるようにして横たわってしまった。
やっぱり、動かない…死んでるんだ…
私は、そのことをようやく理解できた。
これほどにやせ細っている、ってことは…たぶん、ここに入り込んだは良いものの、出口を見つけられず、食事もとれず、そのまま飢えて死んでしまったんだろう。
だけど、私はそれでも、目の前のネコが今にも動き出すんじゃないか、って恐怖を感じていた。だから、その頭にそっとショットガンの銃口を向けて、引き金を引いた。
カキャンッ!という音とともに、肩を強烈な反動にたたかれて、私は思わず床に尻餅をついてしまう。でも、バックショットは確実にネコの頭をとらえて、そして、粉砕していた。
それを見届けた私は、怖さに乱れた気持ちを深呼吸で整え直し、さらに厨房の中をすすむ。
そして私は、ついに目当てにしていた“それ”を見つけた。
銀色にライトの光を反射する、大きな一枚の壁のような物。これがたぶん、フリーザーに違いない。
私は、一度ライトで周囲の様子を確かめ、ネコの気配がないのを確かめてから、フリーザーのノブに手を掛け、引き開けた。
その瞬間の気持ちは、どう表現したらいいのか、わからない。
安心にも近かったし、喜びとも取れた。
とにかく、フリーザーの中には、野菜や卵、お肉のバラに、牛乳らしいものまでが、ぎっしり詰まっていたからだ。
これで…ロイが助かるかもしれない…!
そう思った私は、もう無我夢中だった。
背負ってきていたリュックサックに食料を詰められるだけ詰め込んで、早足に厨房を横切って、エレベータシャフトまで戻る。
さすがにワイヤーを伝って上るのは難しそうだったので、シャフトの内側を支える鉄骨の鋼材を木登りの要領で上っていき、シャフトへと入った病棟のナースカウンターの内側に戻る。
そして、念のためにと開け放ったシャフトのドアを閉めなおしてから、駆け足でロイのところに戻った。
バリケードをどけて、部屋のドアをあけて中にはいる。
するとそこには、ベッドマットから起き上がり、私をジッと見つめているロイの姿があった。
「レイチェル…一人で出歩いちゃ、ダメだよ…」
ロイは力なくそういう。
でも私は、もうこぼれだしてしまいそうなほどにあふれ出てくる嬉しさと興奮に勢いを付けられて、ロイに報告をしていた。
「あのね、ロイ!食料を見つけてきたの…!」
私はそう言いながら、リュックサックに詰めて来た食料を取り出して見せる。
「レイチェル…」
「これで…きっと大丈夫…今、火を起こすから待ってて!」
小さな声で囁くように私の名を呼んだロイをベッドに残し、分解したワゴンの棚板の上に残っていた壊した木製のイスに残り少ないオイルを掛けて、ライターで火をつける。
すぐに木に火が付いたことを確かめた私は、ロイのナイフでお鍋に野菜やお肉を削るみたいにして切り出す。お鍋の半分くらいまでになったところで雪を一塊入れて、それを火にかける。
ほどなくして雪が解け、野菜とお肉が水に浸された。これで沸騰して熱が通れば、きっと食べれるくらいのスープにはなってくれるはずだ。
私は支度を終えて、ロイのもとまで戻る。
するとロイは、まるで暖を求めるようにして、私の体をぎゅっと抱きしめた。
「ロイ…?」
これまで何度だってこうしてくれたことはあったけれど、ケガをして以来、ロイは寝込んだままで、私を抱きしめてくれることはなくなっていた。
思わぬことに私が驚いていたら、ロイは、そっと私の体を向きなおらせて、後ろから抱え込むようにして腕を回してくる。
そして、私の目の前に、ロイのコンピュータが姿を現していた。
「いい、レイチェル…よく覚えてね」
