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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第三部・婚約篇
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25・夜闇の中で

 すっかり暗くなった窓の外、月は生憎建物の反対方向に出ていて、視界を良くする役にはあまり立たなかった。

「ユーリィ、ユーリィ!」

 アルフォンスの叫びに、下の方から微かに呻くような声がした。娘は死んではいない……だが、いったいどれ程傷を負っただろう?

(ルルアよ、あなたの愛し子をまだお連れにならないで下さい。あの子はこれからこの世であなたに仕えてゆく身です!)

 思わずそんな祈りが心に浮かぶ。

 一方、呻き声を聞いたアトラウスは、伯父の傍から離れ、外へ駆けだしてゆく。生きているなら、一刻も早く手当をしなければ、助けを呼ばなければならない。不幸中の幸いで、医師は既に先程手配してあるから程なく来るだろう。しかし、三階から頭を下に落ちた者を、いくら腕利きの医師でも救えるだろうか。それにもし助かったとしても、彼女はあの美しい顔にひどい疵を負った可能性もある。そんな事になれば、彼女の心は二度と癒えないかも知れない……。でも、もしもそうなれば、ティラールは彼女から手を引くかも知れない……。階段を駆け下りながらも様々な暗い予想が彼の胸中をよぎった。

 アトラウスが下りて行ったので、アルフォンスはそのまま窓辺に留まり、ユーリンダの名を呼び続けていた。血に塗れ、息もたえだえになった娘の姿を見るのが怖ろしい……かれらしくもない弱さが、かたちをとらずともその意識の奥底にあった。

「うぅ……」

 呻き声は続いていたが、アルフォンスはふと、どうもそれが女性のものではないようだという事に気付いた。

「おい、大丈夫か! 誰だ、どうしたんだ!」

 娘の名を呼ぶ代わりにそう叫ぶと、地上の相手はその姿を見せないまま、ようやく言葉を返してきた。

「ち……父上?」

「……え? ファル? ファル、そこにいるのか。ユーリィは?!」

 三階分の距離を通して、ファルシスの溜息が微かに聞こえた。

「……大丈夫です。いきなり降ってきたので、驚きましたが……受け止めました。ユーリィなんですか、これは。咄嗟だったので、誰だかも判らなかった……」

「ああ! 良かった……!!」

 アルフォンスは深い安堵の息をつき、ルルアへ感謝の印を切った。船遊びから帰ってきたファルシスが、まさにあの瞬間に偶然に窓辺の下を通りかかり、落ちてきた妹を受け止めて無事だったなど……ルルアのご加護と言わずに何と言えようか。

 窓の下では、

「ファル! ファルなのか! ユーリィは?!」

 駆け寄ったアトラウスの声に、

「大丈夫だよ、気を失ってるけど、ちゃんと息をしてる。いたた……僕は身体中が痛いよ」

 と、どうにか呼吸を調えたファルシスが答えている。三階から落ちた人間を受け止めて、それが幼子ならともかく、いくら細いと言ってもおとなの身体であるのに、無事でいられるのだろうか。アルフォンスは急に心配になって、

「アトラ、誰か呼んで二人に手を貸させるんだ。ちゃんと医師に診てもらわなければ」

 と下に向かって叫んだ。しかしどうやら息子も娘も命に別状はなさそうだと知って、徐々に落ち着きが戻って来る。

(まったく、昨日に続いてなんという日だ。これは本当に、用が済んだらさっさとアルマヴィラに引き上げた方がよさそうだ)

 用が済んだら、と言っても、様々な難題はひとつも解決していない。

(やはりティラール殿とは無理なのか。こんな事になるならば、もっと早く二人の縁組を整えておくべきだった……)

 今更考えても詮無い事ではあるが、

『三日経って、そなたが色よい返事をしないようなら、ルーン家は我が家に敵対したと思う、と知っておくがいい』

 宰相の怒声を思い出せば、愚痴のひとつも心中でこぼしたくもなるというものだ。


 ぐったりしたユーリンダを運んで来たのはエクリティスだった。続いて腕をさすりながらファルシスも姿を見せた。ユーリンダがそっと寝台に下ろされると、乳母のマルタが涙ぐみながら、泥や擦り傷を、湯に浸した布で拭う。外目には確かに大きな怪我はないように見えた。

「アトラは?」

「少し頭を冷やしたいと……下に残っています。手当が済む頃には上がってくるから、と」

「そうか……」

 この騒動の責任の、少なくとも一端は彼にある。すぐに顔を合わせづらいのは解るが、ずっと傍についていてやりたいとは思わないのだろうか、とまたアルフォンスは甥の性格に小さな疑問を抱く。だが、愛情には様々な形がある。アトラウスが頑なに身を引こうとしたのも、ユーリンダの幸福を願っての事。誰もが自分のように解りやすい形で行動する訳ではないのだ、と思い直す。

