表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
94/116

9・遠い記憶

 玄関ホールに出て、アルフォンスが馬車を回すよう執事に言いつけていると、気配を察したらしいユーリンダが、ややしとやかさに欠ける早足で階段を下りて来た。

「まあお父さま、どこかへお出かけになるの? アトラもいっしょなの? 一緒に戻って来るって仰ったのに」

「……ああ、ごめんよ。急用が出来たものでね」

 考え事に耽っていたアルフォンスは一瞬娘が何の事を言っているのかも判らなかったが、お茶の約束と思い出して苦笑する。

 ユーリンダの後からカレリンダも下りて来て、

「何かありましたの、あなた?」

 と案じ顔で問いかけてくる。

「いや……ちょっと神殿に行ってくるだけだよ。問い合わせたい件があって。夕餉までには戻るよ」

 先ほどの異変を妻に相談しようか、という考えが頭をよぎった。何しろ妻は聖炎の神子、大神官と並ぶ魔道の第一人者である。だが、あの忌まわしい感触……記憶を、妻に共有させて心配をかけたくない、という気持ちが勝った。相談相手として信頼出来る神官は他にもいる。聖炎の神子、大事な妻には、厄介ごとには極力関わらせたくない。彼女は平安のうちにいて、ルルアに祈り、皆に光を示すのが役割なのだから。かれは結局、国王の結婚式の晩の出来事について、エーリクの死の疑惑の事は妻に話したものの、『ヴィーンの闇』には触れなかった。知れば、彼女にも危険が及ぶかも知れない。魔道の事はかれには判断しかねる事ばかりだが、彼らの存在を知ってしまう事で妻にまで危険が迫ってはいけない。

「お戻りになったばかりですのに……そんなにお忙しくては、お身体を壊さないかと心配だわ」

「忙しいのは昔から変わらないよ。これでもまだ若者に体力で劣る気はしていないしね」

 明るく言って妻の頬に軽いキスをかすめさせる。その何でもない挨拶代りの仕草に、瞬間、カレリンダは身体にぴりと電流が一瞬走ったような感覚を覚えた。

「あ……」

 不吉、と激しく警鐘が鳴る。強い胸騒ぎに、思わず夫の腕をとって引き止めた。

「ん? どうしたんだい?」

 何も変わらない表情の夫を見つめていると、その不吉な感覚はすうと波がひくように消えてゆく。

 アルフォンスの方は、感覚の鋭いカレリンダが先ほどの自分に起こった異変を読み取ったのではと心中やや不安になったが、話さない、心配をかけまいと決めたからにはしらを切ろうと、不安を消して微笑んだ。

「いえ……気のせい……なんでもありませんわ」

 カレリンダは、不吉の気が消えたので、こちらも夫に無闇に心配をかけまいと、明るい表情を作る。

「では、夕餉までには帰っていらっしゃるのね。ファルも一緒ね。久しぶりにゆっくり過ごしましょう。王都のお話を聞かせてくださいまし。アトラも一緒にいかが?」

「ありがとうございます、伯母上。ですが今夜は騎士団の仕事がありますので、残念ですが、またの機会に」

「まあ、残念だわ」

 と先に不満げに呟いたのはユーリンダだった。後ろについていた侍女のリディアがその子どもっぽい口調にくすりと笑みをこぼす。

 アルフォンスとカレリンダは、互いに気遣ったばかりに、悲劇を引き起こす最初の兆候について、或いは何か打てたかも知れない手を逃してしまった。

「また明日寄るよ、お姫さま」

 アトラウスは不満顔の許嫁に優しく微笑みかける。そうして三人は神殿へ出かけて行った。


◆◆ ◆


「どうやら、ようやく種子が芽吹いたようだ」

 場面は変わり、薄暗く狭い一室に三人の男が集まっていた。皆、黒いローブを身につけており、老人ひとりが椅子に座り、結晶のような呪具をテーブルに置いてその中から何かを読み取っているようだった。

「尊師が直々に蒔かれたものでございますからな。我らが長年警戒しつつ待ったこの時期にまさに合わせて。これで我らが悲願は半ば成ったも同然」

 老人の右側に立った中年の男が、やや阿るような口調で言う。そして反対側にいる、こちらはまだ若者といってよい年頃の、尖った顎と澄んだ黒い目の男がその言葉を継ぐように続けた。

「犠牲になってもらった娘たちもこれでダルムに受け入れられましょう」

 老人は頷き、

「そうだな。随分回りくどい手ではあったが、待った甲斐はあった筈。この世は変わる……我らがダルム神、死の神により、永遠の安息がもたらされるのだ」

 三人の男は、その世界を瞼の裏に描き、笑みを浮かべる。

 人間を、生きる苦悩から引き離し、永遠に変わらぬ世界へ誘う……その世界は、人々が善行を積めば行けると信じているルルアの国よりもはるかに幸せな世界なのだ。そこへ皆を誘う為ならば、呪われた生を受けたアルフォンス・ルーンを贄とすることなど、なんの痛痒もない。


◆◆ ◆


 神殿に向かう馬車の中で、アルフォンスは、同行する息子や甥に心配をかけぬように、目を閉じてうたた寝を装いながら、先ほどの体験をなぞって考えていた。行く先で少しでも、相談相手の神官にうまく伝えられるように。

