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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第三部・婚約篇
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24・想いの行方

「ユーリンダ。馬鹿な真似はやめなさい。落ち着いて話をしよう」

 死ぬと叫んで窓枠に登った愛娘の真剣なまなざしに、アルフォンスは心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚える。彼女が窓枠を握っているその手を離せば、細い身体は簡単に落ちてしまうだろう。駆け寄って無理に身体を掴まえるか……だが少しでも動きを見せれば娘は反射的に手を離してしまうかも知れない。間にはテーブルがあるが、ユーリンダの反射神経を考えればぎりぎり間に合うという自信はある。しかし、不確定要素があった。すぐ傍にいる甥、アトラウスもまた、同じ事を考え、同時に動いたら……。室内で男二人が同時に駆け出すと、かえって互いが障害物になってしまい、咄嗟の反応が遅れてしまう危険が大きかった。

 吹き込む夜風がユーリンダの黄金色の髪を弄び、室内は冷えていったが、アルフォンスもアトラウスも額に汗を滲ませていた。

「ばかな真似なんかじゃないわ……わたし、本気よ。お父さまの嘘つき。私とアトラは愛し合っているの! アトラ以外のひとと結婚させる事はないとルルアに誓って下さらなければ、本当に私は死ぬんだから!」

 まだ、媚薬のわるい効果が微かに残っているのか、ユーリンダはおのれの言葉に興奮を高め、美しい大きな瞳からは涙とともに、父親も初めて見るようなぎらぎらした滾りが迸っていた。媚薬の事など知らないアルフォンスは、娘は何か悪い魔道に操られているのではないか、とさえ思った。可憐で優しく、暴力とは無縁な場所で大切に育てた娘が、死を口にするなどとは、俄に信じ難かったのだ。

 だが、愛娘を失うかも知れないというこの状況でも、アルフォンスは流石に娘の言いなりに誓いを口にする事はしなかった。

「落ち着きなさい。きみはわたしに命令する気なのか? きみは自分の命の大切さを顧みず、ろくに話も聞かずにその貴重なものを簡単に投げ出す程に愚か者なのか? きみが死ねば、わたしばかりでなく、きみの大好きなアトラがどれだけ悲しむか、考えた上でそう言っているのか」

「……!!」

 思いがけず、冷静で厳しい父の口調とその言葉の内容に、ユーリンダは動揺した。すかさずアトラウスが一歩近付いて、

「そうだよ、ユーリィ。僕はただ、きみに幸せになって欲しいばかりにああ言ったんだ。だのに、その言葉がきみを死に追いやったとしたら、僕はもう生きていけない。僕が悪かったんだ。何もかも後ろ向きに考えて、きみを苦しめただけだった。もう一度話し合おう。死んでしまっては、何もかもがなかった事になってしまう……」

「アトラは悪くないわ。ただ、私は、アトラ以外の人とだなんて、絶対生きていきたくないの。もしも私が死んでしまったら、アトラには誰か別の人と幸せになって欲し……」

 自分の言葉に感極まって、ユーリンダは思わず嗚咽した。本当はアトラウスが他の誰かと幸せになるなんて嫌だ。それくらいなら、ここで自分と死んで欲しい……。ひたすらな乙女心は時にかなりの自己中心性をも帯びる。後先の事も考えず、ただ純愛を貫く事に半ば陶酔し、ここでアトラが一緒に死のうと言ってくれたら、父も折れるだろうか、などという勝手な考えもちらりと脳裏をよぎった。

「僕はきみ以外の誰とも結婚なんかしないよ。きみ以外と幸せになんかなれない。それを伯父上に二人で話そう。だから、そこから降りておいで……」

「話なんて……。お父さまはルーン家の為に私とティラール様を結婚させるって言ったのはアトラじゃない!」

「……もういい、わかった」

 感情を剥き出しにした娘に手を差し伸べて、アルフォンスは彼女を制した。

「アトラ、どうしてこんな事になったのかはおおよそ解った。もっと早くきみはわたしにその意志を伝えるべきだった……」

 溜息混じりの言葉にアトラウスは、

「すみません。そうじゃない、僕は彼女に伝えるべきではなかったんです。僕は一族の出来損ないで彼女に相応しくない。そう自分に言い聞かせて堪えてきたのに、ティラール殿の事を聞いて、つい……」