「ディアン先生はまだか?」

「もう間もなく、かと。すぐにこちらへ向かって下さるとの事でしたから」

 エクリティスの答えに頷くアルフォンスに、取りあえず傍の椅子に腰を下ろしたファルシスが、

「いったい何がどうなっているんです……まさか、アトラや団長閣下は知っていて、僕だけ蚊帳の外ではないでしょうね?」

 と問いかける。

「勿論、きみにも話を聞いて貰う。これは、ルーン家の将来に関わる話だからな。それに、アトラもエクもまだ知らない……わたしが宰相閣下になんと言われたかを」

 そう言ってから、アルフォンスは息子に近付き、軽く……痛めているかも知れないのでただ触れるように肩を叩き、

「よくユーリィを受け止めてくれた……きみがあの時あそこにいなければどうなっていたか。わたしもアトラも、あの子を救えなかった。本当にありがとう」

 と礼を言った。ファルシスは思わず照れくさそうに視線を外して、

「いえ、たまたまですから……それにユーリィだと判って受け止めた訳でもなく、咄嗟に身体が動いただけです」

 と返し、

「マルタじゃなくて良かった。そうだったら、今頃潰れてましたよ」

 などと冗談にしてしまう。太り肉の乳母は振り返って、

「まぁっ、ひどいじゃございませんか。お小さい頃に、木登りなさって落ちて来られたのを、このマルタがお受け止めしました事をお忘れですか!」

 と目を吊り上げたが、

「覚えてるよ、だから逆ならきっと、マルタが僕を受け止めてぴんぴんしてただろう」

 とファルシスは茶化した。

「きみは大丈夫なのか。骨折したような感じはないか」

 心配顔のアルフォンスが口を挟んだが、ファルシスは、

「いいえ、打ち身だけだと思います。自分でも不思議です、あの高さから落ちてきたものを……幼子ならともかく」

「日頃の鍛錬の成果ですね」

 エクリティスがにこやかに言った。

 この時、医師の来訪が告げられたので、会話は一旦打ちきりとなった。


 取りあえずのユーリンダの無事にほっと気の緩んだ三階の部屋を見上げながら、アトラウスは一人、暗がりに佇んでいた。もう少し進めば庭園の方へ出て明るくなるが、この辺りには微かな星明かりしかない。薄着であったのでやや肌寒かったが、冷たい夜風は束の間燃え上がった感情を収めてくれるようで心地よくあった。

(こんな所であっけなく彼女が死んでいたら、僕はいったいどうしたろう……?)

 やはり、如何に武芸の腕を磨いても、それが出来る事には限界がある。どうしても魔道には敵わない……だからこそ、魔道の使用には様々な細かな制限があるのだが、どちらにせよ、亡き母からその黄金色と共に魔道の才も受け継がなかった彼にはどうしようもない事である。

「……若君」

 闇の中から突如、抑えた声が話しかけてきた。アトラウスは振り向かない。

「お前達の仕業なのか。いったいどこからどこまでを見ていたのか」

 特に驚いた様子も見せずにアトラウスは返答する。その声には、怒りも含まれているようであったので、話しかけた方はやや困惑したように、

「仕業……とは仰りようですな。蝙蝠が飛んできて姫が手を離したのは、我々の関与ではありません。我々がした事は、危険な状態になっている事を察知してファルシス公子を軽く意識誘導してこちらへ向かわせ、受け止める際に僅かに手助けした、という事でございます。むしろ、お褒めのお言葉を頂きたいくらいで」

「褒められたくてわざわざ出て来たのか」

 説明に、アトラウスは、やはり、と感じただけだった。いくらルルアの加護を受けた娘といえど、あまりにもタイミングが良すぎたし、ファルシスがいくら鍛え抜いた青年と言っても、大きな怪我もなく無事にユーリンダを受け止め得たのも奇跡的だと思っていたからだ。常識であり得ない事が起こった場合、まずは魔道の関与を疑ってみるのは身に染みついた習慣だった。

「いえ、そのような事は。ただ、若君はどうなさるおつもりかと……」

「どう、とは、ユーリンダの結婚のことか」

「さようでございます」

「……結局は、決めるのは伯父だ。僕は無力だ……今は、まだ」

「いまの事は、恐らくルーン公には、若君にとって良い方向へ働くのではないかと。姫が死んでしまっては何もかもが無駄になってしまいますから」

「なるほど。ユーリンダは覚悟を見せた。僕も……。そうか、僕は必要以上に羊を演じすぎてしまっていたんだな」

「そうでございます。むしろ、ルーン公に対しては、そうでない方が良いかと」

 ユーリンダのからだを手に入れ、既成事実を訴える。そんなやり方はむしろ逆の効果を生んだ危険が高かった事に、今更ながらアトラウスは気付いた。仮にそのやり方でティラールとの婚姻を無にする事が出来たとしても、決定的に伯父の信頼を失ってしまっていたかも知れない。他の男と結婚させられそうになった時に彼女がとる行動は、男女の結びつきを求める事などではあり得なかった。あの、幼女のままにおとなになったような娘に、そんな強さやしたたかさはない。ただ絶望し、無力なまま生そのものを諦めてしまう……たった今、彼女は自分でそれを証明して見せたばかりだ。

「今回ばかりは、焦りのあまり、僕は相当に目が曇っていたようだ……」

 自戒を込めてアトラウスが呟いた時、魔道を使う男の気配はもう消えていた。

 あの男やその他、裏黒い魔道や非合法の薬を手に入れるつては、アトラウスが殆ど自分で築き上げたと言ってもいい。伯父もいとこも、彼にこんな一面があるとは夢にも思っていないだろう。だが、本当に危機に陥った時、これらの力はきっと役に立つ。伯父のように、ただ清廉潔白なだけでは、ルーン家は永遠にバロック家を凌ぐ事は出来やしない……アトラウスは、少年の頃からそう考えていた。



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