ロイは、私の耳元で、囁くようにして口を開く。
「最初に、このボタンを押して…そうすると、これまで私が取ったログが表示される…」
ロイは、そう言って、力のない指先で、コンピュータの操作をし始めた。
「…ログが表示されたら…この、一番上のログをカーソルキーで選択して、エンターを押すの」
「待ってよ、ロイ…」
私は、ロイの言葉と行動の意味を察して、思わずそう口にしていた。
ロイが私に、このコンピュータの使い方を教える意味は、ただの一つしかない。
「…エンターを押したら…このログだけが表示されるから…そうなったら、この赤いボタンを押して」
ロイは、私の言葉を聞かずに、赤いボタンを指示して言った。それから、
「私を助けてくれた“ロイ”は、私を一人で転移させたの…。手帳に書いてあったんだけど…彼女は、彼女を助けた“ロイ”と一緒に転移して…その遺体を自分で処理しなきゃいけなかったんだって…。それはとてもつらい経験だったから…転移するときは、レイチェル一人でさせたほうが良い、って…」
と、私の体に回した腕に力を込めた。
「だから、ここでお別れ…」
「いやだ…!」
私は、そんなロイの腕の中で体をひねって、ロイにしがみついた。
「ロイ、弱気にならないで…!食料も少し手に入ったし、必要なら、また取りに行ける…!食事をすれば、ロイもきっと元気になれるよ…だから、そんなこと言わないで…!」
そう、そのはずなんだ…ロイのケガが治らないのは、食べるものがなかっただけだから…だから、お肉と野菜をちゃんと食べれば、きっと傷もふさがる。前までと同じように元気になれる…そうに違いないんだ…!
「ううん、レイチェル…私はたぶん、もう何日も生きられない…出血も止まり切ってないし、傷もふさがらなくなってきてる…」
そう言ったロイは、私の体をグイッと腕で押しのけるようにして離れさせる。
「ごめんね…最後まで守ってあげられなくて…一人にさせちゃって…」
ロイの目から、ハラリと一粒の涙がこぼれた。
私は、心臓を握りつぶされたような感覚に息が詰まった。
なんとかしてロイを助けたい…でも、ロイ自身が、もう体の限界を感じているのがわかる…どうしよう…私には…ロイを助けられないの…?私は…私が油断していたせいでロイにケガをさせてしまったのに…私は…私は…
「いやだ…いやだよ、ロイ…私、ロイを一人にしたくない…ロイをこんなところに置いて行ったりできないよ…!」
私は、いつの間にかあふれ出していた涙をぬぐうのも忘れて、ロイの弱々しい腕を払いのけて、その体に再びしがみつく。
「私は、大丈夫…私には、私を守ってくれた人がいた…私を手助けしてくれたあなたがいた…それだけじゃない。私やあなたは、これまでのロイとレイチェル達の歩いたのと同じ道の上にいる…だから、私は一人じゃないよ…」
ロイはそう言いながら、私のジャケットのポケットに、あのボロボロの手帳を押し込んだ。そしてまた、小さくかすれた声で、静かに言う。
「だから…あなたはあそこに戻って…ほんのすこしだけ、頑張って…次のレイチェルを助けるために」
「でも…!」
そう言い返そうとした私に、ロイは今度は、腕に付けたコンピュータを押し付けてくる。
でも、私はそれを受け取らなかった。受け取ってしまったら、ロイが生きることをあきらめてしまうんじゃないか、って、そう感じたから…
「レイチェル、お願い…」
「いやだよ…そんなの、そんなの、いや…!」
私は、縋りつくようにしてロイを抱きしめて首を振る。
思えば、こんなに駄々をこねたことはない。母さんにだって、もうちょっと聞き分けよくできていたはずなのに…
