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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
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14・家族の晩餐

 アルフォンスとファルシスが疲れ果てた気分で私邸へ戻った時には、既に辺りはとっぷりと陽が暮れていた。

 馬車ががらがらと大門から玄関の馬車寄せに付くと、ぱっと灯がともされ、通路を歩いてゆくと大扉の向こうに、日中に帰った時と同じように、カレリンダとユーリンダ、執事以下使用人が控えていて、「お帰りなさいませ」と頭を下げる。アルフォンスは、ほんの一瞬、全ての憂い事を忘れて愛する妻と娘のもとに帰って来た事に安堵する……ほんの一瞬。

「あなた、とてもお顔の色がお悪いわ。やはりお疲れがひどいのではなくて?」

「いや……きみとユーリィの顔を見たら、疲れも吹き飛ぶよ」

 心配げな妻にアルフォンスは、無理に笑顔を見せてその黄金色の頭を軽く抱き寄せて額にくちづける。激しい恋に落ち、克服は到底無理と思われたその恋の障害をすべて排除して得た妻、王国指折りの美女の名を、二十年以上も保持し続けている聖炎の神子カレリンダは、自分と同じ黄金色の切れ長な瞳でいとしい夫の顔を見上げ、その見慣れた頼もしい微笑にようやく安堵したように笑った。


『種子のことがカレリンダにばれてしまう事はないだろうか? 或いは猊下やユーリンダに?』

 魔力の強い者に触れれば、異質なものが芽吹いたことを探知されてしまうのではないか、それは相手を巻き込む事になるのではないか、とアルフォンスは恐れ、ラクリマに問うた。

『いえ……普通にしていらっしゃる限りは、今は大丈夫かと。勿論、先ほどわたくしが用いたような魔道で探れば判ってしまうと思いますが』

『魔道で探られなければばれないんだね?』

 とわざわざ念を押したのは、清らかな女神官であるラクリマには言い辛いが『普通にする』というのがどこまでの事を指すのか確認しておきたかったからだ。要するに夜の営みの事だ。王都から帰還した夜はかれは必ず妻の寝所で休むから……身体を結ぶ程に接しても、異変は伝わらないものなのか、と。

 アルフォンスの真意が伝わったようでもなかったが、ラクリマはただ冷静に、

『魔道を用いない限りは、いまは種子はその気配を完全に断っています』

 と欲しい答えをくれた。


 その答えは心に救いを与えてくれた。それは別に何の解決の糸口にもならないけれど、妻に言えなくても、妻から遠ざからなくても構わないのだという事はたしかに救いだった。

 何もかも忘れて、彼女の胸に顔を埋めて眠りたい……完全無欠と言われるルーン公とて、やはりひとりの人間の男である。ほんの少しの時間でいいから、休みたい。休息がなければ、どんな強者でも永遠に戦い続ける事は出来ない。

「アルフ……どうなさったの、あなた?」

 思わず妻を抱擁した腕に力が籠り、彼女を困惑させてしまった。

「いいや……なんでもないよ」

 皆が見ている前なのに、少しだけ感情を露わにしてしまった自分の弱さに苦笑しつつ、かれは妻を離した。


 その夜は、あるじの王都でのお勤めからの帰還を労い、道中の無事を喜んで、小さな宴のような晩餐が饗された。久々に家族四人が卓を囲み、カレリンダが指示した通りのアルフォンスが好む料理や酒がふんだんに用意されていて。

 婚約が調ったユーリンダは、やがてはここから離れていく。こんな夜はあと幾度人生にあるのだろう? とアルフォンスは軽く酔いながら考える。王都でのこと、今日のこと、嫌な話題は全て今だけ忘れ、楽しい話ばかりをした。ユーリンダは、父が上機嫌だと思い、恋人の前で着飾る為にいくつかおねだりをした。アルフォンスは全てを快諾した。

 そんな父を、ファルシスは隠しきれない不安げな目で見ている。様々な思いが相まって、酔う事も出来ないようだ。

「ファル……すべてはルルアの御意志のもとに。なに、わたしがどうなっても、ルーン家にはきみという素晴らしい後継ぎがいるのだから、心配はないよ」

 とアルフォンスは妻と娘が別の話をしている間にそっと囁きかけた。だがファルシスは緊張の面持ちで首を横に振って、

「僕には無理です……父上。いまはまだ、とても」

 と応える。ファルシスが、歴代ルーン公の内でも最高の器量を持つと散々言われる父親を持った重責に縛られている事はずっと察してきた。しかも今は、そう遠くない将来に父は魔道でどうかなってしまうかも知れない危機であるし、そうでなくても、国王と宰相から睨まれている。それ以外にも息子には悩みがある。

