8・種子
アルフォンスは、俯きがちに唇を噛みしめるような表情の甥をじっと見つめた。その自責を湛えた漆黒のひとみからは、保身を考えているような様子は全く窺えない。
『アトラを気に入らなかった輩は、こんな事を言っているんです……『アトラウス様は年端もいかない侍女に手をつけていたが、ユーリンダ様との結婚に邪魔なので始末したのではないか』と』
先程のファルシスの言っていたアトラウスを中傷する噂を思い出し、本当にばかな事だと思う。アトラウスの身分と年齢を考えれば、結婚とは全く別の遊び相手として『懇意な女友達』と称する中小貴族の令嬢のひとりやふたりがいたところでなんの不思議もない。現に息子ファルシスは、アルフォンスがまだ子どもと思っていた十五の頃くらいから、数ヶ月単位で相手を変えながら恋多き貴公子として浮き名を流している。アルフォンス自身はシルヴィアとの婚約が整うまでの間にはこの点で完全に無垢だったとは言えないが、息子のように軽々しくもなかった。聖炎の神子である妻は勿論結婚まで純潔を守っていたし、いったい誰に似たのだろうと息子の行状に関する噂を聞く度に思ったりもするが、甥のアトラウスに関しては、何人もの側女を侍らせている父親とはこれまた真逆で、一切そうした噂は聞かなかった。娘の結婚相手となるかも知れないと思い始めてからは、アルフォンスは彼のそうした面での行いについては意識に入れていたが、甥の視線は常にユーリンダだけに向いて、彼に言い寄る美しい令嬢達がまったく視界に入っていない様子は明らかだった。
ファルシスは遊び相手の選び方に長けていて、本気で彼の妃の座を狙ったり、関係が終わる事を長々と恨みに思うような娘とは付き合わない。王族や大貴族の娘以外では、未婚のむすめの貞操に関しては比較的寛容な時代であった。恐らく、宮廷の風紀を乱していた前王の影響が国中に波及していたのだろう。中小貴族以下の娘が処女ではないからという理由で破談になるような事は殆どない。勿論余りにも行状が悪ければ敬遠されるが、清く過ごすか自由に遊ぶかは娘自身の気質とその父親の考え次第だった。ファルシスがどういう言葉で近付いたり終わらせたりしているのかまでは知る由もないが、とにかくこうした事で厄介な事態に陥った話は聞いた事がない。アトラウスはファルシスの親友とも言える立場であるのだから、彼がそうしたいと思えば、従弟に倣う事も出来る筈だ。過去に軽い遊び相手の一人や二人がいたからと言って娘との結婚を許さない程アルフォンスも親ばかではない。出来れば自分のように、結婚後に側女は置かないで欲しいと思う位で、それも、そこは二人の間で折り合いがつくならば一々口出しするような事ではないとも思っている。まあ、おとぎ話のような純愛しか頭にない娘が、他の女性の存在など容認出来る筈もないが、もっとおとなになれば変わってくるかも知れない。
それはともかく、余程変わった性癖の持ち主でもない限り、アトラウスがわざわざ乳兄弟のような存在の、まだ幼い侍女に手をつける理由は全くない。だが、つまらない中傷が広まるのは不名誉なだけでなく、他の事件にまで関与していると疑われる可能性も出てくるので、早くその芽は摘まなければならない。
「とにかく、娘たちの行方も犯人の動機も何一つわからんではどうしようもない。いなくなった者たちに共通点はないのか?」
アルフォンスの問いにアトラウスは、
「それをずっとダリウス警護隊長と突き詰めて調べていますが、今のところ特に共通点は浮かび上がっていないんです。強いて言えば、美しいと言われていたというくらいで」
「きみの侍女も?」
アトラウスは苦笑して、
「メリッサが美しいかどうかという目で見たことがなかったんですが、聞かれてみれば、まあ、美しい、というか、愛らしい顔立ちではあったと思います。あの子が最年少で、他の娘は主に十代後半ですね」
「ふむ……」
アルフォンスは、アトラウスが『愛らしい顔立ちではあった』と過去形で表現した事に軽い引っ掛かりを感じた。アトラウスは、メリッサの命をもう諦めているのだろうか。確かに、もう行方不明になって十日程も経つというし、十六人もの娘をどこかに監禁したまま隠すのも難しい……だから……とは想像出来る。女を殺す事を快楽と感じる人間は、歴史の中にたびたび姿を現している。なんの繋がりもない若く美しい娘たちが姿を消したとなれば、そうした可能性から目をそらす訳にはいかないのも判っている。だが、まだ希望が断たれた訳でもない。或いはアトラウスは諦めるよう自分に言い聞かせることで、最悪の結果になった場合の悲しみに備えているのかも知れない。そう考えた上でアルフォンスは半ば励ます気持ちで、
「とにかく、何もわからない以上は、彼女たちが生きていると考え、その救出を願って捜索しよう」
