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気を取り直して、それからいくつかの湯に入り、十分堪能して温泉を出た。雨宮さんと落ち合うと、もう夕暮れになったので、少し早いが夕食を食べることにした。夕食はこれまたホテルの敷地内にある、バイキングレストランで取ることになっていた。
「地ビールが飲み放題なんですよ」
温泉施設からレストランへ向かう途中、温泉のおかげですっかり機嫌が直ったような口調で、雨宮さんは言った。
「へえ」
「それも一種類だけじゃなく、五種類飲み放題なんです。楽しみですね。関口さんはお酒、飲まれますか?」
この前、スーツを着てずっと僕の前を早足で歩いた時とはうってかわり、僕の左横に並んでゆっくり歩きながら、白い息を吐き吐き、嬉しそうに話すのだった。
酒の話をしながら歩いているうちに、レストランに着いた。入ると中は客でごった返していた。チェックインした際にもらったチケットを店員に見せると、店の奥の方の四人掛けのテーブルに案内された。
僕と雨宮さんは、早速料理を載せる白いプレートを持って席を立ち、料理が並んでいるところへ行って、ステーキやローストチキンやフライドポテトなど、これでもかと盛り付けた。ビールも忘れず、ジョッキいっぱいに注いだ。そうして席に戻って乾杯すると、おしゃべりもそこそこに食べ始めた。
プレートの上の料理が少なくなり、そろそろ二回目の盛り付けに行かなければと、僕が考えだした時だった。
「マサキ?マサキじゃない?」
突如そう呼ばれて、僕ははっと顔をあげた。見ると、僕たちの席のすぐそばに、若い男が立っていた。キツネのような顔立ちに、黒のコーンローヘアーを、後ろで束ねている。グレーのスウェットパーカーに、太いズボンを合わせていた。――大学時代の友人の、ケンちゃんという男だった。
「ああ、ああ・・・」
驚きのあまり、僕は言葉もなかった。雨宮さんも幾分驚いた顔をして箸を止め、ことのなりゆきを見ている。
「スゲー偶然じゃん!久しぶりだな、何しよん、こんなとこで?」
「いや、なんていうか、旅行がただでいけることになって、来てるんだ」
「あれ?もしかして、ドリームじゃない?ドリームワークス?マジで?今流行っとるみたいだからなあ。実は俺もドリームで旅行プレゼントされて来とんよ。あ、ここ座っていい?ごめんな」
と、雨宮さんに口だけは謝りながら、僕の隣に座ってきた。持っていたビールの入ったジョッキと、料理の盛られたプレートを、テーブルの上に置いた。
「それにしても久々じゃなあ、元気にしとった?なんじゃ、太ったな。・・・そう言えば、リュウ君とユイも来とんのよ」
本当に?と僕は聞き返しながら、もうこれ以上仲間が増えないことを祈った。僕はケンちゃんなどにはちっとも、会いたくなかったのだ。しかしケンちゃんはそれには全く気付かない様子で、
「ドリームに新規契約者を紹介したら、その新規契約者の夢の代金の一割ぶんを、紹介した人にキャッシュバックするっていうキャンペーンがあるんよ。それで俺がリュウ君とユイに、ドリーム紹介したんよ。そうしたら久々に連絡取ったし、せっかくだから御殿場の旅行にもみんなで行こうって話になって、旅行の日にち合わせて来たんじゃ。待って、今呼びよる!おうい、リュウ君、ユイ、こっちこっち」
と、向こう側の席に座っていた二人を呼んでしまった。
間もなく二人がやってきた。ユイちゃんがわざとらしく「きゃあああ久しぶりいいい元気してたあああ」と叫べば、リュウ君は相変わらずカッコをつけて「元気しとったか」と言いながら挨拶の握手を求めてきた。そうして雨宮さんがいるのにも関わらず、図々しくも、二人ともやっぱり僕たちの席に座ってしまったのである。三人とも、もうだいぶ飲んでいるらしく、顔が赤かった。
しばらく僕たちは雑談に興じた。