 ファルシスの年齢の頃に、アルフォンスは様々なものと闘って強くなり、模範的な公子でいた自分を捨てて、信じる道を歩む事にした。だがまだ息子は迷っている。それもよく解る。だが敢えてアルフォンスは、

「わたしを超えなさい。王家には第一の忠誠を、民には第一の奉仕を。それが公家の主の務め。きみにはそれが出来る」

 と圧力をかけた。何しろ、弱さを嘆いている暇はどうやらあまりないようなのだから。

「でも……」

「きみにはアトラがいる。わたしにはカルシスしかいなかった。そう思えば、幾分、きみが思っている差を埋められるのではないかね?」

 冗談めかして言ってみるが、真実だ。能力を隠していてもなお、鋭い刃を垣間見せるアトラウス、間もなくファルシスの義理の弟になる従兄。対してその父親、アルフォンスのたった一人の弟は、努力をないがしろにし、醜聞をまき散らしながらも舅である宰相の威を借りて威張り散らす叔父カルシス。それを思うと、ファルシスも思わず緊張がほぐれたらしく笑いが浮かぶ。

「そうですね……」

「義兄弟でいとこで親友同士、こんなに頼もしい事はないよ」

「そうですね……」

「アトラは悲観的なところがあるから、きみは楽観的に物事を考えて、お互いに補い合えばいいんだ」

「そうですね、父上。でも、まだまだ父上に頑張ってもらわないと困ります。十年経っても、父上は宰相閣下の今の御歳に全然及ばないのですから」

 ようやく白い歯を見せてファルシスは言う。

「そうだな……勿論わたしは己の限界が来るまで務めを果たすよ」

 微笑してアルフォンスはグラスの中のワインを飲み乾した。

「ああ、美味い……」

 心からそう呟く。こんな時間が永久に続けばいいのに、と。愛する妻と娘、頼もしく感じられるようになってきた愛息と過ごす柔らかな時間。だが、勿論それが叶わない事は解っている。叶えてはいけない事も。永久に休むのは、死の安らぎが訪れてからだ。いまのこの時間は、流れを止めない川に浮いて静かに下りゆく人生の中のほんの一瞬の温かな煌めきに過ぎない。けれど、だからこそ、生きることは意味のあることなのだ。止まらない時間のなかで、それを如何に良きものにするか、あとに続く子どもたちにとって濁りの少ない生きやすい環境をつくれるか、という事が、生きる人間すべてに与えられた務めであり自由である。変わらずに輝く光のなかにただ立ち止まっていては、やがて光はただそこにあるだけのものでしかなくなってしまうだろう。

「きっと、今は、アルマヴィラに巣くう悪しきものを払うよう、ルルアが与えられた試練の時なのです。それを越えれば何もかもうまくいく筈です。父上のような方が悪い目に遭うなど、そんな不条理が許される訳がありません。父上はルルアに選ばれたお方なのですから」

「皆、わたしを買いかぶり過ぎているよ。わたしは普通の人間だ。出来る事と出来ない事があるが、とにかく出来る事をやるしかない」

 息子の言葉に苦笑しつつも、ふとアルフォンスは、あの邪教の老人の放った言葉を思い出す。

『貴方はルルアから役目を負わされている』

 無意味な戯言ではないだろう。少なくとも、あの老人はそう感じたからこそ、こんな回りくどいやり方でかれを攻撃してきたのだ。だが、老人の信じるものにとって自分の存在が脅威となるならば、何故あの時自分を殺してしまわなかったのだろう?


「お父さま、ねえお父さま!」

 そんな父の思いも知らず、にこやかにユーリンダが声をかけてきた。

「なんだい、ユーリィ」

 内面の懊悩はちらとも出さずにアルフォンスは娘に笑顔で応じた。

「あの、お昼間にお話ししたリディアの結婚の事なんだけれど」

 そう言いかける女主人の言葉を、名前を出された侍女のリディアは何故かひどく慌てた様子で、

「姫さま、どうかお許しを。身に過ぎたこと、殿様のお耳にまで……!」

 と遮る。母娘と、給仕をしているリディアは先ほどまで何か話をしていた。カレリンダはあまり良い顔をしていない。リディアは恐縮する一方に見える。ただ、ユーリンダだけが、名案を思い付いたとばかりに得意げだ。姉妹のように気心の知れた侍女の嘆願を彼女はあっさりと無視し、