と言った。すると、アトラウスは珍しいことに伯父の言葉を否定した。
「お言葉ですが、最悪の事態を頭に入れて行動する方が、より視野が広がると僕は思います。最悪なことは、常に起こり得るのですから」
アトラウスの黒いひとみは、悲しみと怒りを湛えているように見えた。その目を見たアルフォンスは、思わず甥の幼かった時のことを思い出した。
『伯父さまのせいだ! 伯父さまが僕を連れて行ったから』
それはアルフォンスが弟嫁のシルヴィアのたっての願いで、アトラウスだけを先に保護した夜に、シルヴィアが……アトラウスの、世界で何よりも大切な母親が、自害してしまった時のこと。
勿論、シルヴィアとメリッサでは、彼にとっての重みは全く異なるだろう。しかしメリッサもまた、アトラウスにとっては家族同然の者。そして、アトラウスの胸の中で、『最悪なこと』は未だ生々しく彼を支配しているのだとアルフォンスは思い知らされた。絶望を胸に飼っている人間は、希望を持つ事を恐れるのだと。
しかし、希望を恐れる者からは希望は遠のくばかりであろう。
「それはそうかも知れない。だがね、アトラ……」
そう言って甥の肩に手を置いた、その瞬間……アルフォンスは、胸の奥に表現しようのない感覚を味わった。
「……っ」
みるみる蒼ざめて胸を押さえ、よろめくように椅子に身を預けたかれに、ファルシスとアトラウスは驚愕の表情を浮かべて駆け寄った。
「父上!」
「どうなさいました、伯父上!」
「…………」
言葉が出ない。ひどい不快感……なにかを、胸のなかで無理やりこじ開けられるような……。
『……種子は、遠いさきに芽吹くでしょう。今は、そう……忘れるのです』
記憶の隅を駆け抜けるような男の声。黒い影。あれはだれだ? 男は立っている。自分は倒れている。恐らく、少年の頃……しかし、いつの記憶なのか全く思い出せないし、たったいままで忘れていた。
「誰か、医師を呼んでくれ!」
そう叫びかけた息子を、アルフォンスは、かろうじて制した。
「……いい、大丈夫だ」
「しかし、父上、尋常なご様子では……!」
「いや、少し治まってきた。驚かせて済まない」
徐々に奇妙な感触は薄れ、不快なものは沈んでいった。だが、謎の記憶は断片のまま、棘のように胸に刺さっている。
「本当に大丈夫ですか、伯父上。申し訳ありません。旅でお疲れな事は承知しておりましたのに、こんな面倒事を……明日にしてもよかったのに」
心配げに見つめるアトラウスは、自分が伯父に言い返したことを悔いてもいるような表情だった。
「いや、大丈夫だよ、アトラ。疲れくらい、さっき休んだし大した事はないよ。気にしないでくれ」
そう言ってアルフォンスは立ち上がった。
「こんなご様子は初めて見ました。疲れからでないのなら尚更、医師の診察を受けられた方がいいのでは?」
「いや、ファル……二人とも、今のことはなかったことにしていて欲しい。ああ、と言っても、放置するつもりじゃないんだ。わたしが相談しようと思ったのは医師ではないというだけだ」
「と言うと?」
「神官だよ。どうも、この事件には魔道が絡んでいる気がしてきた。魔力なんかまるで持たないわたしが言うのもおかしな話だがね」
不可解な事件の話をしている最中に蘇った謎の記憶。それが事件の根の部分に繋がりがあるのかも知れない。ただの思い付きではあるが、偶然と片付けるには、先ほどの感覚は生々しすぎた。
「神官……そう言えば、僕がメリッサを使いに出した先は神殿でした」
はっとしたようにアトラウスが言う。
「彼女は神殿に行った後で行方不明になったのか? それとも前に?」
「神殿の話では、あの子は約束の時間に来なかった、という事でした」
「神殿には何の用で?」
「義母上が常用されている安定剤を処方してもらう為です」
アトラウスの義母、カルシスの後妻、宰相の娘……アサーナは、もう十年以上も精神を病んで自室に娘と引き篭もった生活を送っている。
「そうか。とにかく、神殿へ行ってみよう」
もうすっかり普通の調子に戻ったアルフォンスは気ぜわしく扉へ向かい出し、アトラウスがそれに続く。
ユーリンダがアトラウスを待っているのに、とファルシスは思ったが、珍しく父が妹に「話が終わったらアトラも一緒に戻ってくる」と言ったことを忘れているようなので、まあどうでもいいか、と思い黙って二人の後に続いた。どうせユーリンダとアトラウスは、婚約してからしょっちゅう一緒に過ごしているのだし――ファルシスがアトラウスから聞いて驚いたことには、二人はまだ手をつなぐ以上の仲ではないというのだが――今日会えなくたって明日には会える。二人は相思相愛で婚約した、周囲の事情を考えれば、とてもとても幸運に恵まれた男女なのだから……そう、ファルシスは思った。




