1・王国の現状
ヴェルサリア王国の現国王、エルディス3世が即位し同時に宰相アロール・バロックの孫娘リーリアを王妃に迎えてから、約10ヶ月が経とうとしていた。王国の安寧と繁栄は、国王が代替わりしてからも変わりなく、主に貧富の差による様々な懸案はあれども、大過なく時は流れていた。経験の浅い新王を当初は心中侮り、機会あらば上位に立とうと狙う心積もりの諸外国の思惑も薄らと存在してはいたものの、敏腕宰相のバロック公は王の第一の助言者として、また実質的なヴェルサリアの権威者として、堅実に新体制を固めてゆき、何者にも付け入る隙を全く与えなかった。
王の元には、外交も内政も長年の経験と持って生まれた才覚とで何もかもを見透かしているような歴代でも群を抜く有能な宰相、『ヴェルサリアの七本柱』と呼ばれる、建国時からの忠臣である七家の大貴族――グリンサム家だけは、前当主エーリクの急な『病死』により跡を継いだシュリクがまだ幼い為、母親のイサーナが後見に立っているものの、宰相の援助によって何とか家内を取り纏めている不安定な状態ではあったが――、様々な役職を持つ貴族の官僚達、そして王家の剣と盾と呼ばれる金獅子騎士団と王宮騎士団が揃い、内憂外患すべてをものともせぬような盤石な体制が綻びなく整えられているように見えていたのである。
ただ……物事を見通す目のあるひとの中には、この安寧の陰に不安を感じる者があった。生真面目な少年だったエルディス3世は結婚前から王妃となるリーリアに夢中であり、それはそれで微笑ましかったのだが、王妃の祖父、つまり義理の祖父となった宰相の意見に頼るのは無理のない事とは言え、自分と同年の王妃の意見にもかなり寄る傾向を見せている事。歴代の王妃の殆どは、自らの役目を国家行事をこなす事と子を産み育む事と弁えて、政治事には口を挟まず、普段は王妃宮からあまり出ないような生活を送っていたのに対し、新王妃リーリアは、謁見の儀にも諸会議にも頻繁に王に付き添う形で現れ、男勝りに意見を述べるのである。これには最初は眉を顰める者もいなくはなかったが、リーリアはまだ子どもの頃に学問塔の博士を論破したという過去を持つ才女、その言葉がいちいち理に叶っているので、最初は、例え宰相に睨まれても慣例を守るよう意見する、と息巻いていた者も、声を上げる機会がなくなってしまったのである。
そして、元々聡明な質で心優しく、必ず民衆に優しい善政をしくだろうと強く期待されていたエルディスだったが、才色兼備で物心ついた頃から未来の王妃候補として育てられ、選民意識の強いリーリアに影響され、徐々に臣下に対する労いや思いやりを忘れて些細な事で叱責したり、王妃の言うなりに贅沢な調度品や王妃の身の回りの品に国費を惜しまなくなってきたのである。
今はまだ、これまでに蓄えられてきたもので国庫にゆとりは充分にあり、追従者は、むしろ王者はそれに相応しく堂々としたいでたちを、と煽る始末であったが、このまま行けば派手好きとして知られた父前王以上に浪費するのではないかと、財務の者たちは口に出せない不安を抱えていた。何しろエルディスは若く、その治政は数十年続くかも知れないのである。エルディスは最初の年で、父親が晩年にしていたのと同じ位の浪費をしようとしていた。これに対して、宰相に意見を奏上する者もあったが、王陛下のなさる事に間違いはないと叱り飛ばされただけであった。そして間もなくその者は地方へ左遷された。
もうひとつの不安……それは、以前であれば、このような事態に対して、国王に対してでも憚らずに意見を述べ、そしてまたエルディスもかれの言う事であれば必ず耳を傾けていた筈の、アルフォンス・ルーンの不在である。
大貴族たちは、それぞれの領地の管理に忙しく、宰相を除いては王宮における官位は名ばかりのものではあったが、それでも大抵二月に一度は王宮にあがり、様々な務めをこなしていた。だがアルフォンスは、もう半年近く宮廷に姿を見せていない。元々は、孤独であった王太子時代のエルディスのため、出来うる限り時間をとって宮廷に来ては、公私にわたって彼の相手をし、エルディスもまた、実の兄のようにアルフォンスを慕っていた。
『アルフォンス! 剣の稽古に付き合ってくれまいか?』
『後で私の部屋に来て欲しい。アルディアン王の時代のカペートの乱について意見を聞きたい』
兄たちの早逝により王太子となったものの、大人しすぎる、と父王にあまりよく思われていなかったエルディスにとって、自身の栄達の為でなくエルディス個人の為だけに尽くしてくれるアルフォンスは、肉親よりも信頼出来る存在であり、またアルフォンスもその信頼に完全に応えていた。アルフォンスは、孤独な鳶色の目をした才ある王太子を、臣としてこれ以上ない程に愛していた。
なのに何故、アルフォンスは姿を見せないのか? それは半年前にかれが、王の私室へ招かれた際に、王が上機嫌で遠国から取り寄せた美術品を披露しようとしていた時に起きた事件からだった。陶製の花瓶を運んでいた小姓が躓き、それでも取り落としはしなかったのだが、その宝に自分の口をつけてしまったのだ。
傷が付かなくてよかった、と思ったアルフォンスだったが、まず王妃リーリアが怒って、
