15・控えの間にて
午餐会の支度は、昨夜の大広間よりは小規模な第二広間――通称オルスの間――に調えられていた。初夜を無事に済ませた新国王夫妻を囲む午餐会に参加できる名誉は、昨晩の大宴会と異なり、限られた人々だけであったから、そちらの方がそぐっていたのだ。
大広間より狭いというだけで、こちらの広間も豪奢な事では大広間に劣らない。戦神オルスをメインのモチーフにしつつも、オルスから名を与えられたと伝わる初代国王オルシウスの数々の武勲や偉業を絵物語として詳細に描き込んだ天井画がまず人の目をひきつける。調度品も、オルシウスが愛したと言われるグリム産の精微な銀細工が広間中に計算され尽くした配置で張り巡らされており、黄金の豪奢さにも劣らぬ美を人の胸に深く刻み込む。玉座もまた純銀でものされているが、たまにしか使われないこれの為に毎日専用の係が丹念に磨き上げているおかげで、オルシウスが愛用していたというこの玉座に経年劣化を感じさせる黒ずみは全くなく、燭台の灯りを反射していつもぴかぴか輝くようだった。
出席者は重要な王族と国賓、そして大貴族のみ、およそ三十数名である。大神官は、しきたり通りに、新国王夫妻の安寧な今後の暮らしを祈願する祭儀に入っており、この場にはいない。宰相は国王夫妻に付き添っている筈である。アランの来訪のせいで時間をとられたアルフォンスが控えの間に通された時には、他の客はもう揃っていた。勿論、定められた刻限にはまだ間があった。
「アルフォンス! 起きられてないのではないかと心配したわ。いつも時間に気をつけているあなたが中々姿を見せないから」
そう言って寄ってきたのはスザナである。確かにアルフォンスはこうした会合では常に二~三番目以内に到着できるよう気をつけていた。このような場で、皆が揃うまで待つ事は決して時間の浪費ではない。自然な形で要人が少人数集まっているような機会においては、たまに会話の端から大きな収穫を得られる事があるからだ。
スザナは鮮やかな緑地に虹色に煌めく絹糸の刺繍を施された美しいドレス姿で、赤毛を幾重にもカールして垂らし、二十代の美女のように見えた。寝不足である筈だが、丹念な化粧の効果か、目の下にくまが出来た様子もない。
「ありがとう。寝過ごしたりする訳がないよ」
微笑して答えたアルフォンスだったが、ふと、昨晩皆の前で、彼女と夜を過ごすような素振りを、仕方なくとはいえ見せた事を思い出し、この様子がどう見えるだろうかとやや戸惑う。ハハッと冷やかしを込めたように笑ったのは、シャサール・バロックである。他の大貴族は昨夜と異なって家族は招待されていなかったが、宰相の長男で王妃の父であるこの男は別格であるらしかった。昨夜恥をかかされた借りを返す機会を狙っているらしく、その目は冷たく、笑いの欠片もない。だが流石に、国賓も談笑しているこの場で下品な言葉や明らかな挑発行為が出来よう筈もなかった。だから彼はせめてもの嫌みとばかりに、如何にも友好的に見える、気安くからかうような笑みを浮かべて、
「昨夜はさぞ遅くまで楽しい夜を過ごされたんでしょうな……お二人で」
とアルフォンスとスザナを座ったまま見上げながら言ったのだった。
シャサールの言葉は、それぞれ数人ずつに分かれて談笑していたその場の人々皆の耳に入った。呆れたように吐息をついたのは昨夜諫めたばかりのラングレイ老公である。リッター・ブルーブランの唇には、苦笑が浮かんで消えた。彼は一晩中アルフォンスとスザナの二人と一緒だったからだ。だが、それ以外の人々は、おや、という様子で一斉にアルフォンスとスザナを見た。昨夜の宴会のなかで起きたシャサールとアルフォンスの諍いの事は今のところ特段噂にもなっていない。シャサールの優秀な補佐役ハウンドが、その場にいたシャサールの取り巻きに箝口令を敷いた事が大きい。いずれは誰かの口から洩れるとしても、昨日の今日では、まだ広まりようもなかった。
一方、広間の真ん中で、獲物を狙う獣のごとくアルフォンスの周囲に集まっていた貴婦人たちとスザナのやりとりを目にしたり後から聞いたりしていた者は幾人もいた。華やかで目立っていたし、宮廷の人々の好む類いの最高のゴシップだからだ。しかし、この話を本気にしていた者は殆どいなかった。アルフォンスとスザナが親しい友人同士である事はよく知られていたし、アルフォンスの愛妻家ぶりも有名である。万が一浮気をするとしてもあんな場で堂々と公言する筈がない。二人の公爵の座興だったのだろうと……その場では騙された貴婦人たちでさえ、普段は凛々しい男装のローズナー女公の艶姿に戸惑って判断力を欠いてしまったのだと、後から悔やんでいたものだったのだ。
だから、人々が不審に思ったのは、シャサールの言葉ではない。アルフォンスとスザナの反応だった。アルフォンスは一瞬返答に窮してしまったのだ。むろん、やましさや気恥ずかしさからなどではない。昨夜の件を果たして宰相はどこまで知っているのか、という懸念に囚われていたので、不意に、本当にスザナと一緒にいた事を――勿論二人きりではないが――宰相は知っていて、その情報を嫡男シャサールも共有しているのでは、と思いついたからだ。しかしすぐに、この軽はずみな息子にそんな事を宰相がいちはやく話す筈もないし、何より、もし真実をある程度知っているのなら、わざわざこんな場で公言する訳はない、と思い直し、
