10
食事が終わり、僕と雨宮さんはホテルに戻った。僕はひどく酔って、雨宮さんに肩を貸してもらいながら、千鳥足で部屋に入った。
「大丈夫ですか?吐くならトイレにしてくださいよ」
雨宮さんはそう言いながら、ソファに僕を座らせ、冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきた。僕はソファの背もたれにもたれかかり、ふうと一つ大きく息をついて、眼をつぶった。
「悪いね」
雨宮さんはペットボトルのキャップを開けて、ペットボトルの飲み口を僕の口元まで持ってくるところまで、やってくれた。
「いくらなんでも、飲み過ぎですよ」
僕は一口水を含ませてもらった。雨宮さんはそのまま僕の隣に座った。
「・・・そうだね」
「・・・」
「・・・」
沈黙が部屋を襲った。僕の荒い呼吸だけが部屋に響いている。部屋は蛍光灯の明かりで明るく照らされていた。まだカーテンを引いていない窓が、黒々と夜の闇を映し出している。
「夢をさ」
「はい?」
僕は先ほどからずっと思っていたことを口に出した。
「返してくれ」
「はい?」
僕は眼を開き、雨宮さんの方を向いた。すぐそこに、歯ぐき以外は整った彼女の顔がある。彼女の顔も、ビールで赤く上気していた。
「夢を返してほしいって言ったんだ。僕はあの夢が無いと生きていけない。返してくれ」
「それは――」
「できないって言うんだろう?」
酔いで、カーッと頭が熱くなった。僕は大声をあげた。
「契約違反なのは百も承知だよ!それをわかってて言ってるんだ!冗談じゃない、小説家になれずにこの先生きて行けるか!」
「落ち着いてください」
雨宮さんが立ち上がった。僕もつられて、ソファを立った。立ち上がって、二人、二メートルほどの距離を置いて、見つめ合うかたちになった。
「これが落ち着いていられるか。いいかい、教えてあげる、僕はさっきレストランで会った人たち、あの人たちと、学生時代、毎晩のように悪い薬を吸っていたんだ。そういう薬をくれる人が、たまたま近所にいたんだ。それでその人のやっている店に集まって、薬を吸って、やれ自分は俳優になるんだ、プロの音楽家になるんだ、って言い合って、毎晩を無駄に過ごしていたんだ。
あいつらはみんな偽物だ。ただなんとなく、かっこうつけて生きて行きたいために夢を語っていただけなんだ。僕はあいつらと悪い薬を吸って、学校にも行かず、単位は取れないし、どうしようも無くなった二十歳のある晩、そう、今みたいな冬の寒い夜だった、その晩に、高速道路の陸橋の下の交差点をうろうろして、一人、泣いていたことがある。車がヘッドライトを照らして行き交う中をひとしきり泣いて、そうしてそれから、もう、こうなった以上は小説家になるほかないって、思ったんだ。
なぜその時そんなことを思ったかはわからない、けど、それはその夜を照らす光のように僕を貫いて、希望っていうのは、きっとあんな感じのことを言うんだろう。とにかく僕はその時決めたんだ、小説家になるって。
それから先は、夜は悪い薬を吸って、昼起きると、ボロボロの学生アパートの部屋で太宰治の全集を写していた。薬で震える手でボールペンを持って、原稿用紙一枚一枚に写したんだ。本当に、あの頃のことは今思い出してもおぞましい。でも今でも僕にとってそれは大切な夢なんだ。話はこれで終わりだ。言いたいことは、僕の気持ちはあの頃から少しも変わっていないってことだ。さあ、夢を返してくれ」
僕はここまで一気にまくしたてると、一呼吸置いた。雨宮さんを、きっとにらみつけた。彼女は彼女で、だいぶヒートアップしてきたようだった。僕に負けずにらみ返してくると、ものすごい早口で反論を始めた。
「だいぶ、酔われているみたいですね。そう、酔っておられるんですね。残念ながら夢をお返しするわけにはいきません。契約ですから。それにしてもおかしいですね。なんでこんなに小説家になる夢を返してほしいと思うのか。
・・・もしかしたら、夢を吸うときに夢への情熱を少し、残してしまったのかも知れません。まれにあることなんです。夢を吸うときに、ご契約者様がスーパーマリオブラザーズの映像に集中していなかったりすると。そんなことは、なかったですか?」
「なんでだ、返せないって。金なら返す。耳を揃えて返す、働いて返すよ!なんだ、情熱なんて。確かに映像を観てたとき、多少寝てしまったけど、そんなの関係ない。情熱なんていうのはごっそり吸われて、一度無くなっても、すぐにまた新しい情熱が生まれ出てくるものなんだ、そうだ、それが本当に夢に情熱を持つっていうことだ。この夢が、僕を生かしてくれているんだ。それをなんだ、六十万って。バカにしてんのか!六千万もらったって、売りやしない、君もこんな枕営業は、止めるといい、だいたい、・・・げろろろろっ」
僕はがまんできなくなり、雨宮さんの顔を避けて、ちょっと横を向いてさっき食べたものを床の上に全部吐きだした。雨宮さんも、完全に頭にきたようだった。僕が吐いた汚物をさっとよけ、冷たい流し目でそれを見ると、吐いた僕に構わず反論を続けたのである。
「枕営業!結構じゃないですか、どうせ私は枕です。こっちは会社に入ってから、なりふり構わず必死で働いているんですよ。二十八にもなって夢がどうこう言ってる人には、わからないと思いますけど。枕するなって言うなら、キスなんてしないでくれます?ああ、今思い出してもおぞましい。言いましょうか、私はね・・・おろろろろっ」
今度は雨宮さんが吐いた。汚物が床にべちべちべちっと音を立てて落ち、お好み焼きのように広がった。完全なもらいゲロだった。
雨宮さんは吐くだけ吐いてしまうと、再びこっちを向き、髪をかき上げ、何事もなかったような顔で、
「金は返すって、キスはどう落とし前をつけてくれるんでしょうか?全く」
「うるさい!夢を返してくれないと、そうだ、自殺するぞ」
「へえ?」
「生きて行く目標が無くなったんだ、当然だろう。自殺する!家族がドリームワークスを訴えるぞ、きっと」
「ちょっと待って、本当に酔ってるんじゃない?」
そうなだめてくる雨宮さんを無視して、うるさい、自殺、自殺だともう四、五回言ったところで、雨宮さんが叫んだ。
「ああ、わかりましたわかりました!けっこうです!夢はお返しします!」
「え、本当に?」
「返します!後日全部手続きしますので、待っていてください。ということで、ここのプレゼント旅行も、もうあなたには権利がありません、帰ってください」
今度は僕が「へえ?」という番だった。雨宮さんは完全にキレている様子で、冷たい、ドスのきいた低い声で、僕に畳みかけてきた。
「帰ってくださいって言ったんですよ。もうあなたは、うちのお客さんじゃないんですから。ほら、バッグ。(と言って雨宮さんは近くに置いてあった僕のバッグを取って、僕に押し付けてきた)それを持って、帰ってください。早く!」
そう言いながら、僕の背を押し、部屋の入り口まで連れて行こうとするのである。
「ちょっと待って、この時間、まだバスはあるの?」
「バス?知りません、そんなことは」
とうとう、僕は部屋の外に押し出された。雨宮さんは部屋の中側から、入り口のドアに手をかけて開けたまま、
「それではお元気で。ご利用ありがとうございました。さようなら!」
そう言い放つと、パタン、とドアを閉めてしまったのである。
僕は閉まって静かになったドアを見つめて、一人、立ちつくした。