「何故そんなに自分を卑下するんだ。そんな風だからわたしは託す決意がつかなかった。きみは出来損ないなどではない。きみの母上が命を賭けて成したかった事は、きみを一族の出来損ない扱いさせる事じゃないぞ。そしてわたしは常にそれを、シルヴィアの願いを心に置いて振る舞ってきたつもりだ。きみは息子の兄弟だと。それを何故解ってくれないのか?!」

「……!!」

 アルフォンスがここまで真意を吐露するのは初めての事だが、周囲は皆当たり前のように感じてきた事でもある。だが、アトラウスはくっと唇を噛み、俯いた。アルフォンスは娘に向き直り、

「いつ、わたしがアトラとの結婚を認めないなどと言った? きみの意志をわたしは尊重する。ただ、どうしてもティラール殿では駄目なのか、確かめたかっただけだ。現に、宰相閣下から内々に婚約について話があり、その場で即答を迫られたのに、きみの意志を確かめてからだと言い張った為に、お怒りをかってしまったばかりだ。それなのにきみはわたしを信じないのか。とにかくそこは危ない。きみを絶望させて死なせるような結果には絶対にしないから、早くそこを降りて来なさい。こちらで落ち着いてゆっくり話をしよう」

「……お父さま。本当に?」

「わたしがきみを騙した事があるかね?」

 このアルフォンスの対応で、ようやくユーリンダの心から興奮が少しずつ冷めてきて、父の話を聞いてみようかという気持ちが心に湧いてきた。それに、ふと脇を見やると、夜闇を透かして見える地面は遙か遠い下に思え、彼女は急に怖くなってきた。

「わ、わかったわ。きっとよ?」

 そう言って彼女は窓枠から降りようと足を伸ばした。アルフォンスもアトラウスもほっと息をつく。

 だが、その時……。

「きゃっ!!」

 何か黒い塊のようなものが飛んできて、窓辺のユーリンダの顔面近くに衝突した。灯火にひかれた蝙蝠だった。

「あぶないっ!!」

 アルフォンスとアトラウスは同時に叫んで飛び出した。衝撃に思わずユーリンダは窓枠を掴んでいた手を離してしまったのだ。彼女の身体がぐらりと揺れ、大きくのけぞりながら外の夜闇へと倒れ込んでゆく。

「いやぁっ!!」

 恐怖の叫びをあげたユーリンダの手を掴もうと反射的に駆けだしたアルフォンスとアトラウスは、最初にアルフォンスが危惧した通り、ぶつかり合ってしまう。それでも二人はそれぞれユーリンダのドレスの裾を捉まえた。しかし……薄い布地の破れる音と悲鳴を残して、ユーリンダは三階の窓から真っ逆さまに落ちて行った。



「明日か……」

 船遊びが終わり、先に馬車を帰してしまったから、と請われるままに、フィリアをローズナー邸へ送り届けたティラール・バロックは、馬車の狭い窓から同じ夜空を見上げながら呟いていた。

「なぁザハド、今朝頼んだ通りに、ユーリンダ姫のお好みのドレスやアクセサリーについて調べてくれたか?」

 己の言動のおかげで、その愛しい姫とルーン家にどんな災厄が起きつつあるかなど露も知らず、無邪気とも言えそうな笑顔でバロック家の末息子は従者の方に振り向いて問うた。先程まで、一定の距離は保ちつつも世辞を言い続けていたフィリアの事は、もう念頭にない。今まで散々戯れてきた数多の美女のうちでは可憐で好感の持てるうちだとは感じたが、それまでだった。もしも彼がユーリンダをまだ知らず、フィリアがもっと身分の低い娘であったなら、軽く口説いていたかも知れない。しかし今の彼にはもう、ユーリンダ以外の女性は、ただの美しい花々以上のものではなかった。

「はい、既に数品、姫が舞踏会の折にお召しになっていたドレスのデザイナーから取り寄せております。若がご覧になって、良いと思われたものを、明日の贈り物になさっては?」

 同乗している従者のザハド・ジークスは微笑して応えた。その目は、すぐに新しい玩具を欲しがる弟に呆れる兄のもののようにも見えた。美しい姫君の姿を間近で見ようとも、一介の従者にはそれこそ手の届きようもない高嶺の花である。ザハドの興味はただただ、ユーリンダに対してではなく、仕える相手ティラールの、これまでにない本気の恋愛がうまくいくのかどうか、に注がれているようであった。子どもの頃から傍にいる彼には、ティラールの気持ちが今までの女性に対するものとは全く異なるようだと察せられる。

