5・帰郷
カーン、カーン、カーン……。
雲ひとつ無い晴れやかな空の下、領主の帰郷を告げる鐘が聖都アルマヴィラに鳴り響いた。
アルフォンスは馬車の窓を開け、段々と近づいて来る故郷をその黄金色の髪を風になびかせながら眺めた。当たり前の事ではあるが、出立した時と何も変わりない。聖都をぐるりと取り囲む外壁は高さ約20m、アルマヴィラがまだアルマヴィラ公国であった頃から二百五十年もの歴史を持つものであるが、その白壁は年月の重みを感じさせつつも劣化したようではまるでなかった。壁上には常に神秘的な炎がどんな風雨をも全くものともせずに燃え続けている。かれの妃、聖炎の神子、カレリンダの祈りが灯す聖炎――代々受け継がれた神子の力により燃える、光の神ルルアの守護が籠もった炎――は、いつもかれに力と安らぎをくれる。ここでは、悪意や災いは排除されるのだ……広大な範囲にわたる壁上の聖炎の力は万能ではなく、実際にはこの古き都の美しさの裏にも秘やかに悪しき念が息づいているのは、『ヴィーンの闇』の実在によって証明されはしたが。アルマヴィラにも病もあれば貧富の差もある。だが、それでも聖都は、王国の他の地域に比べればずっと治安も気候もよく、アルフォンスの代に築いた救護院の制度によって多くの失業者や病人が救われた事もあり、表向きは、まさに光の神の恩寵を受けた聖都であり、ただの巡礼者などから見れば何一つ憂いを抱えていないように映った。それでもアルフォンスはまだまだ、己の治める都には数多の問題点があり、いずれ息子ファルシスに領主の座を譲る時が来るまでには改善しておきたいと思う所はいくらでもあった。しかし今は、ただ己の帰るべき所に帰って来た事に些かほっとする気持ちが強い。これまで、王宮に出仕して務めを果たし国王に拝謁する事はかれにとって喜びであり誇りであったが、今回の出来事はかれにとって衝撃と不安要素ばかりが勝ち、精神的な疲弊が大きかった。疲れたなどと言っている場合ではないのは判っているが、揺るぎない平和の象徴であるかのような、己の治める聖都に帰って来て、一息つける喜びを感じてしまうのは当たり前の事だと言えよう。
「ご領主さまのご帰還だ!」
「お帰りなさいませ、ご領主様!」
外壁の正門を馬車の列と騎上の騎士達がくぐると、町民たちが大通りに出て来て温かい声で出迎えてくれる。皆、アルマヴィラでの生活に満足し、それを護ってくれる領主に感謝の念を抱いている者ばかりだ。特に、王国初となった救護院制度を設けて以来、アルフォンスへの民衆の支持は非常に高いものになっている。皆が、尊敬と憧れの目で馬車隊を見上げている。アルフォンスは馬車の窓から民に向かって手を振った。
「お帰りなさいませ、アルフォンスさま」
騎馬で駆け寄って来たのは、かれの忠実な右腕である聖炎騎士団長エクリティス。
「ただいま。特に変わりはないか?」
「は……。ご家族の皆様には、変わりなくご健勝であられます」
エクリティスの引き締まった顔に微かな動揺が走ったのをアルフォンスは見逃さない。
「なにか気になる事があるんだな。まあ後でゆっくり聞こう」
こんな民衆に囲まれた場所で、ややこしい話が出来よう筈もない。きっぱりと『何も変わりございません、ご安心を』という言葉だけを期待していたアルフォンスは、民に見せる笑顔は消さぬままに心の中で溜息をついた。
私邸に帰る前に公邸に立ち寄り、取り急ぎ耳に入れておきたい幾つかの案件についての報告を受けるのが習慣だった。父が不在の間名代を務めていたファルシスと、アルフォンスにそのまま付き従ってきたエクリティスの三人が書斎に入る。
ファルシスの報告の中には格別気になるものはなかったので、アルフォンスは判ったと言って嫡男を労いつつ、エクリティスに視線を向けた。そのエクリティスはファルシスに目配せを送る。ファルシスは少し困ったような表情を見せたが、すぐに、
「これは政とは離れた事ですので先程は外しましたが……実はちょっとした事件がありまして」
と切り出した。
「事件……?」
「はい。父上が御出立されてすぐの頃から始まったのですが……ここのところ、若い娘が相次いで何人か、行方不明になっているんです」
「行方不明? 貴族の娘なのか?」
「いいえ、今のところ庶民の、若くて、美しかったという評判の娘だけですが」
アルフォンスは不審に思った。事件そのものをではない。庶民の娘が何人かいなくなった。それは娘の家族にとっては大事件ではあろうが、そうした市井の事件は、領主家でも騎士団でもなく、都警護隊の管轄の筈。ただの家出の可能性もあろうが、しかしファルシスやエクリティスが気にかける様子を見せるからには、そうではない何かがあるのだろう。
「それで、警護隊だけでは解決し得ないと? よもや人攫いの集団の類いが聖都に紛れ込んで厄介な事になっているという事か?」
アルフォンスの統治下ではそうした事件が起こった事はこれまでなかったが、貧しい地方では無法者の集団が村を襲って若い娘を攫う事もあったと聞いた事がある。しかし、ここ数十年は王国の統治が安定し、大貴族家もどこも体制が整っているので、少なくとも王家直轄地や七公統治下の地域では、そうした話は昔話でしかない筈だ。それが、よりにもよってルルアの庇護下にある聖都で起こったとしたら、確かに大問題ではある。だがファルシスは微かに首を横に振って、