それだけ、私にとってのロイの存在は大きかったんだと思う。失いたくないって、そう感じていたんだと思う。
だからこそ私は、ロイの言葉に心をかき乱されながらも、必死に考えていた。
大切なこの人を…私を助けに来てくれたロイを、死なせない方法を…
「いい子だから…お願い…」
「お別れなんて、いやだよ…」
「お願い、レイチェル…でないと、私がボタンを押すことになる…避けたいけど…どうしても、っていうんなら、そうしなきゃいけない…」
「ま、待って!」
ロイの言葉に、私は、パッと体を離していた。そして、ロイの手からコンピュータをむしり取る。
「…分かったよ…ロイ…」
私は、そう言う他になかった。
「レイチェル…」
「でも…一つだけ、お願い…」
いい考えなんて浮かばない。どうしたって、ロイのケガを治すには、きちんとした治療がいる。栄養を摂って、傷の具合をきちんと診て、もしかしたら輸血なんかもしたほうが良いのかもしれない。でも、そんなことを私ができるわけもない。
だから、それはただの時間稼ぎでしかなかった。
「…最後に、一緒にディナーを食べよう…?いつもみたいに…」
「うん…そうだね…」
私の苦し紛れの提案に、ロイは、精一杯の笑顔を浮かべて答えてくれた。
それから私は、ロイに見守られながらスープのお鍋のところに戻った。
イスを壊した木を火にくべ、お鍋の中をスプーンでかき混ぜながら、必死になってロイを助ける方法を考えた。
だけど、そんなことが思いつくようなら、もうずっと前に気が付いている。
結局、スープがゆだって、野菜がしなしなになり、お肉にも火が通ってしまっていた。
それをロイと二人で分けて、一緒に、静かに、ディナーとして食べ始める。
スープを一口食べてみると、寂しくて、空っぽな味がした。
「薄味だね…」
ロイがそんなことを言って笑うので、私も
「塩とコンソメも持ってくるんだった」
なんて言葉を返して、笑った。
静かで、穏やかで、そして、悲しい時間だった。
どれだけ頭を回転させても、ロイを助ける方法は思いつかない。その事実を突きつけられて、私はついに、そのことを受け入れるしかないのかもしれない、と、そんなことを考え始めてしまっていた。
それを思えば思うほどつらくなるけれど、だからと言って、このままずっとここにいることはできない。それこそ、ロイを裏切ってしまうようなものだ。
でも、それでも、私は…ロイを一人になんて、したくはなかった…
「食べ終わったね…」
ロイが静かにそういって、お鍋をベッドマットに置いた。
「うん…」
私もうなずいて、最初のアパートから持ってきていたお皿を床に置く。
それを見届けたロイは、私に、ショットガンと、弾の入ったリュックサックを押し付けて言った。
「ありがとう、レイチェル…」
その言葉に、私は胸から気持ちがあふれて、また、ボロボロと涙をこぼしながらロイにしがみついていた。
「…私こそ、ありがとう…ロイ…助けに来てくれて、うれしかった…一緒にいてくれて…幸せだった…!」
「うん…私もだよ、レイチェル」
ロイはそう言いながらも、私の体をそっと押し返してくる。
「じゃぁ、お別れにしよう」
ロイは、力こそ弱々しいのに、強い意志のこもった瞳で私を見つめてそう言った。その瞳には、ノーと言わせない力を持っているように、私は感じた。
もう、ダメなのかな…
私には、ロイを助けてあげられないのかな…
たくさん助けてもらったのに…たくさん支えてくれたのに…私には、それをロイにお返ししてあげることができないのかな…
これまでだった、感じたことはあった。でも、このときほど、私は、力のない自分を、守られるだけの自分自身を悔しく思ったことはなかった。