「おお、そうか。さすがだな。うーむ、姫には何色が一番似合われるだろう。昨日のドレスも今朝のも素晴らしかったが……」

 呑気に、ユーリンダを如何に喜ばせて振り向かせるかばかりを考えているティラールは、今朝の冷たいとも取れる彼女の態度や、父親のルーン公が大喜びで婚約話を受けなかった事にも全くめげていなかった。ただ、この夜の船遊びに彼女が体調不良で欠席していた為に、自分の魅力を披露する機会が少しばかり減ったのを残念に思うだけで、やがて彼女が自分の良さに気付いて夢中になってくれると信じて疑わなかったのだ。これまで出会って口説いた全ての女性がそうであったように。その女性のうちの幾割かの反応は、彼の身分の方が彼自身よりも大いに関与していたとは、ザハドだけが気付いていた事であった。



「ティラールさま……」

 自室の寝台に身を投げ出したフィリアは、枕を涙で濡らしていた。いくらその場の雰囲気で歯の浮くような世辞に笑顔で返せても、ティラールの心はその場にいないユーリンダの元へ飛んでいた事くらい、特に敏感な訳ではない彼女にも容易に察せられた。こうなる事は半分解っていたのに、望みをかけて、少しでも傍にいたくて、彼女は船遊びに行った。もしかしたら振り向いてくれるかも知れない、或いはいっそ幻滅する程にユーリンダに夢中な様を見れば諦めもつくかも知れない……色々な想いを抱いていたが、結局この夜に得たものは、益々に焦がれひりつくような、満たされない想いだけ。どうして、昨日逢ったばかりのひとにこんな気持ちを抱けるのか、自分でもわからない。要するに、彼女は典型的な初な箱入り娘で、ティラールがたまたま、幼い頃から夢見てきた貴公子を具現化したような姿や立ち居振る舞いであったという事ではあるが、火がついたばかりの恋の熱は、そんな理屈がわかろうとわかるまいと、その苦しさに大差はなかった。

 だが、いま、深く浸っていた想いから、ふっと現実に返されるような物音に唐突に彼女は気付いた。どこかで誰かが泣き叫ぶような声が微かに聞こえる。気味が悪くなって、彼女は涙を拭いてそっと廊下に出た。泣き声は廊下の向こうから洩れてくる。そちらへ行こうとしたフィリアの袖をそっと引いたのは、彼女の護衛を長く務める、気心の知れた女騎士のセシルだった。

「行かれない方がよろしいかと……」

「なぜ? あちらはお母さまのお部屋のほう……お母さまなの、まさか? 何か怖ろしい不幸があったんじゃないでしょうね?!」

 セシルは首を横に振る。

「私も姫さまに同行していましたから、よくは分からないのですが、とにかく別に悪い事はないようなのです。誰も部屋に近寄るな、とのお言いつけで、執事が皆を遠ざけていますから、あの事は館の者は誰も気付いておりません」

「まぁ、お母さまが何かお悲しみならば、私、お慰めしなければ」

 ふと、エーリク・グリンサム公の事を思い出す。もしかして、昨夜病で倒れた幼馴染みが、亡くなったとの秘かな報せでもあったのだろうか、と彼女は考えた。しかしセシルは、

「元々、今宵はルーン公殿下とご会食のご予定でしたが、それが急にお越しになれないとのお報せで、それから急に御気色悪しくなられたとか……。大丈夫ですよ、お母さまはお疲れなだけだと、執事が言っていましたから」

「そう……ならいいのだけど。なんて夜でしょう。これ以上悪い事がなければいいのだけれど。ユーリンダは体調がまだ悪いみたいだし……」

 フィリアは首を傾げた。ルーン公との会食の延期が、母のこれ程の嘆きに繋がるとは全く考えられなかった。やはり母は、ルーン公と同じ幼馴染みのグリンサム公の病状を慮って、この所の疲れから、いつもの気丈さが崩れてしまったのだろうか、と考えた。一晩眠れば休まるかも知れない。グリンサム公も快方に向かえば良いのだけれど……と。



 様々な思いが巡る王都の夜の空、ルーン公邸では、アルフォンスとアトラウスが窓辺から乗り出し、暗闇を透かし下を見ながら、必死でユーリンダの名を呼び続けていた。

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