「そなたのせいで名工イクシスの花瓶が穢れたわ! 同じものをそなたの私費で取り寄せなさい。でないと、そなたもそなたの家族も皆、解雇します。王都からも出て行きなさい!」
と言い渡した。勿論、余程裕福な王侯貴族でない限り、一生涯働いても買って返せるものではない。
「ど、どうかお慈悲を、王妃陛下!」
何とか花瓶を落とさないようにと踏ん張った際に足腰を傷めたようだったが、それにも気付かない程の衝撃を受けた小姓は這いつくばって王妃の怒りを解こうと涙ぐんで訴えた。アルフォンスは王妃の大袈裟な怒りに呆れたが、当然国王が妻を宥めるだろうと思いとりあえず黙っていた。が、驚いた事に、これまで使用人の他意のない過ちには常に寛容だった王が、平伏した小姓にいきなり歩み寄ると、自らの短剣の柄でしたたかにその頬を殴りつけたのだ。小姓はのけぞって倒れ、折れた歯が血と共に飛んだ。室内には数人の王の取り巻きがいたが、水を打ったように静まり返った。
「も、申し訳ありませぬ、御前を汚し……」
小姓は哀れな様子で、それでも這いつくばったまま血の付いた床を拭おうとする。
「もういい! 二度とそなたの顔は見とうない。早く出て行け。そなたには厩の仕事を与えてやるから感謝するがよい」
「は……お、お慈悲に感謝いたし……」
そう言いながらも小姓は涙を流していた。もう何年もエルディスに仕えている、アルフォンスもよく見知った小姓である。
「陛下! それは余りに酷ではありませんか。幸い花瓶には何の損傷もないのですし」
思わずアルフォンスは口走った。
するとエルディスは、心底訝しげな表情を浮かべてアルフォンスを振り返ったのである。
「酷? 余は罪を許してやったのだぞ。慈悲であるものを何故そなたは酷と言う? なあリーリア、それくらいで勘弁してやってもよいであろう?」
すると王妃は優しげな笑みで夫を見上げ、
「ええ、わたくしも声を荒げたりしてはしたのうございました。陛下のご寛容には本当に心動かされる事ばかりですわ」
と答えたのである。エルディスは満足して笑い返す。もう哀れな小姓の事は頭にない様子だった。
「陛下。恐れながら、彼のこれまでの功績に免じて、口頭での叱責もしくは期間付きの減俸にとどめて頂ければと思います」
アルフォンスは言わずにはいられなかった。本当は、何が寛容か、と叫びたいくらいだったが、流石にそれは抑えた。室内の各所から息を呑む音があがる。もうこの所、新王に向かって諫める者は誰もいなかったのである。即位からほんの数ヶ月の間に、宰相とその孫娘である妻にすっかり王は手玉にとられ、諫言した者は皆罰を受けた。ラングレイ老公でさえ、流石に罰はなかったものの、宰相より年上の大貴族に対して若き王は不快感を露わにして言う事を聞かず、暫くは面会も拒否したのである。
「ありがとうございます、ルーン公殿下。しかしわたくしが不調法なのがいけなかったのです。わたくしは陛下のご寛容に感謝しております」
小姓は歯が折れてものが言いにくい状態でも、アルフォンスの袖に縋ってそう言った。アルフォンスの気持ちは有り難い。だが国王の勘気に触れては、自分の罪状がまた増えてしまうかも知れないという懸念があった。
エルディスはアルフォンスと小姓を見た。一瞬その目には最近癖になっている苛立ちの影がよぎったが、一応相手が親しんでいるアルフォンスであると思い出し、機嫌を直そうと思ったようだった。
「そなたは優しいな、アルフォンス。だが、以前にそなたは言ったぞ。王者こそが法を遵守せねばならぬと。その者は王妃の機嫌を損ねた。我が宮廷では重罪と言える」
そして笑顔で、
「それよりもアルフォンス、この花瓶の意匠は見事だろう。フェルスタンから、かの名工イクシスに特注して取り寄せたものだ。もしも傷などつけていたら、その者、クビでは済まずに首が飛んでいたぞ」
と不慣れで笑えもしない冗談を言う。室内の者達はぎこちなく笑ったが、アルフォンスはとても笑う気分ではない。
「王妃陛下の御気色悪しくなる行動は確かに悪うございましょうが、それに対してはっきりと罪状を決めた法がありましたでしょうか」
「花瓶を汚したらどうなるか、という法は明記されていない……。建国以来の法は遵守するが、些末な事を決する法は王たる私の中にある」
宰相から吹き込まれたのだろう、とアルフォンスは思う。以前の彼ならば決してそんな思い上がりはなかった筈だ。
「些末な事ではありません。臣下ひとりの生活がかかった事ですし、こんな事でわざわざ陛下自ら打擲なさるなど、陛下の御威光にも響くかと」
「ルーン公!!」
アルフォンスの諫言に、僅かに戸惑った様子を見せた王だったが、ここで王妃が口を挟んだ。
「そなた、国王陛下に指図するお気持ちか。いかな大貴族といえど許されませぬぞ」
ユーリンダとティラールの結婚問題の経緯から、アルフォンスは宰相の不興をかっている。その宰相の意を汲んで動いている王妃がかれに対して好意的でない事はずっと以前からはっきりしていた。
「指図などとんでもありません。ただ、臣として陛下の御為を考え、拙ながらご意見申し上げたのみでございます」
アルフォンスは低頭した。王妃の敵意は解けないだろうが、王は解ってくれる筈、と思った。