「さぁ、行って…」
ロイが、そう言って私から離れようと、ベッドマットから体を引きずって壁際まで這って行く。でも、私は…ロイに渡されたコンピュータのボタンを押すことができなかった。
でも、それをロイは分かっていたんだろう。
彼女は、おもむろにそばに置いてあったホルスターから拳銃を引き抜いた。
「ダメっ!」
私は、思わずロイに飛びついて、彼女の動きを制する。こんなことをしたって、どうにかなるわけじゃない…でも、目の前で自殺なんかされたいわけがない。
「ロイ…一緒にいるよ…」
「ダメだよ、レイチェル…あなたは、戻らないと…」
「じゃぁ、一緒に来てよ…ロイはまだ生きてる。シェルターには食料も医療品もあるんでしょ…?シェルターに戻れば、助けられるかもしれない…」
私の言葉に、ロイは首を横に振った。
「一緒に戻っても、同じだよ…私の傷は、本格的な手当てをしないと、どうにもならない…今日まで生きてこれたのだって、奇跡みたいなものなんだから…」
「だったら、それでも良い…私、ロイをこんなところに一人でなんておいていけない…ロイだって、それがどれだけつらいかわかるんでしょ⁉」
ロイは言っていたはずだ。あの日、あの不思議な形をした塔の下に置き去りにしてしまった“ロイ”のことを、ロイがどれだけ想っていたのかって。
「…私が死んだら、あなたが私を埋葬しなきゃいけないんだよ…できるの?」
「私、やるよ…もしロイにそんなことがあったら…私がちゃんとする。だから、お願い…シェルターまで一緒に来て…」
私は、思いのたけをぶつけた。
そのほうがずっといい。ここにロイを残してしまうより、一緒に行って、最後までロイのそばにいてあげたい…たとえ、ロイの大人の体を私一人で運んで、どこかに埋葬しなくちゃいけなくなったとしても…そのほうがずっといい…
ロイは、しばらくの間、ジッと黙っていたけれど、ほどなくして、静かな声で言った。
「分かった…レイチェル…。それなら、一緒に行こう…?」
ロイの声は、涙に震えていた。
でも、私はうなずいて、ロイの首に腕を回してきつく抱きしめる。
そして、ロイに言われた通りにコンピュータを操作した。
メニューから「ログ」を選んで、エンターを押す。するとそこには、さっき教わった通りに、不思議な数列がいくつも並んでいる。私は、カーソルキーでその一番上を選んで、エンターキーに指を向けたとき、ふと、気が付いた。
それは、冷静でない私だからこそ…どうなってもいいや、とすら思っていた私だったからこそのことだったけれど、とにかく…私ではどうしようもない、と思い知っていたからこその発想だったんだと思う。
だから、私は迷わなかった。
これはロイを裏切ることになるかもしれない。でも、それでも、シェルターに戻るよりは、もっとずっと、良い可能性があるかもしれないことだった。
「ロイ?」
私は、ロイの名を呼ぶ。
「なに、レイチェル?」
ロイが、優しい声色で、そう聞き返してくれる。
そんなロイに、私は、深呼吸をして言った。
「ごめんね、ロイ」
そして、私はロイの返事を待たずに、エンターキーでログを選択し、赤いボタンを押す。
すると、ピーッというけたたましい音とともに、私達は真っ白な光に飲み込まれた。
* * *
「私の本当の名前は、ロイじゃないんだ。私は…レイチェル・オリビア・ヤング…」
呼吸が、思考が、停止した。
そんな私に、ロイは、優しい笑みを作って、言った。
「…私は、十年後の未来から来た、あなた自身なんだよ」
………?
み…未来…から…?