「マサキもドリームのプレゼント旅行で来とるんじゃと」
雑談の最中、ケンちゃんがリュウ君とユイちゃんに説明した。
「マジで?それで、かわいい彼女と一緒に来たの?うらやましい!」
ユイちゃんが雨宮さんを見ながら、大げさに応える。いや、彼女というかね、と僕はしどろもどろになって言った。彼女がドリームワークス社の社員だということを話してしまえば、雨宮さんはもっといたたまれなくなるだろう。
「そうか、じゃあマサキは作家になる夢、売ったんか」
リュウ君が聞いてきた。
「うん、まあ」
僕が答えると、リュウ君は、
「それで正解!俺も俳優だなんて言ってたけど、三十路超えるとさすがにきっついもんがあったわ。俳優になる、作家になるって言って、言い続けるうちに、なんていうか、夢なんてだんだん擦り切れていってしまうんだよな。そんなこと言っているうちに、俺なんて、髪の毛が後退してきちゃってさ、ほら、見てみい」
と言いながら被っていたニット帽を取って髪の毛を見せてくるのである。確かに以前会っていたころより額が広くなっていた。
「俳優になる前にハゲになるわ!(と、リュウ君が言ったところでユイちゃんがぎゃははははと下品な笑い声をあげた)お前は笑うな!とにかくこれはやべーってんで、思いきって夢を捨てて就職することにしたんよ。やっぱり男は、どこかで甘えを捨てて、まずは何より自分の手で自分の飯を食っていかなきゃならないと、思うんだよな」
「はいはーい、あたしも、アパレルの店長になる夢売っちゃった。ひどいんだよドリーム、五万円にしかならなかったんだから」
「お前のは思いつきでちょっと言っとっただけじゃろうが。俺らと一緒にすんな」
「ひどいよケンちゃん、あたしだって必死で夢を叶えるために働いてたんだからね。昼はアパレルショップ、夜は別の仕事。この夜の仕事が嫌で嫌で、休むためにわざと自分の指を折ったことだってあったんだから。こうして指を包帯でぐるぐる巻きにして、一気に手の甲の方に引っ張るの。ぽきっ、て」
「お前、盛り下がる話すんな。マサキの彼女が引いとるじゃろうが」
僕はビールを飲みながら話を聞いていた。ビールが全然、おいしくない。リュウ君やユイちゃんの話の中に、どこか一点でも実のようなものがあればいいのだが、少しも見つからないのだった。この人たちは、八年前とは言うことが180度変わったが、その中身がからっぽなことは、まるで変わらない。
僕はたまらなくなって、ケンちゃんに助けを求めた。大学生時代、僕はケンちゃんと一番仲が良い頃だってあった。ケンちゃんには、何かあるはずだ。からっぽでは、ないはずだ。
「ケンちゃん、ケンちゃんはどうして夢を諦めたの?」
「俺?そうじゃなあ、強いていえばリュウ君と同じ、きっつくなってきたからじゃなあ。
路上で、サックス吹くじゃろ?地面に置いてあるサックスのケースに、客が投げ入れたお金が貯まる。吹き終わったら、それを数えるんじゃけど、これがだんだんバカバカしくなってきたんよ。ケースに入った金を必死で数える、三十歳超えてるおっさん。きっついじゃろう、客に『頑張ってくださいね』なんて言われて、アホみたいにうれしくなったりしてな。
夢を売って、サックスも楽器屋に売りに出して、すっきりしたわ。そういえば、もらった金で、世界一周旅行でもしようかと思っとんよ!ドリームと契約して、良かったわ」
「・・・そう」
やはり何も、ありそうにはなかったのである。僕は寂しい気持ちでビールを飲み干した。
ケンちゃんたちはそれからしばらくすると僕たちの席を離れ、じゃましたなあ、と言いながら自分たちの席に戻っていった。席を離れる時、リュウ君はやっぱり握手をしてきて、じゃあな、がんばれよと僕に言って、去っていった。
静かになった席には僕と雨宮さんが残された。僕は、それからバイキングの制限時間いっぱいまで、雨宮さんが止めるのも構わず、がんがんビールを飲んだ。