 突如蘇った記憶と痛み。あれは……まだ十代前半だったろう。正体の判らぬ刺客が襲い来ては、エクリティスと共に倒していたころ。徐々にかれは、あの夜の事を思い出し始めていた。


 あの晩は、いつもとは違った。そうだ、侵入者は完全に気配を断ち、かれの私室に静かに立っていた。机に向かって書物を読んでいたアルフォンスは、僅かな空気の擦れに、慌てて振り返った。

「ほう、よく気がつきましたな」

 そこにいたのは老人だった。黒いローブの下には剣を佩いている様子もない。魔導士……そうとしか思えなかった。邸の中でも奥まったこの私室まで曲者が入り込んだ事はそれまでなかった事だった。しかし、神殿の許しもなく魔道を用いて他人に害をなすのは禁忌中の禁忌。勿論、領主家の館の懐に忍び込む事だけも重罪である。だが、老人はまるで気軽に世間話をしようとでもいうかの表情で静かにかれに歩み寄って来た。アルフォンスは机の脇に立てかけていた剣に手をかけたが、迂闊に声を上げる事はしなかった。

「私は刺客ではありませぬよ……今の貴方の命を狙う者という意味でならば」

「……では、なんなのだ?」

「歴代のルーン家の直系の中でも群を抜いた資質を持つと言われるルルアの公子よ。その資質は、使い方を誤れば世に混沌をもたらす。だが、呪われしルルアの封印を解く為にそのお命を使うのならば、貴方は我々にとっても貴重な存在となりましょう」

「意味がわからない。だが、呪われし……ルルアだと? そなたは異端者か」

 老人は低く笑った。どこにでもいるような老爺の顔をしているのに、その笑いはアルフォンスには笑いとも思えない歪なものに感じられた。

「まあお聞きなさい。貴方はいったい、何故にそう資質に恵まれているのか、ご自分でお考えになった事がおありかな?」

「……人はそう言うが、べつにそんなに己が特別だと思うほどに慢心はしていない。努力は怠っていないつもりではあるが」

 アルフォンス少年は慎重に答える。老人の目的がまったく測れない。異端者がこんな所まで忍び込んで、どんな考えを吹き込もうというのだろう。自分をも異端に堕とすつもりでもあるのだろうか。

「己の力量を正確に知る事も必要な事ですぞ。貴方には特別な資質がある……何故か」

「もしそんなものがぼくの内にあるとすれば、それはルルアがお与えになったからに決まっている」

「そう……では何故、ルルアは貴方にだけそれを与え、弟御には与えなかったのでしょうな?」

「……なにが言いたいんだ。いい加減にしないと……」

 次の瞬間。全く存在していなかったかに感じられたアルフォンスの殺気が炸裂した。あっと息つく間も与えず、アルフォンスは三歩の間合いに入り、一瞬で握り変えた愛剣を老人に向けて薙いだ。老人は両断される筈であった。だが、魔道を用いる相手がこれで倒れる訳がないとアルフォンスは悟った上での行動でもあった。はたして、サイドテーブルの上にあった茶器が大きな音を立てて床に落ちて割れたのみで、老人の姿は剣の動きに合わせてつうと下がり、剣はかすりもしなかった。その動きは剣を極めた者のそれではなく、物理的な法則から外れたものだった。

「まやかしは止めろ。出ていけ!」

 隣の控えにいる筈の小姓は何をしているのだろう、まさか殺されてしまったのか、と、この騒ぎにも何の反応もない室外を気遣いながらも、アルフォンスは大声で叫んだ。

「まだまだお若い。老人の話はきちんとお聞きになった方がよろしいですぞ」

「異端者の戯言を聞く耳などない!」

「やれやれ。ではひとつだけお教えしておきましょう。もう程なく、この世界は大きな変換点を迎える。貴方はその時、ルルアから役目を負わされているのです」

「なに……」

「だが、その役目を果たされてしまえば、世界はルルアの支配から逃れること叶わない。ですから、我々はそれを阻止せねばなりません」

 その言葉と同時に、アルフォンス少年の身体は、目に見えない力により壁まで跳ね飛ばされた。全身を襲う衝撃にアルフォンスは倒れ伏したまま起き上がれない。

「くっ……」

 どんなに剣を極めようと、魔道には敵わないのか。それともまだ己が未熟なだけなのか。しかしいずれにせよ、自分はここで終わってしまうのだろうか? 異端の老人は、ルルアから与えられた役目を阻止すると言った……。

「安心なさい、今は殺しませんよ」

 まるで孫を諭すかのような優しげな声で老人は告げる。

「ただ、種子を蒔かせて貰うだけです。必要な時まで、それは貴方の体内で眠ったまま」

 老人が胸に手を当てる。

「あアッ……」

 激痛と共に、邪悪な何かが入り込んでくる。その苦しさに、アルフォンスは気を失いそうになる。

「……種子は、遠いさきに芽吹くでしょう。今は、そう……忘れるのです」

 老人のその言葉が遠いところから聞こえた気がしたのを最後にアルフォンスは意識を手放し、そうして、二十年以上も、その記憶は封印されたままとなったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