狼とカラス
テーマ:カラス
そこに穴があるなんて思いもしなかった。確かに穴があったら入りたいと思ったこともあったけれど、まさか本当に、このタイミングで穴があるなんてきっと誰も思わない。
尻と、落ちた時についた手がじんと痛む。血こそ出ていないけれど、事態を把握できず、呆然とした。
小さな牢のような場所だった。先の方は、暗い眼前に目が慣れていないせいもあるかもしれないが、よく見えない。見る限り壁は、ぺたりと座り込んだ地面をぐるっと円弧を描き、空間を囲んでいるようだった。直径三、四メートル程度であろう。壁を構成するのはレンガのようだけれど、自宅の暖炉のような赤いものではなく、濁った青灰色だった。頭上十数メートル先に小窓があるが光はあまり差し込んでおらず、この空間の薄闇を晴らすことない。頼りになる灯りのようなものも、やはりない。
おかしい。足元の感覚がなくなって、空気を裂き落下するような感覚がしたのに、上には入ってきたはずの穴がないのだ。それに、隣を歩いていたはずのみさとオヤジは、どこだ? 落ちたのは、自分だけなのだろうか。あいつはケーキを持っていたが、潰れていないだろうか、そんなことを一瞬考えた。
「みさー、オヤジー」
半ば諦めながら、落ちてきたはずの天井部分に向かって声をかける。やはり返事は愚か声が返ってくることはなかった。
冷たく重い空気を吸い込むと、少し咳き込んでしまった。埃が舞っているようで、大気の状況は宜しくないようだ。周囲にあるものといえば朽ちかけ木製の机に、同素材と思しき小さな椅子。でもそれらは十にも満たない幼子が座る程度の大きさで、とても今の自分に相応しいサイズではなかった。
「おや、まぁ、珍しい客人だねぇ」
唐突に、どこからか声が聞こえた。辺りを見渡すと、小窓と同じくらいの高さに、カラスがいた。レンガの隙間を利用して掛かる棒に、細い脚を乗せている。
まさかカラスが、いやそんなわけは。自問自答を繰り返していると、
「聞いているのかい。まぁ、確かに独り言みたいなもんだったけどさぁ、反応してくれないと、ちょびっとばかし淋しいじゃないかい、えぇ」
明らかに誰かに話しかける口調で、声が再び聞こえた。
ばさばさとやけにけたたましい音を立てて、カラスが眼前に降り立つ。艶のある黒が、わずかな光を反射している。
気味が悪い、というのが第一の感想だった。
「ひどいな、ぼくだって、好きでカラスに生まれたわけじゃないんだよ。まぁ、今じゃ諦めもあるし、それなりに動きやすいから気に入ってるけどさ」
考えていたことがわかるのだろうか。何でもないように、カラスの嘴が開いたり閉じたりする。どうやらこのカラスが喋っているようだった。
このカラスは、一体何物なのだろう。俺の知る『鴉』という鳥類に分類される生物は、人と意思疎通が可能な存在ではない。
「それはまぁ、ぼくがきみたちの分類する『鴉』じゃないからだろうね、うん」
一人で納得したように喋るカラス。どうやらこいつの口癖は、まぁ、のようだ。
目の前で起こっている光景の異常性はさておき、なんとなく落ち着いてきた。そうしてようやく、どうして自分がここにいるのか、と思い始める。
「それは、ねぇ……っと」
不自然にカラスが言葉を切った。それと同時に、ぐるるる、と喉を鳴らす音が聞こえた。
瞬間的に、背筋が凍る。
その音は俺が知る限り、狼や犬、あるいは熊などといった、凶暴的なイメージの強い動物の発するものだ。
「主役のお出ましさ。まぁ、ぼくはまだ退場しないけれどね?」
カラスがこちらの様子を伺うように、嫌味たらしく語尾を上げる。だがその意図の理解に取り掛かるよりも早くに、俺の脳は恐怖で埋め尽くされていた。
薄闇の中に、ぼんやりと浮かぶ、闇よりも暗い影。ひたひたと、ときおり爪で掻くような細い音が、こちらに近づいてくる。
後ずさりすることも何もできずにただ震えているとき、初めに見えたのは、レンガと同じ色の、青灰色のふさふさした毛の先だった。すぐに、獣の脚だと分かり、ようやく震える足を動かし、身を後ろにずらす。だがそれと同じくらいそれは近づいてきた。
喉に刃を突きつけられたような感覚で、息を呑む。現れたそれは、狼だった。
紅の瞳が炯々と光っている。血黒い目の奥でちろちろっと揺れる何かが、俺の慄いた姿を映す。漏れる音に誘われるよう口に目をやると、鋭い牙が光って見えた。その先と口元周辺には、ねっとりした何かがこびり着いている。
「みさ、オヤジ」
焦点を上手く合わせられないまま、心配からか名前を呼んだ。もちろん返事はない。
