4・変化
暫く二人の間に沈黙が下りた。次の言葉を探しながら二人はグラスを傾ける。ウルミスの方は少し赤くなってきていたが、勿論大事な話が出来なくなる程酔う事はない。アルフォンスの方は、昔からいくら飲んでもあまり変わらなかった。
「宰相閣下はどうお考えなのだろう?」
アルフォンスは単刀直入に友に尋ねてみた。国王直属の金獅子騎士団長は宰相の部下ではないが、アルフォンスよりは接する機会が多い。
「どう……とは、陛下についての事か」
「勿論そうさ。陛下はお若く、影響を受けやすいお年頃。また、帝王学その他研鑽を重ねて来られたとはいえ、急な前王陛下の御崩御で、いきなりお一人でヴェルサリアの全てを担うには、いくらご聡明とはいえ荷が勝ちすぎる。だから宰相閣下が国事について、その他諸々についてご指導なさっている。わたしは、それは良き事と思っていた。わたしは宰相閣下と必ずしも全ての意見を共にする訳ではないが、ヴェルサリアの未来を思う気持ちだけは変わらぬ筈。子どもの頃からお話を伺ってはその点、尊敬の念が崩れた事はなかった」
「…………」
「エルディス陛下は、決して臣下の諫言を無下になさる方ではなかった。もしも臣下の方が陛下のご意志を取り違えての事であれば、自らの真意を皆に解るよう説明なさり、諫言を罪に問うような事はなかった。傍仕えの者の些細な過ちを咎めるような事も……」
「だから、そこが変わられた、と言っているんだ」
ウルミスはやや居心地悪げに呟いた。七公家の当主として王に仕えるアルフォンスに比べ、国王直属の剣として身命を捧げたウルミスにとっては、彼を縛る忠誠の鎖は、その強度は同じものであっても、自由という点でかなりの開きがある。金獅子騎士団長は国王に意見を求められればそれを言う事は出来ても、国王を批判する事は決して出来ないのだ。己の全てが王のものであり、己の全てで王を信じねばならない。王が仮にいとけない赤子を殺せと命じれば、王の握った剣となってそれを実行しない事は許されないのだ。
「済まない、陛下のなさった事を悪く言うつもりではないんだ」
アルフォンスはすぐにウルミスの思いを察して詫びた。言葉にせずとも、ウルミスに解らない訳はないのに。
「謝る理由はないさ。我々は宰相閣下の話をしているんじゃなかったか?」
アルフォンスの言葉にやや気持ちをほどいてウルミスは返した。
「ああ……そうだな。宰相閣下はいったい、陛下にどのような王になって頂きたいと思っておられるのだろう? 確かに王太子であられた頃には、エルディス陛下はわたしの考えをよく容れて下さっており、それは必ずしも宰相閣下の意に添うものではなかったかも知れない。だが、根本的に『王者の器』として民から求められるもの、という事では、わたしと宰相閣下の考えにそう大きな乖離はなかったと今まで思っていたのだが」
「アルフォンス。私は武人で政むきの事をよく理解しているとは言えない。そんな私に、宰相閣下の真意を問うのか?」
「細やかな政策や宮廷での利害関係などを問題にしている訳ではないのだから」
そう言ってアルフォンスは微笑し、
「そうは言ってもきみには様々な裏を見透かす目があるのだから、そちらの方でも意見を聞きたいと思うことも多い。だが今はただ、ごく単純に、宰相閣下は何故、わたしやラングレイ老公が当然に思うような事を陛下に仰らないのか、と聞きたい。もう少し突っ込んで言うと……そう……きみの目から見て、宰相閣下は、本当に陛下の御為を考えておられるのか、と」
「……アルフォンス」
驚きのあまり、ウルミスは咄嗟にそれだけしか言えなかった。宰相アロール・バロックにとって、国王エルディスは王国の要であると同時に、孫娘の夫つまり義理の孫にあたり、国の為にも己の為にも、何にも代えがたい大事な存在である筈だ。その事は、宮廷に関係する者全てが当然の事として疑いすらしない事実の筈だ。
「何を言い出すんだ。そんなこと……」
確かに、何故宰相は国王に、国庫を考えて贅沢は程々に、王者は些細な失態には寛容にと説かないのだろうか、とうっすら感じてはいた。ウルミスの目から見ても、明らかに国王は王太子時代には考えられなかった程傲慢な王に変化しつつあった。しかしそれは、華美を好む新妻に影響されての事で、いずれ収まるだろうと、急な世代交代に付随した小さな波でありいずれ立ち返るであろうと考えていた……考えようとしていた。だが、その保証はどこにもないのだと、あんなに信頼していたアルフォンスさえも些細な口論で出入り禁止にしてしまう程の大きな波なのだと、今更ながらに気づき、酔いは一気に醒めていくようだった。
「わたしも、陛下ご自身がいずれお気づきになるだろうと信じてはいる」
ウルミスの考えを読み取ったかのようにアルフォンスは彼を見据えながら言った。その優美な手先はワイングラスを弄んでいるが、もう微笑は浮かべていない。
「だが、陛下にものを申し上げる事を暫く禁じられてしまった以上、わたしには今陛下の傍について手助けして差し上げる事は出来ない。陛下がお耳を貸されるのは宰相閣下の言葉だけ……その宰相閣下に、本当に全てを委ねていいのだろうか? あの聡明な宰相閣下が、今の状態が良いとは言えないものだと気付かない筈もない。そもそも、今の状態になる前にお止めする事が、宰相閣下ならば絶対に出来た筈」
「宰相閣下は……若気の至りだと……些細な事だと……思っておられるのではないか。或いは、孫娘可愛さから」