「まだ先の話なのだけれど、リディアが実家に帰って婚約のお披露目をする時に、私、あの銀水晶のペンダントを貸してあげたいの。とても似合うと思うのよ」

「……あれか」

 それは、ユーリンダが十六の誕生日を迎えた時に、両親から与えられたものだった。ヴェルサリアでは、女性が十六になるのは成人の証とされ、銀水晶の装飾品は、娘の末永い幸福を願って両親から贈られる、特別な意味合いのある重要な品なのだ。他人に簡単に貸すようなものではない。そして勿論、ルーン公爵の一人娘のものなのだから、アルフォンスが国一番の細工師に依頼して作らせた、非常に高価な品である。一介の平民には一生身に着ける事など叶わないようなものだ。

 また、価値は別としてももう一つ問題があった。ルーン家の紋章が入っているのである。カレリンダが渋い顔をしているのはそのせいだとアルフォンスにはすぐに判った。

「他のものならなんでも構わないけど、あれは紋章入りの特別なものだろう」

 他のものならなんでも、というのも普通の侍女に対しては考えられない言葉であるが、アルフォンスはリディアを信用しているので、ただ、あれだけはよろしくない、という事をやんわりと娘に伝えた。途端にユーリンダは膨れ顔になって、

「べつにいけなくはないでしょう? 皆のお仕着せにだって紋章は入っているじゃない。それにリディアは私にとって姉妹みたいなものよ。それをリディアの旦那さまにも解って頂きたいの」

 要するに、リディアに箔をつけてやりたいという善意から出た浅薄な思い付きらしい。

「姫さま、本当にお気持ちだけでリディアは充分に嬉しゅうございますから、もうこれ以上は」

 リディアが困り果てた口調で言う。そんな貴重なものを無理やり貸されても侍女の方では困惑するだけだという事はユーリンダはまるで解っていない。誰から見ても当然な事だが、アルフォンスもカレリンダ同様良い顔をしないので、リディアは消え入りそうだった。だがユーリンダは、ただリディアは遠慮しているだけで本当はリディアの為になる筈だと思い込んでいる。

 アルフォンスはリディアを気の毒に思ったが、うんと言わないのには、もうひとつ微妙な要素が絡んでいた。

「ユーリンダ、きみがリディアを姉妹、親友のように思っているのは解っているし、それはちっとも構わない。だけれど、公の場でそんな特別扱いをするのは、かえってリディアにとって重荷になるとは思わないかい?」

 とアルフォンスは優しい口調で娘を諭す。出来ればこれで娘が納得して、代わりの品で済ませて、この穏やかな夜を続けたい、という気持ちだった。だが、妙なところで頑固なユーリンダは、なかなか気を変えなかった。公爵たる父に口答えすること自体、大貴族の姫君としては自覚に欠ける言動だが、これはアルフォンスが長年愛娘を甘やかしてしまった結果で、ごく少ないかれの欠点――娘可愛さのあまりに滅多に咎めない――が招いたことだった。

「重荷だなんて。リディア、私から姉妹のように思われるのは重荷なの?」

「いいえ、それはとてもありがたく思っておりますけれど……」

「だったら問題ないでしょう?」

「いえ、ですからそれとこれとは……」

「何が違うっていうの? あれを身に着けたあなたと旦那様が並んだところ、出来れば私もその場に居合わせて見てみたいくらい……」


「いい加減にしないか!」

 怒声が、この実りのない会話を遮った。場にいる皆が、はっとする。それは、アルフォンスから放たれたものではなかった。ファルシスが、グラスを乱暴にテーブルに置き、びっくりしている妹を睨みつけている。

「自分勝手もいい加減にしろ、ユーリィ! 父上もよくないと仰っているし本人も困っているだろう! おまえがリディアを贔屓するのはおまえの勝手だけど、世の中には『身の程』というものがあるんだ。ひとには生まれついた身分があるんだ。いくらおまえが姉妹のように思ってたって、侍女はルーン家の娘にはなれないんだよ! 侍女は侍女、それがルルアが与えられたリディアの本分なんだよ。おまえもアトラと結婚するんだし、わきまえろよ、それくらい!」

 先ほどまでは、父とルーン家の行く末を心配して酒の味もろくに楽しめずにただ流し込んでいたものが、一気に酔いが悪い方へ爆発したようにも見えた。アルフォンスでさえ、息子が露わにした感情の激しさに、咄嗟に声をかけられなかった。

「も……申し訳ありません、若様……わ、わたくしが出過ぎたばかりに……」

 リディアが蒼白になり、わなわなと震えながら言った。涙を、必死に堪えている。

「……おまえは悪くないよ。悪いのは、僕だ」

 呟くと、ファルシスは席を立った。

「申し訳ありません、父上、母上。気分が優れなくて……少し飲み過ぎたようで……今宵は失礼します」

 そう言って、まだ茫然としている妹には目もくれずに、ファルシスはダイニングから出て行った。

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