「まさか」
狼の口が少し開く。粘ついた赤い水滴が、ぽたたっ、と重く落ちる。その音が耳の奥でこだまして、脳内で残響のように響く。
「あぁ、そうそう……」
カラスが愉快げに嘴を開く。
背筋が凍る。息ができなくなる。
必死に酸素を求めて荒呼吸する様を嬉しんでいるように、ゆっくりと狼が口を開く。
「おいしかったぜ、女子供の肉はよ。でけぇ男は固くて、食いにくかったけどな」
いひ、と吐息混じりにそう血を垂らし、狼が喋った。ツボにはまったように、くつくつと横でカラスが嗤う。
冷たくて埃っぽい風が、狼のいる方から吹いてくる。足元を撫でたそれは巻き上がり、俺の頬を触って流れ行く。
暗闇に少し目が慣れてきて、狼が出てきた先の景色も、徐々に見えるようになってきた。
「久しぶりの飯だったからよ、つい穢い食い方しちまったよ」
灰の毛をふわっと舞い上がらせて、前足を上げる。にちゃっと垂れ落ちたそれを流れ出しているそれは、赤黒い何かの切り口。首から下――胴体の部分は暗闇に未だ紛れて見えない。近くには彼女お気に入りの、大きい銀製の桜のペンダントが、特に途中で無理やり切られた痕跡もなく、繋がったまま転がっていた。手首が不自然な向きに転がっていて、先がなかった。切り口はパレットにぶちまけた赤と青を雑に混ぜたような色。
「あ……あ、みさ……っ」
必死に妹の名を呼ぶ。ぴくりとも動かない。わかってはいるが、頭の整理がつかない。
ふと今朝のやり取りを思い出す。
学校でも習い事でも優秀なみさを、オヤジはとても可愛がっていた。もちろんオフクロもだ。そんなみさが、とうとう目指していた学年主席の座を手に入れた。彼女の目指す夢に、また一歩近づいたのだ。両親が手を叩き、デザートやら豪華な夕食やら並べる横で、とりわけ優れているわけでもない俺はというと、内心棲まうモヤモヤした何かを見ないふりし、流石だな、と薄く笑っていた。
彼女の髪飾りが乾いた音を立てて床に落ちた。行く手にあったそれを狼が踏み、此方へ寄る。反射的に情けない声を出し、限りあるであろう後方へ後ずさる。
ずるずると手を後ろへずらす最中、バランスを崩し、肘を勢いよく床へ打ち付けた。左方向へい勢いよく投げ出された指先が不自然に柔らかい何かに当たったのを、俺は無視することができなかった。
狼を視界の隅に収めつつ、恐る恐る視線をずらす。
「う……ぁ」
眼かっと見開いた、変わり果てたオヤジ。眼球は抉られたのか、無い。固く変色したそのくぼみから、涙のようにからからの血が張り付いている。
常に理性的で頑固だが、言わずとも、俺にもみさにも深い理解を示していることはわかっていた。勤務先でも慕われ、同僚の人に羨ましがられた。当然オヤジのことは、みさと同じように、自分のことのように誇らしかった。小柄で柔らかい物腰のオフクロがオヤジを選んだのも、わかる気がした。でも。
オフクロと同じデザインの、銀のリングが、オヤジの光無い目の向ける先にあった。オヤジの頭部をはさんで闇のある方に、そのリングに向けて伸びたように見える、無骨で大きい手があった。
みさの欠けのある骸を見たあとで、それ以上、オヤジの亡骸を続けて見れるはずもなかった。すぐに目を逸らすと、嫌悪感が食道を逆流し、口の中に酸っぱくて温いどろどろのものが出てきた。我慢できず、オヤジのいない方向に嘔吐する。でろり、と熱い感情の何かが目の上あたりで強まる。
どうして。
喉の先まで湧き上がる不完全な不快感を、上手く吐き出せない。
「そこに、いたからだよ」
壊れた人形のような口ぶりで、狼とカラスが同時に口を開いた。その不調和具合に、耳の入り口付近で嫌な汗が伝った。
続いて狼が口を開く。その隙間から覗いた牙はさきほど見たときほど、雄々しくは見えなかった。
弱々しく、ところどころに欠けていたからだ。
「おれが、そうしたかったからだよ」
同じように、カラスも嘴を開く。
「ぼくはそばにいただけ、だけどね」
ぼくには責任はないと思うよ? と続け、自分で笑う黒い鳥。
「俺は、……俺も、食べられるのか」
「さぁ、どうだろうなぁ」
狼が、喉を嬉しそうに鳴らす。
「お前がそう望めば、そうするし、望まなければ、しない」
「つまり、ぼくがいなくなれば、食べるってことだよ」
くけけ、と、カラスが今まで一度もしなかった笑い方をした。
何処からこの思いは生まれたのだろう。溶けきらない、煮え切らないようなおどろおどろしい気持ちは。口の中に広がる鉄のような味がどことなく懐かしく思える。
カラスは嗤う。
「どうだった? 大好きな家族の味は」