ロ、ロイ、何を言ってるの…?そんな、そんなの…ウソ、ウソに決まってるよ…
信じてられなかった。そんなの、信じられるはずがない…
タイ厶トラベルだなんて、そんなのは映画の中だけの話だ。現実にあるはずがない…
そうは思ってみるけれど、私が手にしている写真は、ロイが言っていることが嘘じゃないと示している証拠の一つだった。私は、二つの手帳のページを繰る。そして、私はさらに驚いた。
ロイが預けてくれてた手帳にも、日記が書いてあった。古くて、ところどころ文字が滲んでしまってはいるけれど…それは、間違いなく、私が書いた日記だった。
シェルターでの暮らしの間、寂しくて、誰かに話を聞いて欲しくて、母さんや父さんと話しているつもりになって書いたものだ。その内容は、もちろん私が持っていた手帳にも書いてある。一文字も、アルファベットのハネにさえ、違いがない。それどころか、スペルを間違えてグリグリと消してしまった跡さえ、おんなじだ。
私は、クラっとめまいを覚えて、その場に膝から崩れ落ちた。
まさか…本当に…ロイは、未来から来た…私、なの…?
ロイ…R.O.Y…も、もしかしてロイの名前は…レイチェル・オリビア・ヤングの…頭文字を読んでたってこと…?
でも、タイムトラベルだなんて、そんな…そんなことが、本当にそんなことが出来るの…?
私は、混乱している頭の中を必死に整理しようと思考を走らせる。ロイの話を嘘だと思い込もうとする意志と、目の前にある否定しがたい証拠を見た理性が衝突して、気持ちが嵐の海のように大きく荒れる。
だけど、そんな私のことを知ってか知らずか、ロイは続けた。
「私は…四人目の“ロイ”。私たちは、もう四度、十年後の未来からこの時代に戻って、レイチェルを助けて、サンフランシスコの研究所を目指した。でも、一人目のロイはあのトレジャー島の船で死んだ。二人目のロイは、ブラッドハウンドに襲われたときに。そして三人目の…私を助けに来てくれたロイは、今ここで、あのネコ達の襲撃で右腕を奪われ、左足をえぐられて…血が…血が止まらなかった…」
そう言ってロイは、雪面から飛び出ていた塔を手で撫でる。それはまるで…そこにかつていた誰かに触れているような雰囲気だった。
私が言葉に詰まっていると、ロイはが預かっていた手帳を指差す。
「それは、これまでのロイ達が残してくれた、いわば、道しるべ。何をしてうまく行ったか、何をして失敗したかが全て書き込んである。私はそれに従ってここまで来た。今ここでの戦いも、私は、あなたの立場で経験したんだ…ロイが傷ついて、それでも、ネコ達を倒してくれる、そのときまで一緒にいた。だから、私には分かってた。ネコが左右に分かれて、私が右を受け持って、あなたに左を任せるしかないってことも、知っていた…私は慌てて拳銃を撃って、ネコ達が左右に分かれたときにはマガジンを交換しなきゃいけなかった。交換を終えて、また焦って引き金を引いて…私は、ネコ達を足止め出来なくて…飛び掛かって来たあのトライカラーのやつから私を庇ったロイが、あんなケガを…」
ロイは、そう言って視線を塔へと向ける。
「ロイは、最期にここにいた。ここで、息を引き取ったんだと思う…ここが、私を助けてくれた“ロイ”のお墓なんだ…」
そしてロイは、再び塔の方に向き直り、まるでそこに“ロイ”がいるかのようにしなだれかかった。
「私、嬉しかった。シェルターにずっとずっと一人でいて、寂しかったんだ。怖かったんだ。ロイは、そんな私に会いに来てくれた。もう、一人にはしない、って。守ってくれる、って、そう約束してくれた。そばにいて、私を励ましてくれた…助けてくれた…。ロイが来てくれたから、私、生きてなきゃ、って思えたんだ…」
私には、分かった。それが、ロイがずっとずっと抱えていた気持ちなんだ、って。
未来から来たとか、そんなことは考えないにしても…ロイは、小さい頃に“ロイ”って人に助けてもらったんだ。守ってもらって、きっと一緒に雪道を歩いて、一緒にディナーを食べて、一緒に眠って…そうしてもらえて、安心したんだ。嬉しかったんだ。
