退行催眠
『19○○年○月○日、静岡県○○市において殺人事件が発生した。
32歳の主婦が2歳年上の夫を刃物で刺し殺したのだ。夫の遺体を車に乗せようとしている所を通報され、現行犯逮捕された。
警察は当初夫婦内のもつれから事件が発生したと考えていたが、近所でも評判の仲の良い夫婦だったらしく、仲違いする理由を見つけることはできなかった。
主婦は逮捕された直前、警官にこうもらしたという。
「殺せ。―という声が聞こえた」と 』
男は大きな土管の上で寝転がっていた。空は青く、風も気持ちがいい。こういう日は寝転がるに限ると男は思っていた。
男の髪は白髪で、茶色いロングコートを着ていた。そのロングコートは新品とは言えず、もうボロボロに汚れていた。
男はコートのポケットからタバコを取り出すと、火をつけた。
「・・・あなたなの?」
急に声をかけられた。男は危うくタバコを落としそうになった。起き上がってみると、そこには制服を着た女が立っていた。
年は高校生ぐらいか…。
男はそう思った。
「あんたは?」
「私は噂を聞いただけ。何か奇妙な話を集めている男がいるってね。白髪に茶色のロングコートを着てるって聞いたから」
「まあ、それなら俺だな」
男はタバコの煙を吹いた。
女は警戒することなく男の傍に腰をおろした。その態度で男はわかった。
―この女は話たがっているなと。
「聞いてくれる?」
「ああ、大歓迎だ」
男はまた、タバコを吸った。
「今日さ。催眠をかけてあげるよ」
H子は突然私達にそう言った。
「催眠? テレビでよくやってるやつ?」
M子は放課後に呼び出しといて何の用事かと思えばと、そんな呆れた顔でH子に言った。
「私の叔母が催眠療法ってのをやっててさ。前の休みの時に退行催眠のやり方を教えてもらったんだ。ちょっと試したいのよ」
H子はうずうずして言う。どうやら覚えたての技術を使いたくて仕方がないようだ。
「でも・・・危ないんじゃない。素人がそんなことやっちゃあ…」
私は何か嫌な予感がして言った。
「大丈夫。催眠を解く方法も教わったから」
「いや・・・そういうことじゃなくって・・・」
「いいよ」
M子は唐突に言った。
「ほんと!?」
「ほんとほんと、だけどアイスクリーム奢ってよ」
「いいよいいよ。じゃさっそくやろう」
H子ははりきって言った。
「だっ、大丈夫なの?」
「平気だよ。催眠なんてかかりゃしないから」
M子はH子の催眠をすっかり冗談だと思っているようだ。
「それじゃあこの机に座って。・・・催眠にかけるから」
M子はH子に素直に従った。H子はM子に何かを呟いたり、体を動かしたりと色々やっている。私は黙ってその様子を見守っていた。
「・・・よし催眠に入った」
「ほんと?」
H子は自信満々にM子に何かを呟く。
「・・・泳げないもん…やめてよ…」
M子はいきなり話始めた。
私はたぶん、M子がわざとやっているのではないかと思い何も言わなかった。
「まだまだ退行させるわよ」
H子はまたM子に何かを呟いた。
「・・・ママ・・・もう食べられない…ママ…」
私はつい吹き出してしまった。
「あははっ、ママって」
お腹を抱えて笑う私とは対照的に、H子は真剣にまたM子に向かって何かを呟いている。
すると、急にM子は横に倒れた。両手で体を抱える。体はガタガタと震え始めている。
「寒い…ここは…寒いよ…」
様子が変だ。
「・・・ねえ、ちょっとM子」
まだわざとやっていると思った私は、M子に声をかけた。しかし、M子は私の声に反応せずガタガタ、ガタガタと体を震わしている。
まさか・・・本当に催眠にかかっているんじゃ…。
さすがに不安になってきた。
「ちょっと…H子。M子の様子が変」
「まだまだいくわよ」
H子は完全に我を忘れている。
しばらくH子はM子に呟き続けた。M子は体を震わせていたが、急にピタリと動きを止めた。
「?」
M子はまったく動かなかった。目は開いたまま瞬き1つしない。ジッと一点を見つめている。
H子はまだM子に呟き続けていたが、M子は反応しない。
「H子・・・やばいんじゃない」
「う〜ん・・・」
H子は催眠をかけるのを止め、腰に手を当てた。確かにこれ以上やっても成果はなさそうだ。
「どこまで退行させたのよ?」
「そうねぇ…もう胎児…あたりかなぁ」
「胎児って…」
なんだかSFの世界だ。
「もうやめたら。さすがにシャレにならなくなったら…」
「そうだね。それじゃあ催眠…を…」
H子の言葉がつまった。私も驚愕して動けなかった。
M子が机の上に立っていた。
M子は両手を広げ、アングリと口を開いている。口から綺麗に整った白い歯が見える。その姿はまるで磔にされたイエスキリストのようだ。
「ハア・・・ハア・・・」
M子の口から何かが漏れる。目はまったく瞬きをしない。ギョロリとM子の目が2人を見下ろした。
「あっ・・・あのっ」
H子と私は後ずさった。
H子は顔が青くなっている。
スタンッ
M子が机から飛び降りた。両手がぶらりと前にぶらさがる。口は開けたまま、目も開けたまま。口からダラリと舌が垂れ下がった。
「・・・・・・・・・」
M子が何かを言った。その言葉は小さくて聞き取れなかった。
「ちょ、ちょっと・・・M子・・・」
私は搾り出すような声でM子を呼んだ。M子は反応しなかった。
M子がH子を見ると、蜘蛛のようにササッと歩き始めた。
「ひぃ」
H子は小さく叫んだが、逃げ出す事はできなかった。壁に背が当たり、それ以上行くことができなかったのだ。M子はH子の前までやってきて、顔を近づけた。
「―ありがとう。出してくれて」
H子の悲鳴が校内に響き渡った。
「―それで、彼女はどうした?」
「今もいるよ。ただ私とH子だけがわかってる。あれはM子じゃない。別の『何か』・・・だって、瞬きをしないもの―」
男はタバコの煙を空に向かって吹いた。
「それでさ。私色々調べたんだ。人間の脳って積み重なってできてるんだよ。脳の奥には動物脳っていうのがあって、それは私達が始めて生まれた時にできた脳。そして人間は進化していくにつれて新しい脳をつくっていった。今私を私たらしめているのは最新の脳なんだよ」
「へえ・・・」
女は土管から降りた。踵を返すと男から離れていく。
「―この頭の奥にはきっと…『何か異様な者』がいるんだね。私達は催眠でそれを出しちゃった」
女は頭を指でつつくと、そのまま去っていった。
男はノートを取り出すとさっき聞いた話を書き写し始めた。
『―人の脳は7割は使用されていないという。その脳の奥底で、私達は"人間"になるために"何を"閉じ込めたのか―』
「…そういやあの子。瞬きしなかったな…」
男は空を見上げた。空では鳥が羽を大きく広げて羽ばたいていた。ふと―どこからか声が聞こえた。
『―出せ』
『退行催眠:了』