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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
85/116

幕間

 雷鳴が轟き、豪雨が街路の石畳を激しく叩きつける。この晩のアルマヴィラ都は、まだ真夜中という時間ではなかったが、悪天候の為に人通りが少なかった。表通りでもそうなのだから、裏小路と呼ばれる怪しげな店の並ぶ界隈では、その娘を除いては人っ子ひとり姿を見かけなかった。

 はあ、はあ、はあっっ……。息を切らせ、何度も水たまりで足を滑らせそうになりながらも、必死で娘は走っていた。逃げていた。なにか、わからないものから。

 全身ずぶ濡れになっているが、着ている衣服は町娘のものではない。貴族の館で働く侍女のお仕着せ……それと判らぬよう、目立たぬようにすっぽりとマントを羽織っていたのだが、走っている間に脱げ落ちてなくしてしまっていた。目鼻立ちは悪くはないが、ごく普通の、黒い髪と瞳のアルマヴィラの若い娘である。

 悪意を持った何者かは、ひたひたと近づいてきていた。娘は、あるじに使いを頼まれて町を歩いていたところを、腕を掴まれ、馬車に無理やり引きずり込まれそうになったのだ。必死に抵抗し、振り払ったものの、助けを求める叫びは、雨と雷の音でかき消された。馬車が追ってくる様子はなかった。だが、確かに誰かがあとをつけて来ている。

 濡れた路面で滑って、娘は水しぶきを立てて転倒した。

「……!!」

 黒い人影が、覆い被さってこようとしていた。もう、すぐ目の前に。

「いやっ!」

 娘は咄嗟に、転んで脱げた靴を相手の顔面に投げつけた。相手は腕を上げて防いだものの、僅かな隙ができた。その隙をついて、娘は跳ね起きて再び転がるように走り出した。駆けて駆けて、息が苦しくて頭の中は真っ白になりそうだったが、遂に娘は目的の家に辿り着いた。

「開けて下さい、メリッサです! 若様のお使いで……」

 扉に縋り付きながらずぶ濡れの娘は叫んだ。裸足になった片方の足は尖った小石を踏んで血が流れ、水溜まりにわずかな朱を混ぜた。だが、どうした手違いか、娘が来る事は知らせてあった筈なのに、家の中は静まり返ったままだ。背後から再び、追いつめる者の気配が押し寄せてくる。娘は狂ったように扉を叩き続けた。

「たすけて! だれか!」

 だが、願いはむなしく雨にかき消され、力強い腕が彼女を捉えた。

「静かに……」

 そのまま、娘は鼻と口に布を押し当てられ、薬を嗅がされる。意識が薄れ行く中、空に稲妻が走った。意識を失う前の一瞬、娘は見た。襲撃者の指に、紋章入りの指輪が嵌まっているのを。それは、よく見知った……。


 娘が浅く苦しい眠りから覚めると、大きな石の台の上に四肢を拘束されていた。背中に当たるのは固く冷たい感触。目隠しをされているが、元々薄暗い部屋のようだと判る。そして部屋の隅でひそひそと囁き合う男の声が息苦しい静寂の合間から聞こえてきた。長く閉め切られていた部屋らしく、空気が淀んで重い。身をよじろうとしたが、身体はがっちりと固定されて全く動けなかった。濡れた衣服は気を失っている間に誰かが着替えさせたらしい。肌触りのよい布が身体を包んでいるのを感じる。誰が、何の為に? だが、恥じらいよりも恐怖が遙かに凌駕した。忌まわしさを感じさせる何かが、この場を覆っていた。

(母さん……怖い……!!)

 母と娘一人、共に支え合いながらお屋敷勤めをしてきた。ただの一介の侍女である。もしも万が一罪があるとすれば、ほんの些細な、ただひとつ。

(若さま……!)

 既に許婚もある、あるじへの身の程知らずな想いだけである。しかしその想いは誰も知らない筈のものであるし、あるじの心を惹こうと思った事もない。静かに胸に秘めていただけ……このような目に遭わされる程の罪とは思えない。自分はいったいどうされるのか。娘は啜り泣いた。

「目が覚めたようです」

 低い男の声がした。聞き覚えのない声だ。それと共に、誰かが近づいてくるのを感じた。

「たすけて……」

 息も絶え絶えな様子で娘は請うた。だが、いらえはない。代わりに、大きな手が胸の上に置かれた。

「あアッ……」

 氷のように冷たい手にいきなり触れられた驚きに娘の身体がびくんと跳ね上がる。

「心の臓はここでございます」

 先程の男の声がそう言った。その言葉が含む余りの不吉な響きに、娘は涙を流しながら命乞いをし続けた。最初の手が離れ、別の手が、再び激しく脈打つ心の臓の位置を探るように胸を撫でた。この手は最初の手と違い、温かく血の通ったひとのものであるように娘には感じられた。

「やめてっ、離して、おねがいっ!!」

「……」

 だが温かい手は娘の懇願に耳を貸す様子はなく、暫く娘の鼓動と温かさを確かめるようにそこに置かれていただけであった。

「やはり、わたくしがやりましょうか」

 その最初の男の声の申し出に対し、第二の人物は何も応えなかったが、どうやら拒否したようだった。

「解りました。お覚悟の程、見届けさせて頂きます」

「殺さないで、おねがい! いや、いやっ!!」

 誰かが何か呟いたが、娘には自分自身の喚き声にかき消されて聞こえなかった。ただ、金属のようなものが、石の台、娘の身体のすぐ傍に置かれる音は感じた。

「…………」

 最初の男は、聞いた事のない言葉をぶつぶつと唱え始めた。魔道の呪だとは娘には解らない。叫び疲れて娘はぐったりとなったまま、目隠しの布の下で涙を流し続けている。もう一度、確かめるように娘の心臓の上に手が置かれた。その手は温かく、第二の人物のものだと判った。

「ルルアよ、お助け下さい……!」

 娘の呟くような祈りに、手はぴくりと動いた。娘はそれを感じ、その人物がルルアへの信仰を思い出して罪を……殺すのを思い止まってくれる事に一縷の望みをかけた。

「ルルアよ、お助け下さい! ルルアよ!」

 手が離れた。娘はルルアの名を叫び続けた。呪が高まり、そして響きが落ちていったその時、第二の人物は娘の傍に置いていた短刀を取り上げた。本能的にそれを察した娘は、鋭い叫びをあげた。

「母さん!!」

「許せ」

 短いその言葉が娘の耳に届いたのと、刃がその心の臓を正確に抉ったのは、ほぼ同時の事であった。


 後に王国中を震撼させた事件に繋がってゆく、多くの罪なき乙女が犠牲となったアルマヴィラの血塗られた惨劇は、こうして幕を開けた。『歴代のルーン公の中で最も優れたルーン公』との評価を築き上げていたアルフォンス・ルーンが、弱冠17歳で爵位を継いでから19年目の出来事であった。

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