私には、それが分かる。分からないはずがない…だって、だって私がそうなんだ。ロイと一緒にいて、嬉しかった。安心した。会ってたった数日しか経っていないけど、私はロイが大好きだし、誰よりも頼りにしているし、信じている。
だから…だから、ロイは…
「だから、私は時をさかのぼってきた。あなたに会うために…あなたを助けるために。一人で寂しい思いをさせないように。そのために、体を鍛えた。銃の練習もした。勉強もたくさんして、身を守るための知識も付けた。私がロイにしてもらったように、今度は私がロイになって、あなたを助けなきゃいけないって、助けたい、って思ったから」
そう言って、ロイは“ロイのお墓”に寄りかったまま、私に腕を伸ばしてきて、抱き寄せる。
「でも…ここから先へ行くのは、私達が初めて。これまでのロイとレイチェルが歩めなかった、真っ白な未来。今までのように安全にことを運ぶためのヒントはないんだ…」
そう言ってロイは、私の体をギュッと抱きしめた。
私は、ロイの腕の中に体を包まれながら、これまで同じようにロイにハグされたときのことを思い出していた。
もし…ロイが本当に私だったのなら…きっと、私の気持ちも分かっていたはずだ…だから、ロイは、私が求めていた物をくれたんだ。ときには、私の考えを読み取っているんじゃないか、って思うくらいに、私が何かを言う前に、私の質問や不安に答えてくれたことだってある。
そう、これまで私は、ずっとずっと、ロイに“してもらってばかり”だった。
でも、そんなロイが耳元で、今までになく力強い、静かな声で私に言った。
「だから…私は今までのロイがしてこなかったことをしようって決めたの。私の…私達のことを、全部話すよ…だから、レイチェル。力を貸して」
未来とか、ロイが誰か、とか、そういうことには、まだ頭が付いて行かない。でも、確かなのは、ロイが私を助けに来てくれたこと、ずっと私を支えてくれていたこと、そして何より、今まさに、ロイは私の目の前にいて…私を抱きしめてくれていってことだ。
それだけは、疑いようもない事実。そして、そんなロイが言っている。これからは、私にも手伝って欲しい、って。
助けられてばかりだった私が、ロイのそんな頼みを、断れるはずがない。
「うん…分かったよ、ロイ…まだいろいろ混乱しているけど…ここからは、力を合わせて進もう。これからは、私も頼ってばかりにはならない。私も、ロイのために頑張るよ」
気がつけば私は、ロイを抱きしめ返して、そんなことをロイに伝えていた。
そんな言葉に、ロイはこれまでに見せたことのないうれしそうな顔を浮かべて、気持ちを入れ替えたのか意気高らかに私に言った。
「さて…詳しい話は、どこか安全なところに行ってからにしよう!」
「うん!」
そんなロイの言葉に、私も気持ちを整えてそう答え、そして、一緒になって立ち上がった。
その次の瞬間だった。
急に、目の前が目を開けていられないくらいに明るくなって、私は思わず目をつぶってしまう。
な、なにがったの⁉
そんな思いもつかの間、私は、なにか重いものに弾き飛ばされるような感触に襲われて、気が付けば雪の上に倒れこんでいた。
私だけではなく、ロイも一緒に、だ。
そして顔を上げた私は、今の今まで、ロイが座り込んでいたあの変な形の塔の下がまぶしく輝いているんだ、ということに気が付いた。
そして、そのまばゆい光が弱まってきて、私は、息をのんでいた。
その光の中には、何かがいた。
一人は、ウェットスーツのようなグレーの服装をした短い髪の女の人と、そしてもう一人は…私と同じジャケットを着て、私と同じニットの帽子をかぶり、私と同じブロンドの髪と、緑の瞳、私と同じ顔をした、誰か、だった。
「う、うそでしょ…?」
ロイが、そんな声を漏らすのも気にせずに、私にそっくりなその誰か、は、かすれた声で叫んだ。
「お願い、ロイ!ロイを助けて!」