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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
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6・中傷

 開け放った窓から流れ込む心地よい風と陽光にそぐわぬ苦々しい空気がアルフォンスの執務室に漂っている。ファルシスは陽光を吸い込んだように輝く黄金色の長い前髪をかき上げて調書を手にしたまま無意識に溜息をついていた。

「具体的にはどんな話なのか?」

 とアルフォンスは問う。愛娘との結婚を許した甥への中傷……それは、これまでにもまったくなかった訳ではなかったが、もちろんルーン公の義理の息子となる事が正式に発表されたアトラウスの事を表立って悪く言える者はいなかった。

 常に謙虚で物腰柔らかく、その優秀な性質をひけらかす事なく前に出過ぎないように振る舞って、誰に対しても人当たりのよいアトラウスを、人として嫌ったり欠点を挙げるような事は誰にとっても難しかった。だが、アトラウスには、自分自身ではどうしようもない欠点――アルフォンスは全く欠点とは思っていないのだが、そう思う人の考えを変える事は出来ず、また、アトラウス自身もそれを己の欠点と認めている態度を見せる事がままある――ルーン一族に相応しくない黒髪と黒い瞳の問題があった。もしアトラウスが、当たり前に黄金色の髪と瞳を持っていたならば、ファルシスと並んで兄弟のように気易く接していても全く違和感もなかったであろうし、ユーリンダの許婚として隣に立てば、王国一の美男美女夫妻と今も言われる両親の婚約時代を、見る人に彷彿とさせたであろう。だが、アトラウスの黒は、アルフォンス一家に馴染まなかった。ルーン家の血を持っていないこの地方の殆どの人にとって黒は、単に自分たちと同じ色であるというだけで異邦人という訳でもないのだが、恐らくそれ故にこそ、アトラウスがルーン一族の一人として取り立てられているのを気に入らぬ者達は確かに存在したのである。

 当時は王国中で知らぬ者もない程の美談として噂された、アトラウスの血筋を証明する為に母シルヴィアの己の命を犠牲にした行為も、若い世代の中には、胡散臭いつくり話のように思っている者もいた。即ち、やはりアトラウスは不貞の子であり、ルーン家の血は元々半分しか入っていない。どこの誰とも知れぬ男……或いは館の下働きの男などの子どもに過ぎないのではないか、と。アトラウスの父カルシスの評判の悪さが、この説を後押ししていた。今ではでっぷりと太り、正妻が引きこもっているのをいい事に幾人も側女を侍らせて領主の仕事もアトラウスと執事に任せっぱなしで放蕩に耽っているカルシス、しかも宰相の義理の息子という肩書きを常に振り回して、時には公の場で当主である兄を見下すような発言をしては、かえって失笑をかう事も珍しくない、愚かな男……。そんな男を、美談通りにひたすら愛して尽くすような無私な女性がいたとは、多くの者にとって想像し難い事だった。現在カルシスに侍っている者は皆、カルシスの地位と財産目当ての女ばかりと誰もが判っていたから、ルーン筆頭分家の出であるシルヴィアが、あの完璧なルーン公との婚約があったのに破棄されてあんな男に嫁がされれば、自暴自棄になって、どこぞの男を閨に引き入れて気晴らししたくなるのはむしろ当たり前の事だと。そしてそれがルーン公の知る所となった時に彼女は罪の意識から自害し、残された元許嫁の不貞の子を哀れに思ったルーン公殿下が美談に仕立てたのだろうと。現在のアルフォンスとカルシスを知り、シルヴィアを知らない者には、この説は一見もっともらしく響いた。アトラウスの控えめな態度も、本当は自分の出自が偽りのものと知っているからだろうと、とどめのような一言が加われば、惑わされるのも仕方のない事であるかも知れなかった。


 しかし勿論これは、清流の底深くに沈んだ僅かな汚泥のような悪意に過ぎず、表だってはアトラウスはアルフォンスの甥御と誰もが認め、長年の恋を実らせたユーリンダとの婚約をこぞって皆が祝福した。ただ、アルフォンスがなかなかユーリンダの婚約相手を決めなかったが為に、ユーリンダに本気で恋をしてその夫の座を手に入れるという望みを持っていた貴族の青年達にとっては、心から祝福など出来る筈もないことだった。彼らはアルフォンスが王太子妃候補の話を断った事で、(ルーン公殿下はユーリンダ姫を聖炎の神子とし、地元から婿を迎えるお心だ)と確信し、傍目からは相思相愛に見えても一向に進展しないユーリンダとアトラウスの間柄については、(やはりアトラウス様の父親がはっきりしない為に姫の夫とする事は出来ないとお考えなのだろう)と例の噂に流され、アルフォンスとユーリンダの気を引こうと野望を持って努めていた。

 故に国王祝賀の行事の後で王都から帰還してすぐに、ユーリンダとアトラウスの婚約が発表された時、彼らは落胆と、裏切られたというに近い心持ちになった。彼らは単に彼ら自身の妄想に裏切られたに過ぎないのだが、その矛先はやはりアトラウスに向いた。そして、そんな一派がやがて拠り所にし始めたのは、アルフォンスさえ予想もしなかった人物だった。