「それはまだ判りません。明らかになっているのは、家を出ていく理由もない娘が立て続けに、恐らく何者かに拉致されたという事だけです。一人の犯行なのか、どういう目的なのか、全く判明していません。……不可解なのは、どの件にも、全く目撃者がいないという事です。警護隊は街の警備を強めておりますが、一般民には特に公表はしていません……混乱を招く恐れがあると考えましたので」
「ふむ……街で一人歩きをしていて連れ去られたという訳か」
「恐らくは……」
そう言ってファルシスはまたエクリティスと目配せをする。まだ何かあるんだなとアルフォンスは感じて、次の言葉を待った。するとエクリティスがファルシスの言葉を引き取った。
「街の治安という面でも勿論問題ですが、ひとつひとつの事件を見れば、別段ひどく珍しいという事ではありません。我々が危惧している一つの問題点は、その娘たちの中に、ルーン伯殿家の侍女が含まれている、という事なのです」
「なに、カルシスの?」
「カルシス様の、というより、アトラウス様付きの侍女なのです。しかも、幼い頃からお仕えしている、乳兄弟のような存在と聞いております」
「もしや、あの娘か……名をなんといったか……オルガの娘の……」
「そう、メリッサです」
とファルシスが答えた。兄弟同然の親しい従兄弟同士、ファルシスは頻繁にアトラウスの所を訪ねるので、使用人の事もよく覚えている。
かつて幼いアトラウスが父親から虐待を受け、離れの地下に軟禁されて暮らしていた頃、彼の世話係を一手に引き受けていたのが、オルガという侍女だった。オルガはカルシスから命じられてアトラウスの世話をしていただけに過ぎないが、アトラウスにとっては最も身近な存在だったし、事務的な態度に終始してはいても、オルガも内心アトラウスに情を移していたので、彼女はアトラウスが解放された後もずっと彼の世話役を務めていた。多くの他人と接する事を知らずに育ち、そして母を喪ったアトラウスもまた、彼女を頼っているように見えた。そんなオルガが同じ屋敷の使用人と結婚し、生まれた娘がメリッサである。六~七歳の頃のアトラウスが、赤子のメリッサをあやしていた姿をアルフォンスはぼんやりと思い出す。あの赤子ももう十いくつになって、母親と共にアトラウスの身の回りの世話をするようになっていたのだろう。オルガには帰る実家もなく、夫も早くに亡くしたと聞いた気がする。
「そうか、アトラは心配しているだろうな」
そう言いつつも、アルフォンスは別の事を考える。ルーン公家の人間をよく知る侍女が何者かに連れ去られた。これはただの偶然なのだろうか? それとも何かの陰謀の末端なのだろうか? 一介の侍女が知っている情報など、大したものはなさそうだし、そもそも、ルーン公家本邸でなくルーン伯家の館、アトラウスの侍女が狙われる理由もよく解らない。アトラウスは、国王即位の後間もなく、アルフォンスの許しを得てユーリンダと婚約した。その件では宰相家と一悶着あったが、それも今は表面上落ち着いていて、ユーリンダに求婚しながらも袖にされた形になってしまった、宰相の息子ティラール・バロックは、アルマヴィラの客人として何故だか半年以上も聖都に居着いている始末だ。
「そうです。アトラはダリウス都警護隊長に頼んで捜索に関わっています。自分が雨の日に使いに出したせいだと自分を責めて……。ですが、この件で僕と騎士団長閣下が懸念しているのは、メリッサや他の娘の身ばかりではないんです」
「……と言うと?」
「アトラはメリッサの事を妹のようだと言う程可愛がっていました。実の妹……アリンダと丁度同じ年頃ですし、アリンダとは同じ館で暮らしていてもまったく顔を合わせる機会もないそうですからね」
カルシスの後妻、宰相の娘アサーナ……カルシスが諸手を挙げて迎えた女性はひどく精神の脆いひとで、殆ど人前に出る事も出来ず、それでも何とか一女をもうけたものの、出産の際のショックからか、益々人に怯えるようになり、産んだ娘アリンダと共にここ十年以上、自室に閉じこもって出てくる事がないという。アトラウスが数少ないアサーナ付きの侍女から聞いた話では、娘もまたアサーナと同じ性質で、話す事も出来ず、母親に依存して赤子のような生活ぶりだという。最初の妻は軟禁し、二人目の妻は自ら引き籠もり……これもカルシスの業なのかルルアの与えし運命なのか、とアルフォンスの気にかかる事ではあるが、あの頃のシルヴィア母子と違って、アサーナ母子は、カルシスから何でも好きなようにすればいいと言われ、豊かな食事と安らげる環境を与えられて彼女たちなりに満足して過ごしているというから、そうした人生もあるのかと思う事しか出来ないでいた。
そうしてたった一人の血の繋がった妹とは兄妹らしい触れ合いは何ひとつ出来ず、むしろ従妹のユーリンダに対して、ようやく本願叶って婚約に至るまでは兄のように振る舞い続けたアトラウスであるから、赤子の頃から知っていて常日頃傍にいる、乳母のような存在のオルガの娘に、妹に対するように心許していたとしても何の不思議もない事だとアルフォンスは思った。
「それで何が?」
「つまり、アトラを中傷する輩がいるんです。ご存じの通り、妬みというものは醜いですから」
成る程、とアルフォンスにもようやく合点がいく。




