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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第三部・婚約篇
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22・実行

 侍女を室内に入れずに扉の所で待っていたのはアトラウスの計画の内だったが、そのおかげで彼は、室内にいたままでは気付かなかったであろう、人の僅かな気配を捉える事が出来た。隣室は準備室でこの時間に誰も使用していない事は確認済みだったのに、誰かがいる。エクリティスは、アルフォンスの心配が現実化する可能性は低いと思っていたので、意識的ではなかったが本気で気配を絶ってはいなかったのだ。身動きせずに隠れていたのはむしろ、想い合う可愛らしい二人の静かな夕べを邪魔したくない、という配慮の方が強かった。勿論、何かが起こればあるじの命に従い、二人を引き離すつもりではあったが。

(まずいな……監視されていたのか。この気配は……団長か?)

 やはり伯父は自分を警戒していたのか、と思ったが、それ自体は別段嘆くような事ではない。結婚前の娘の身を案ずるのは父親として当然の事だ。むしろ自分の考えを読まれてしまった事が愉快ではなかった。ティラール・バロックの出現によって、やはり伯父は慎重になっている。

 アトラウスは素早く計画を練り直しながらも、ユーリンダに背を向けている間に彼女のカップに一瞬で薬を混ぜた。とにかく、もう引き返すつもりはない。

 アルフォンスの意図を知った事で、ユーリンダが運ばれてきたカップを手にしながら、はにかみつつ話した事にも、もう心は動かなかった。

「あのね、アトラ。話があるって言ったでしょう……。そのぅ……それはね、今朝お父さまとお話ししたんだけども、ね」

「うん? 何を?」

「アトラは今朝……私を好きだって、言ってくれたわよね?」

「うん」

 アトラウスは考え事を一旦中断し、カップを持ったまま、まだ茶を口にせずに真っ赤になって顔を伏せているユーリンダを見た。

 花も恥じらう乙女とはよく言ったもの、恋の喜びに満ちあふれたユーリンダは、いつにも増して輝き出しそうな程に美しかった。ティラールでなくともどんな男でも、思いつく限りの、彼女の外見、仕草への賛辞を口にせずにはいられなかっただろう。

(この花をあんな奴に渡すものか)

 アトラウスの胸中を昏い想いがよぎる。この花は自分だけの花。幼い頃からずっと彼女を見つめ続けて来た自分にこそ、花を手折る権利がある。手折られた花は、愛欲という水を得て一層美しく咲き誇るだろう。

 アトラウスに見つめられたユーリンダは、益々赤くなりながら、

「でも、ティラール様がいるから結婚は出来ないって……」

「うん」

 アトラウスが沈んだ声を出すと、ユーリンダはぱっと顔を上げ、明るく言った。

「違うのよ、それはアトラの思い込みなの」

「思い込み……?」

「そうよ、お父さまは仰ったわ。私が誰と結婚したいか解っているし、その願いを叶えてやりたい、って!」

 アルフォンスは、『出来れば叶えたいと思っている』と言ったのだが、『出来れば』の部分はユーリンダの頭の中からは消え去ってしまっている。

 アトラウスは、ユーリンダの言葉を鵜呑みにはしなかった。おおかた、ユーリンダがあまりにしょげかえっていたので、軽く慰めのつもりで言った言葉を、彼女が自分の都合のよいように解釈したのだろう、と思った。こんな大事なことを、そんなに簡単に決められる訳もないし、そもそも伯父がその時点で、今朝がたティラールがユーリンダに求愛した事を知っていたのかどうかも怪しい。

 だがアトラウスはその言葉を聞くと、いかにも希望を与えられた人に見えるような表情を浮かべて立ち上がった。

「ほんとうかい、ユーリィ?!」

「ええ、勿論よ。だから何も心配いらないわ。だから、私たちの思い出だってこれからたくさん……」

 立ち上がったアトラウスが、テーブルを回ってすっと隣に座り、ユーリンダは言葉を切った。アトラウスはそうっと彼女を抱擁したのだ。

「あの……あの……アトラ……」

 ユーリンダは舞い上がって、何を言おうとしたのかも忘れてしまった。昨日まではただ、アトラと舞踏会で踊る事で頭がいっぱいだった。素晴らしかったその時が過ぎたら、朝が来ていきなり夢に見ていた愛の告白をされた。そして今、愛しい愛しい人から初めて抱きしめられた。柔らかく、壊れ物に触れるかのような怖々とした感じの抱擁ではあったけれども。

「僕のものになってくれるの、ユーリンダ?」

 ユーリンダは、この言葉を、将来の花嫁、という意味に受け取った。

「もちろん、もちろんよ! ああ、夢のようだわ!」

 ユーリンダはアトラウスの胸に顔を埋めた。幸せ過ぎて涙が出て、きっとおかしな顔をしている、と彼女は思う。アトラウスはユーリンダの黄金色の髪をそっと撫で、静かに顔を上げさせた。恋しいひとの知的な深い黒のひとみが、間近にあった。もしかしたら、くちづけをされるのだろうか、とユーリンダは益々胸の鼓動を速める。王子と王女の物語では、愛を認め合ったふたりは大抵そうするものだと思い出す。だが、アトラウスはただ優しい声で、

「落ち着いて。お茶を飲んでゆっくり話そう」

 と、ユーリンダの膝の上で傾きかけていたティーカップを持ち直させただけだったので、彼女は僅かにがっかりしたものの、元々幸福感で溢れんばかりであったので、特に気にもせずに、

