表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
87/116

2・過去との訣別

「アルフォンス……」

 若い王は静かな声で呼びかけた。その声色は、先程までの苛立ちや不自然に快活に振る舞おうと努めるような響きはなく、ごく自然なものだった。即位前と同じ、かれに素直に心を開く少年の声だった。アルフォンスは、やはりエルディスは以前の心優しい王太子と根本的に変わってしまった訳ではないのだ、と嬉しく思い顔を上げた。そこには、見慣れた微笑を浮かべた王の視線があった。

「陛下……!」

 エルディスの背後で王妃の柳眉が上がり、周囲からはほっと吐息が漏れた。だが……次の瞬間、アルフォンスは王妃の怒りの表情が偽りである事に気付いた。王妃は、その美しい唇の端に勝利の笑みを走らせたのだ。

「アルフォンス、そなたの長年の余に対する忠義、嬉しかったぞ。誰もがただ余の顔色を窺ったり機嫌を取ろうとしたりするだけ……父上からはただ次期国王としての心得を説かれるばかりで親子の情のある御言葉はろくに頂けず、母上は御体調が優れず王妃宮にお籠もりがちで……王太子宮でただ勉学と鍛錬の日々を送る私には友人と呼べる存在もなく、気兼ねなく話せる家族も傍にはなかった。そんな中で、ただそなただけが、私の立場ではなく私の心を慮って傍に立ち、私の過ちがあれば指摘し、私の長所を心から褒め……私の孤独を癒やしてくれた」

 エルディスは過去への思いに沈んだように語り、王太子に戻ったかのように、余ではなく私という言葉を使っている。だがアルフォンスは言葉にし得ない不安を覚え始めた。エルディスは一見、幼少の頃から見守り続けた愛おしい王子に返ったかのようだが、どこかで激しい違和感がざわついた。エルディスの言う通り、これまでアルフォンスは、王太子相手といえども、将来の彼の為に、国の為にと思い、間違っていると思う事には意見を控えなかった。今日ほどに間違っていると思う行動をエルディスがとった事はなかったが、聡明な彼は必ずアルフォンスの意見を吟味し、頷いてくれた。大人しい少年だったが、教師たちが王族として慣例の常識であると決めつける事には反発する事も多々あったので、アルフォンスには嬉しく、益々この少年の成長を見守り常ではなくとも傍近く居られる立場を喜んだものだった。

「アルフォンス、私はずっとそなたを兄のように思っていた。出来ればずっと王都にいて、私を導いて欲しいと……そう駄々をこねてそなたを困らせた事も何度もあったな」

「御心に添えませず、心苦しく思っておりました」

 とアルフォンスは返答する。すると、エルディスは何故か破顔した。

「もうよい。これまでの忠義、大義であった。これからは余の心配はいらぬ。自らの領地に専念するがよい」

 エルディスの口調は徐々に変化してきている。しかしアルフォンスはまだ、自分の思い違いであろうという望みを捨てきれなかった。

「わたくしの本分は、陛下の忠実な臣である事が第一でございます。ヴェルサリアの安寧あってこその地方治政の安定でございます」

「余はもう、そなたの手を煩わせる子どもではない、と言っているのだ。余は大ヴェルサリアの君主。無論神ならぬ身ゆえ、全てが完全ではないだろう。だが、余にはいま、祖父御として完全な味方となり導いてくれる宰相と、この王国で女性として最高の知性を持ち無私の愛情を注いでくれる王妃がいる」

 そう言うと、王はアルフォンスに背を向けて王妃に歩み寄り、その手を取った。細く白い指に燦然と輝く豪奢な指輪をいくつも嵌めた手を夫に預け、リーリアは控えめな笑みを浮かべて王の傍近くに立つ。真珠を散りばめた青いドレスは幾重にも襞飾りが施されて、王妃が歩く度に波打って衣擦れの音を立てた。

「宰相と王妃は、余に自信をくれた。余は王として生まれつき、他の者とは異なる存在なのだ。余の考えはルルアが余に下されたものであり、余がそれを読み違えた時には宰相と王妃が教えてくれる。アルフォンス、そなたはかつて、王といえどもルルアの下では誰もが同じ人間であり、ただルルアが与えた役割が異なるだけなのだ、だから民の気持ちに立って考える事も王の務めだ、と言ったな。あの言葉に、余は、惑わされた……余がたまたま王家に生まれついたから王になるのかと……他の者と同じ存在であるならば、余は国を導く器ではないのではないかと……」

「陛下、決してそういう意味では……!」

「そなたに悪意がなかったのは解っている。だが、もういいのだ。余は余にしかない力を持っている。ゆえに、余の所持品を穢した人間に制裁を加えるのもまた余の威光をもってせねばならぬ事のひとつ。本当は、余としても心苦しい部分もあるのだ」

「陛下はお優しすぎますから」

 そう言ってリーリアはそっと夫の手に手を添えた。

 悪夢か、とアルフォンスは思った。ほんの二月ほど領地に帰っていた間に、エルディスの心は乗っ取られてしまったようだった。

「もう、『兄』は必要ない」

 と王は言った。

「余に意見するのは宰相と王妃だけでよい。アルフォンス、そなたはただ、王国の七本柱の一本として、他の公爵達と共に余計な口を出さずに余を支えてくれればよいのだ。これは先日、ラングレイ老公にも話したこと。小姓ジョージへの罰は変わりない。そしてアルフォンス、そなたは当分……そうだな、年が明けるまでは宮廷に伺候しなくてよい」