「王妃陛下は強かな女性だ。男性であったならやがて現宰相閣下をも凌ぐ辣腕の宰相になられたかも知れぬ。そして女性故に宰相にはなり得ぬものの、王国の女性として最高の地位に就かれた事で、もしかしたら、宰相以上に権限を振るわれるかも知れぬ。そんな王妃陛下の御気性、わたし程度が見抜いたものを宰相閣下がご存じない訳もない」
即位と結婚を祝う舞踏会での王妃の囁き……。
『わたくしはヴェルサリアの歴史に残る偉大な王妃となるのですから不吉など恐れません。真実を知りたいのです』
『わたくしは国母になるのですから、その時までにわたくしだけの臣を集め、祖父に対抗できる力を持つ』
『わたくしは王国の七本柱の全てを知らなくてはなりません』
自分の父親とあまり変わらぬ年齢の有力者を地位で釣りながらその本質を見抜こうとした。そのやりようには性急さと行き過ぎを感じはしたが、それは彼女の若さと経験不足から来たものに過ぎない。王妃はいずれは祖父を凌ぎ、夫にうまく取り入りつつ、国政を影で取り仕切りたいという野望を持っているとあの時感じた。うら若き女性の身で大した胆力と野心だが、王家に対するものとは別に国王個人に忠誠を誓っているアルフォンスとしては、勿論好ましくは感じられない。王妃の方も自分を嫌っている事は解っているが、如何に彼女が祖父を凌ごうと目論もうと、今現在は、祖父の力によって就けた王妃の座であり、祖父の意志に逆らう事はまだ出来る筈がない。自分を国王から遠ざける力が働いた事には、宰相の意志が入っていない筈はないと思う。宰相の息子ティラールの、ユーリンダに対する求婚を機に、ルーン家とバロック家の間に深い亀裂が入ってしまった事は事実だが、そうした私情とは別に、真に国王の為を思うならば、王に忠実な臣を排斥しようとしたりはしない筈だ……これまで長年見てきたアロール・バロックならば。
「宰相閣下にとっては、王妃陛下が男勝りの御気性だから、親族の情は薄いと言うのかい?」
思いに沈んだのは一瞬、ウルミスの問いかけにアルフォンスははっと己を取り戻す。
「いや、そういう意味じゃない。ただ、単なる情で左右されるお方でもあるまい、というだけの話さ」
「ああ、成る程」
勿論ウルミスは、舞踏会で王妃が三人の公爵に囁きかけた事など知らない。そう言えば、リッターはあの時、なんと答えたのだろうか。図書館への『外出』以降、リッターともスザナとも殆ど内密に話す機会はなかった。後から説明すると言っておきながら、結局急な用が出来てスザナの招待を断ってしまった事を、彼女はとても怒っていたと聞いたが、顔を合わせた時に謝ると、『もういいのよ』と軽く流されてしまった。
結局、エーリクを殺したものが何であったのか、宰相はどこまで知っているのか判らぬままである。国王に対する不可解な態度に関係するとは思えないが……。
(宰相閣下はまさか……いや、そんな筈はない。それだけは……)
「アルフォンス、やはりいくら何でも、宰相閣下が陛下の御為を思っていないなど、私には考えられないよ」
ウルミスの返答が、アルフォンスの迷いを否定した。
「そうか」
「そうだ、陛下の不利益は宰相閣下の不利益だ。宰相閣下は様子を見ておられるのかも知れないが、いざという時には諫言される筈」
「いざという時か」
「そうだ、別段きみは失脚した訳でもない。陛下は日々のご多忙でお疲れで、心やすいきみに甘えを見せてしまわれたのさ。ご機嫌が直れば、何事もなかったようになるだろう。陛下は元々聡明で素直なお方。私にとっては、光の玉座に座られるお方はただただルルアに最も近いお方としか思えないが、きみが陛下の王太子時代、『弟のように愛おしい』と言っていたのも頷ける。考え過ぎさ」
ウルミスはそう言ってぐいっと酒杯をあおった。半分は願望がこもった言葉のようにも思えたが、アルフォンスは友の言葉を吟味し、自分もそう願うしかない、と感じた。
「私だから言ってくれたのだろうが、他の者にそんな事を言えば、邪推されるぞ」
「勿論、長い付き合いで心から信じられる友人だから本音で話したのさ。心配ご無用」
軽く返して、
「相談に乗ってくれて感謝する。そうだな、陛下の芯の部分は、変わられる筈はない。まだお若いのだから、迷われる事もあるだろう。新年の祝賀の頃には、もうわだかまりがとけているといいのだが」
「そうなるに決まっているさ。まあ、私も何か気になる事があれば便りを寄越すから、あまり考え込まずに、領地の事に暫く専念しているといい」
そうして二人は雑談に戻っていった。
ウルミスは、アルフォンスの提示した疑問から眼を逸らしてしまった。アルフォンスは、親友の答えをただそのままに受け入れた。心やすいから、というような雰囲気でなかったのは判っていたが、ウルミスがそう言うからには、思う程切迫してはいないのだろう……第三者にそう見えるのなら、これ以上案じても手の打ちようもない、という事もある。
アルフォンスの提示した疑問――『変わったのは、国王よりも宰相ではないのか?』という疑問。国王の変化があまりに顕著だった為に誰もその可能性に気付かなかった疑問。それは、国王の若気の至り、などとは比べようもないくらいに王国にとって重い問題であったが、同時に誰もが有り得ないと思う事でもあった故に、見過ごされてしまった。
二人は夜を明かして飲み語り、固い握手をして別れた。
「じゃあ、次は新年の祝賀で」
「ああ、また」
再会が思いも寄らぬ形になろうとは、どちらにも予測もつかぬのも、無理のない事であった。