「そうね、ありがとう」

 と言って、からからに乾いた喉をぬるくなった紅茶で湿らせた。

「…………」

 カップの半分ほどを一気に飲んでしまい、ユーリンダはそれをテーブルの上に置く。アトラウスはじっと彼女の様子を観察していた。隣室のエクリティスの事が気にはなるが、こうなったら、いっそ事を大きくしてしまった方がいいかも知れない、とも考えた。

 ほんの数呼吸のあいだに、ユーリンダの息が乱れ始めた。どんなおとめであろうと決して抗えぬ、という折り紙付きの媚薬の効果が現れ始めた、とアトラウスは思った。

「アトラ……なんだか急に私、気分が……。どうしたのかしら? 嬉しすぎてわたし、おかしくなったのかしら?」

 彼女の頬は上気し、額は汗ばんでいる。胸を押さえ、苦しげに彼女は不調を訴えた。心配ないと判ってはいたものの、アトラウスは表情を強ばらせて、

「どうしたんだい? 大丈夫かい、まだ昨夜倒れた影響が?」

 とよろめき倒れそうな彼女を支える。

「アトラ……なんだかおかしな気分……。だいじょうぶ、悪い気分じゃないの。だけど……」

 見上げるユーリンダの黄金色の瞳は熱っぽく潤んでいる。

「暑い……」

 見慣れた、幼女のようないとけない輝きの代わりに、そこには女がいる、とアトラウスは思った。そして同時に、やや幻滅した。自分がやった事の結果であるのに。この薬は、『数十年前に、時の大神官を堕落させた』という話がある程強力なものであるのに、

(次期聖炎の神子、穢れなき乙女も、あんな粉でどうにでもなるものなのか)

 という理不尽な思いを持たずにはいられなかったのだ。この後、彼女は傍にいる異性を求めてくるだろう。彼女を自分の元につなぎ止めておく為に薬を盛った、卑怯な手段は効を奏した。思い通りに事が運んでいるのに、何故か彼は苛立ちを感じた。

(違う……こんなようでは、多分明日、ユーリンダは自分が何をしたのかも覚えていないだろう。僕が欲したのは、こんな形じゃなかった……)

 今じゃなかった。もっと先だった。なのに、ティラール・バロックのせいで何もかもが滅茶苦茶になってしまった。でも、こうするしかなかった……。

 だが、ユーリンダは、アトラウスが想像していなかった行動をとった。彼の予定では、彼女はもっと彼に密着してくる筈であったのに、

「暑い……」

と言って彼女はふらりと立ち上がり、窓を開けたのだ。立ち上がる時、よろめいて彼女は高価なティーカップを床に落として割ってしまったが、それに気付いた風もない。開け放たれた窓から、澱んだ室内の空気を清めるかのように、新鮮な空気が入ってくる。

「ああ、気持ちがいいわ……」

 風に髪を嬲られてユーリンダは火照った顔で呟いた。

「ユーリンダ!」

 アトラウスは思わず叫び、彼女へ駆け寄った。ユーリンダの身体が力を失い、窓枠にもたれた身体はゆっくりと床へ崩折れた。抱きとめる事にアトラウスは間に合わなかった。がたんと音を立てて、気を失ったユーリンダは床に倒れた。

「ユーリンダ、どうしたんだ?!」

 

「ユーリンダさま! アトラウスさま!」

 室の扉が激しく叩かれる。エクリティスの声だ。ユーリンダが倒れる音を聞いたのだろう。元々、彼に気付かれずにことに及ぶのはここでは無理とは思っていたが、いきなりの事でアトラウスは瞬時対応に戸惑う。だが、無視をする訳にもいかない。

「団長閣下?! ユーリンダが急に……!」

 彼は焦った様子を見せながら施錠していた扉を開けた。エクリティスが風のように飛び込んでくる。

「ユーリンダさま! アトラウスさま、これはいったい?」

「解らないのです……話をしていたら、急に倒れてしまって。昨夜の影響が思ったより身体に残っていたのかも知れない。まだ、ゆっくり横になっていた方がよかったのかも」

「呼吸が荒い。お胸が苦しそうだ。医師を呼びましょうか」

「……」

 アトラウスは瞬時に考えを巡らせた。

「団長閣下、もしかしたら、昨夜と同じように、預言が下りるのかも知れない。だとしたら、その辺の医師には聞かせられない」

「ですが……」

「取りあえず、彼女の寝台に運びましょう。少し様子を見て、本当に身体の不調だと判れば、医師を……」

「そ、そうですね。湯を沸かさせ、薬湯をお持ちしましょう。もうアルフォンスさまも戻られるかも知れません」

「閣下、申し訳ないが、伯父上を迎えに行って頂けませんか。彼女の看病は僕が責任を持ちますから」

 そう言うと、アトラウスは気を失ったユーリンダを抱え上げた。彼女の体質には、薬が強すぎたのだろう。稀にこのように暫し拒否反応を起こす者がいるとは聞いた事がある。だが、副作用で命に危険があった、という話はついぞ聞いた事がない。すぐに目を覚ますだろうし、そうなれば後は最初の計画通りにいく筈だ。これは邪魔なエクリティスを追い払う格好のハプニングだ、とアトラウスは思った。寝台に運び、人を遠ざけてしまえば、想いは達せられる筈。

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