「少し遅くまで庭園で踊ったり、昔話をしたりしていましたが、寝過ごす程遅くはありませんよ」
と無難に返した。
一瞬の間を不審に思った者がいたとしても、この返しで取りあえず終わる筈だった。二人がその身分も普段の歳相応の落ち着きも忘れたように、無分別な若者のごとくはすっぱに庭園で踊っていたのは多くの人が見ていた。様々な憂いごとをいっとき忘れたいという思いが二人をそうさせたのだが、その様子があまりに絵になっていたので、かえって、祝い事に華を添えた、と殆どの客が好意的に受け止めていた。
だが、スザナはアルフォンスに調子を合わせなかった。
「まぁ、嫌ですわ、シャサール。夜明け前に別れたからこそ、心配していましたのに。そんな仰りようは、カレリンダに申し訳ないですわ」
「夜明け前?」
シャサールの方が思わず意外そうに問い返した。
「スザナ……?」
アルフォンスもまた驚いて彼女の顔を見たが、スザナは微笑を崩さずシャサールの方に顔を向けている。確かに別れたのは夜明け前に違いないが、そんな事を言う必要はどこにもないし、シャサールの悔し紛れの冗談を肯定しているようにしか聞こえない。夜半に二人とも別々に宴から退席しているのは皆知っている。その後で再び男女が出会って夜明け前まで一緒にいたとはっきり口にするとは……。
「何も言わないで、アルフォンス」
スザナはシャサールを見据えたまま、アルフォンスにしか聞こえないような小声で、
「昨夜の行動は、人に知られてはまずいんでしょ。だったらいっそ、そんな陰謀とは無縁に、酔っ払って羽目を外した事にでもしてしまえばいいわ」
何度も瞬きしながら口早に囁く。
「しかし……」
「もしもカレリンダの耳に入ったら、わたくしから事情を説明してあげたっていいわよ。あなたって、そんなに自分の妃が怖いの?」
「そういう問題じゃないよ!」
醜聞も愉快な事ではないが、カレリンダについては、訳を話せば信じてくれると思う。それよりも、もし宰相が聞いたなら、疑いを持つに決まっている。よりによって親友のエーリクが亡くなった夜に、スザナと関係を結ぶ筈もないと。そんな嘘をつくには、スザナもまた、何か事情を知っているのでは、と宰相に勘ぐられる羽目になる。『ヴィーンの闇』に目をつけられただけでも手一杯なのに、更に面倒事を引き寄せるだけだ。
だが、その場の多くの人々は、声を潜めて言い合っている二人を、意外そうに、面白そうに眺めている。宴席ではないので、誰も二人のプライバシーに関わる問題について口を挟んでくるようなはしたない真似はしないが、内心では興味深く感じている筈である。
いっぽう、国賓たちは、二人の為人や関係についてよく知っている訳ではない。殆どが無関心なふうであったが、不義には厳しい処罰が与えられるというベイロン神聖国の大使などは、信じられないという表情を隠そうともしなかった。元々、ベイロンでは女性の地位が低く、爵位を継ぐ事も許されない。慎ましく男性より一歩下がっているのが必要な美徳とされ、女性が国の重鎮のひとりであるという事も彼らの価値観からは理解しがたい事であったのに、更にその女性がこのように、既婚男性と朝までいたと恥ずかしげもなく口にするとは……。大使はなじるような視線をアルフォンスにも向けてきた。ルルアに愛されし一族の長として昨日までは一目置かれていたのに、不徳な輩と見なされてしまったのか、とアルフォンスは内心苦笑するしかなかった。そもそもベイロンでは古来から、ルルアより更に上位の『古の大神』を崇めている。スザナの余計な機転がまさか国際問題に発展する筈はないだろうが、ヴェルサリアの七本柱が、少なくともこの大使に悪印象を与えたのは間違いなく、困った事だと思った。
しかし勿論、このやりとりのきっかけを作った張本人のシャサールは、そんな事にまで気を回す訳もなかった。彼は、スザナがあっさり認めるとは……というより、まさか本当に二人がそういう仲であるとは思っていなかったので、自分で言い出しておきながら、スザナの返答の意味がすぐに解らずにぽかんとした表情を浮かべたが、やがてにやにやして、
「なんだそうだったのか。それで昨夜はあんなに怒ったのか。申し訳なかった、スザナを若作りなどと言って。あれは、美しいスザナを連れ出そうとしている事への嫉妬心から出た言葉。お許し願えますかな、スザナ?」
「もちろん、わたくしは最初から怒ってなんかいませんわ。ねえアルフォンス、だけどあなたがあんなに怒ってくれたのは嬉しかったわ」
アルフォンスは、この茶番でどう答えるべきか、半ば苛々しつつ迷っていた。そうだと応じるのも問題だが、スザナに恥をかかせたくはない。
だがこの時、広間に通じる大扉が開き、宰相が自ら入って来て、国王夫妻の準備が整ったので広間へどうぞ、と一同を誘導したので話は打ち切りとなり、この時ばかりは宰相に助けられた、とアルフォンスは妙な気分で有り難く思った。