 ティラール・バロック。ユーリンダに初めて出会い踊った翌日に求愛した男。その父宰相アロール・バロックからも婚約の申し入れがあり……ルーン家に婿に出すとさえ譲歩した申し入れだったにも関わらず、アルフォンスは最終的に、宰相からちらつかされた、ルーン家としての大きな益よりも、ユーリンダの幸福を選んでその縁談を断ってしまった。覚悟の上ではあったが、王国内の権力を欲しいままにする宰相家との間に大きな軋轢を生む結果になった、その張本人。その美男子は全ての女性を虜にすると公言する自信家であるのに、自尊心が高いのか低いのか、生まれて初めての真剣な求愛をあっさりと撥ね除けたユーリンダへの執心が益々高まったらしく、婚約から結婚までの間にユーリンダを靡かせようという魂胆をはっきりと口にしつつ、表向きはしおらしく「放蕩の生活から足を洗い、敬虔なルルア信徒となる為に聖都で学びたい」という、断れない理由をつけて、もう半年以上もアルマヴィラに滞在し、ルーン家の客人として居座っていた。最初の理由は何処へ行ったのか、神殿に詣でる事もろくにせず、殆どどこの夜会にも出席しては貴族の令嬢達の前で脚光を浴びたが、本人はあくまでユーリンダ一筋、という態度を貫いており、機会があれば必ずユーリンダに馴れ馴れしく機嫌を窺っては、より嫌われている。

 そんな、アトラウスを宿敵とも見なしている宰相の息子は、アトラウスに敵意を抱く青年貴族達にとって旗印のようなものだった。アトラウスにだけは渡したくない、それよりも偉大なる宰相閣下のご子息の方が、ユーリンダ姫を幸せに出来る……そんな思いの元に、どうも秘かに、言ってしまえば下らない理由で派閥が出来つつある事は、アルフォンスも以前から気付いていた。但し、彼らに何も出来よう筈もない……アルフォンス、ユーリンダ、アトラウスの意志が揺るぎないものである以上、結局彼らは何も出来はしない。


 だが、妹のように可愛がっていた侍女が姿を消した事でアトラウスが中傷されている、という話は穏やかではなかった。ファルシスは言った。

「ダリウス警護隊長が母親のオルガに話を聞きに行った際、オルガは『娘はアトラウス様を慕っていた』と口走ったらしいのです。たった一人の肉親である娘を案ずるオルガが言った事は事実でしょうし、アトラに対して悪く思って言った事でもないと思います。メリッサはアトラを心の奥で異性として慕っていたのでしょう……僕も何となく察していた事です。ですが、その言葉が元で、アトラを気に入らなかった輩は、こんな事を言っているんです……『アトラウス様は年端もいかない侍女に手をつけていたが、ユーリンダ様との結婚に邪魔なので始末したのではないか』と」

「ばかな」

 とアルフォンスは短く感想を口にする。エクリティスは頷き、

「まったくばかな噂です。ですが、こうした話を無責任な聴衆は面白がるものです。アトラウス様には味方も多いが敵も多い。それに問題は、この話を言い出したのはティラール・バロック様の取り巻きであるという事です。簡単にその口を封じる事が出来ないのです」

「ティラール殿もその噂を真と思っているという事か? しかし、他にも行方不明の娘がいるというのに、それもアトラが関わっているとでも?」

「ティラール様は何も仰っていませんが、否定的な意見を仰る事もありませんので、周囲が勝手に言いたい事を言っている……といったところでしょうか」

 エクリティスはその黒い瞳を懸念に曇らせてあるじを見る。確かにティラールにしてみれば、そんな噂を流す取り巻きを止める理由などないし、それがユーリンダの耳に入って二人の仲に亀裂が生じれば、彼にとってはもっけの幸いである。彼自身が事件に対してどう思っているか、という事は別問題だった。

「そうか……それでアトラは? それにユーリィは?」

「アトラは、下らない中傷にいちいち構っていられない、とだけ。でも、内心は珍しく腹を立てているようにも思えましたね。無理もない……もしかしたら、アトラに嫉妬する誰かが、他にも不明者が出ている流れに乗じて、あいつの大事に思っている侍女を拐かしたのかも知れないんですから。ユーリィはこういった事情は何も知りません。つまらない噂は聞かせないよう、母上が気を回して下さっていますから。ただ、アトラに長年仕えている侍女が行方不明だと聞いて、可哀相、早く無事で見つかればいいのに、と言っているだけです」

 ファルシスの言葉にアルフォンスは如何にも愛娘にはありそうな反応だなと思う。まあ、どちらにせよ、許婚を盲信している彼女が彼を疑う筈もないが。

「とにかく、その侍女ひとりのことでもなくアルマヴィラの治安に関わる事であれば、領主家としては全力を挙げて娘達を無事に見つけ出して親元に帰してやらなければ。後でまた警護隊長も交えて対策を考えよう。娘達が無事であればつまらん噂を流しようもなくなる」

 無事であれば……だがその保証は全くない。今はただルルアに無事を祈るしかなかった。アルフォンスは痛んできたこめかみを押さえながら冷めた紅茶を飲んだ。まだ旅装も解いていなかった。最近良い話はさっぱりないな、と思う。まあ、年明けに来るユーリンダの結婚式が盛大に寿がれれば、また風向きも変わってくるだろう……。


「ご苦労だったな、ファル、エク」

「いえ、あまりお役に立てておらず……実は父上が予定を早めてご帰還と聞いてほっとしていたんです」

 ファルシスは苦笑いをする。他意は勿論ないのだが、予定が早まった理由を思い出してアルフォンスは思わず溜息をついた。エクリティスはそれを見逃さずに、

「予定を早められた事は、何が原因でしたか?」

 と表情は変えずに、しかし良くないものを感じた様子で尋ねた。

「ああ……実は、陛下のご不興をかってしまってね」

 なるべく口調を乱さずに告げようとしたが、次の瞬間には顔色を変えた二人から細かく問い詰められる羽目になってしまった。


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