「陛下……!!」

「そなたがいずとも、余は国を治められる。かつてのそなたの力添えがあってこそだ。喜んでくれ」

 王の笑顔は、最早かつての少年のものではなくなっていた。貼り付けられた王者の仮面……。

「陛下、わたしはもう陛下のお役には立てない、と仰せですか」

「そうは言っていない……ルーン公」

 アルフォンスの真摯な瞳にエルディスは一瞬眼を逸らしかけた……が、すぐに王妃の視線とぶつかり、意識的に声を強めたようだった。

「これからも、王国の七本柱として余を支えて欲しい。アルマヴィラのルーン公、そなたは我が治政に必要な人材だ。だが、余はもうそなたの弟でも生徒でもない。過去は過去とそなたが悟り、説教癖を直さぬ限りは会いたくない、と言っているだけだ」

「説教など、そのようなつもりは」

「お黙りなさい、ルーン公。陛下の意に反する言葉をこれ以上返すおつもりならば、いかな大貴族といえども罪に問われますことよ」

 ぴしゃりとアルフォンスの言葉を遮ったのは王妃。王はアルフォンスに背を向け、件の花瓶に触れた。

「余はこの世の美に疎かった。父上が贅沢を好まれるのを苦々しく思っていたのは、ただ、美しさを知らなかったからだ。王たる者は民とは異なり、美に触れていなければならぬ……そんな大事な事は、そなたは教えてはくれなかったな」

 王の呟きに、それは違う、とアルフォンスは叫びたかった。勿論王の権威は輝かしくあらねばならないが、浪費を重ね、人よりも物が上のように扱う事は王たる者の心得から離れる。人心を掴む事こそ王の最も重要な仕事だと、常にアルフォンスは言い続けてきた。

 だが、かれに背を向けたエルディスは、既にかれの言葉を拒絶していた。勝ち誇った王妃が、

「もう退出してよろしくてよ、ルーン公」

 と言う。室内には重苦しい空気が漂っていた。かつて王の一番のお気に入りで、「ルーン公殿下と王太子殿下はご兄弟のようにお仲がよろしくて」と微笑みと共に囁かれていたアルフォンス・ルーンでさえ、この、宮廷に渦を巻く急激な流れを阻む事は出来ないのだ、と皆が悟ったからだ。王妃の差し出た一言を王は窘めようともしない。

「……承知致しました。お耳汚しの進言の数々、どうぞお許し下さい。全ては、陛下の御為を想っての事ですが、出過ぎたようで……」

「もういいと言っているだろう。暫くそなたの顔を見たくない」

 心が乱れそうだから、とは王は言わなかったし、自覚もしていなかった。王妃の甘言は心地よく、何一つ悪い事はないように思えたが、心に迷いが残っていなかった訳ではない。今まで信じてきたものを切り捨て、絶対君主として、弱き者を切り捨てても動じぬ鋼の心を持つように、という宰相の言葉に従っていく事が本当に正しいのか。だが、リーリアが傍にいて、絶えずその考えを囁きかけてくる中で、もう自分は後戻りは出来ない、とも悟っていた。だから、綺麗事ばかりのアルフォンスとは距離を置くしかない、と。

(これがそなたの望みなのだろう、リーリア?)

 エルディスは熱病に冒されたごとく新妻を愛していた。彼女は彼にとって女神のような存在であり、今や彼女が言葉にせずとも彼女の望みを理解出来る。


『アルフォンス。一生涯……私と共にあって国を支える手助けをしてくれるか? 私が間違っていたら私を正してくれるか?』

『勿論、我が命は国王陛下と殿下、ヴェルサリア王国のものでございますゆえ』


 王太子時代に何度も交わされた誓い。だが、その時の思いはもう、今は遠く儚く、形ばかりのものになってしまった。エルディスの方から手を振りほどいてしまえば、アルフォンスはそれに従うしかない。


「……では、御勘気が解けるまで参内は遠慮致します。どうかお風邪など召されませぬよう」

 そう言ってアルフォンスは退室した。件の小姓が追いすがってきて、

「申し訳ございませぬ、ルーン公殿下! わたくしのせいで……このような……」

 と泣き崩れる。

「そなたのせいではない。わたしの力が足りなかっただけだ」

 溜息混じりにアルフォンスは答える。

「元々お優しいお方。そのうち解って下さるだろう。即位されて間もないこと、様々な重圧で、らしくないお振る舞いをなされているだけだろう」

 きっと、権威付けの為に臣下にきつくあたるよう、宰相が知恵をつけているのだろう。元が聡い質なのだから、あと二~三年もすればきっと、何が正しいかを見極めてくれる筈、とアルフォンスは己に言い聞かせる。

「厩番などそなたには辛かろう。ほとぼりが冷めれば配置換え出来るよう、領地に帰る前に人事の方にそっと計らっておこう」

「殿下……わたくしの事などどうでもいいのです。陛下はもう、殿下の御言葉にさえ耳を貸されなくなっておしまいに……わたくしは……わたくしの事がきっかけでこんな……」

 この小姓の忠義の篤さはアルフォンスもよく知っていたが、彼の嘆きようから、王周囲の人々が王の変化をどのように捉えているかを感じ、アルフォンスは唇を噛む。

(宰相閣下……何があろうとも、陛下を悪い方に導かれはしないと……わたしは信じています)


 この件以来、アルフォンスは出仕を控えていたが、年が明けて新年の祝賀には当然参列するようにと宰相から伝達は受けていた。

 その予定がおおいに狂い、思いもかけない形でアルフォンスが次に国王にまみえる事になるとは、この時、誰一人予想し得なかったのは無理のない事であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