14・父親の悩み
アルフォンスは、廊下を歩きながらエクリティスに手短に、『今夜、頼みたい事』の内容を説明した。
「騎士団長にこんな事を頼むなんておかしな事だが、他の者に軽々しく言う訳にもいかないしな。ファルがいてくれればそれで良かったんだが、船遊びの客人の相手をして貰わないといけないからな」
「私は別に構いませんが、そのようなこと……もしもユーリンダ様に知れたらお怒りになるでしょうね」
「仕方がない。そなたのせいではないとちゃんと言って聞かせるさ。勿論、何も起こらなければ気づきもしないだろうし。まあ何もないだろうとは思っているが……心配しすぎだろうか? これまでにだって、二人きりになった事はいくらもあるのだし……」
「いえ、確かに、これまでとは少し状況が違うのだという事は今のお話で解りました。恋愛沙汰などと無縁な私でも、アトラウス様のお気持ちを考えると……いえ、無理な事をなさる方ではないとは充分存じてはおりますが」
アルフォンスは、今夜アトラウスとユーリンダが二人で過ごすと聞いて、アトラウスが万一娘に手を出すような事がないか、隣の部屋で様子を窺っていて欲しいと言ったのである。二人で過ごすと言っても、夕刻だし、この館の中であり、密室という訳でもない。きょうだい同然に育った間柄であるから、年頃の男女二人がそうやってたまに、話をしたり楽器を演奏したりして過ごしているのをアルフォンスは黙認してきた。息子のファルシスと違って生真面目なアトラウスを信用して、という部分が大きかった。だが、先程のユーリンダの言動は、アトラウスが彼女に涙を零させるような事を言ったとしか考えられない。何しろ解りやすい娘である。最初は、何故急にそこまで、と思ったが、今朝方ティラール・バロックがユーリンダを訪ねてきたと聞いて、概ね繋がった気がした。アトラウスは、自分はユーリンダの結婚相手としてティラールに敵わない、と言ったのだろう。我が子同然に目をかけて育ててきた甥だが、父親のカルシスには似ずにファルシスと同等の優秀な資質を備えていながら、その生い立ちと外見に対する劣等感が目立ち、万事控えめなのが玉に瑕だと思っていた。
(劣等感か……)
カルシスもいつも劣等感を抱えていた。それだけが父子の共通点かも知れないと感じる。但し、カルシスは、自分に見合った能力を活かせる境遇にいたのに何の努力もせずにただ兄を妬んでいただけだったのに対し、アトラウスは、自身のせいではない事で心に大きな疵を負い、それでも亡き母の願いを叶えようとしているかのように――一切そんな事は彼は口に出さなかったが――常に自分の力を磨こうと邁進していた。
アルフォンスにとってアトラウスは、我が子同然に思ってはいても、我が子ではない。兄妹で結婚する事は出来ないが、従兄妹同士ならば出来る。ユーリンダの幼い恋慕に気付いてからずっと、アトラウスは大事な娘を託すのに相応しい男に育つのか、という目で見てきた事も否定できない。そしてアトラウスは、文武の才に長けた立派な若者に成長した。世間知らずで優しく幼げなユーリンダの理想の夫になれるだろう、とアルフォンスにもカレリンダにも思わせるような、穏やかで優しく理知的な若者に。そして、誰が見ても、他の貴族の女性には目もくれず、ユーリンダだけを見つめているようだった。黄金色を持たずとも彼はルーン公の甥であり、端正な容姿と優れた能力、そして非の打ち所のない紳士的な物腰を持っており、彼自身が抱えている劣等感など吹き飛ばせる位に、美しく家柄の良い幾人もの娘たちから言い寄られているらしいが、その誰とも距離を詰める気配すらない。幼かった自分に寄り添ってくれた従妹への一途な想い……だからこそ、ティラールにユーリンダを奪われると絶望した彼が、今までと違う行動に出るのでは、と思うのは、考えすぎだろうか……。
『きみが誰と結婚したいと思っているのか、わたしは解っているつもりだ。そして、出来ればきみの願いを叶えたいと思っているよ』
あの言葉を聞いた時の娘の嬉しそうな顔。しかし、アルフォンスは、ティラール・バロックという若者の事をよく知らない。ティラールが本気でユーリンダに求婚する気で、それを父親の宰相が許すならば、事情は全く変わってくる。ただユーリンダの美しさにひととき惑わされているだけで、彼女の単純思考にすぐに飽きて浮気ばかりするような男ならば、いくら宰相の申し入れでも断るつもりだが、初恋の相手を上回る程の愛情を注いで娘を幸せにしてくれる可能性があるなら、今や権勢を欲しいままに振るえる立場にある宰相の申し入れを無下に断る訳にもいかない。王太子妃候補を固辞した時とは場合が違う。他にも大勢の希望者がいたし、田舎育ちだからと、あくまで『謙虚』で通せたが、まさかティラールの妃が務まらないとは言えないからだ。しかし、ユーリンダにはそんな理屈は通じないだろう……。
(とにかく、ティラール殿の為人を見極めてからの話だ。出来ればアトラにそれを伝えておきたいものだが)
身分や立場だけで娘の結婚相手を決める気はないと。だが、午餐会の時間が迫っており、甥を呼んで話す暇はなかった。どちらにせよ、今日明日に決まる話でもないし、とも思う。だが、恋に溺れ悲愴な思いに囚われた若者は、いくら優れていても、時には驚くような無分別な行動をとるものだと、自身の経験から知っている。自分は随分無茶をしたのに、甥にはそうして欲しくないというのも勝手なものだが、そこはやはり愛娘への気持ちが勝つ。アトラウスかティラールか、どちらか決まらぬうちに娘を傷物にされてはいけないという現実的な事情もそこにはあるが、恋の渦に溺れた男が心から相手を求めた時に何をするのか、おとぎ話の子どもっぽいキスくらいしか知らず、自分の望まぬ事など無理強いする筈もないと愛しい人を信じているであろう娘の気持ちを壊したくないという思いが強い。
(わたしとカレリンダは、まるでルルアに導かれたかのように強く惹かれ合い、彼女を得られぬのならばいっそ死んだ方がましだとさえ思ったものだ。だが、その想いが、誰をも傷つけたくなかったのに、シルヴィアを無惨な死に追いやってしまった。もしも、カレリンダと恋に落ちた時点で、シルヴィアの結末を知っていたならば、カレリンダを選ぶ事はわたしには出来なかっただろう……)
だが皮肉な運命は、そのシルヴィアの息子と自分の娘を引き寄せて、再び決断を迫っている。
(なぜ、平民よりも恵まれた環境と羨まれる王族貴族には自由な結婚が許されないのか。平民でも富商などではやはり親の都合で婚約が成り立つというし……。物質的に恵まれた幼少期を送る代償なのか? しかしそれは本人が選べるものではない)
午餐会の支度に着替えをしながらもアルフォンスの心は世の習いについて今更過ぎる疑問を巡らせていた。
(大貴族の娘は家の為に嫁ぐもの。余程ひどい夫でなければ、子宝に恵まれたなら穏やかな幸せのある日々を送れる筈。多くはそれまでに恋を経験するだろうが、それは子どもの頃の淡い夢と流して……)
カレリンダと不意に間近で出会ったあの夜さえなければ、自分もそうしてシルヴィアとゆったりとした家庭を持っていた筈。初恋――カレリンダに出会うより以前、森で出会った美しい妖精のような娘――は、子どもの頃に拾って宝物として大事にしまっていた、今はもうどこにあるか分からない、美しい虫の羽のようなものだ。
小姓が、今日の午餐会の為に選んでおいた衣装を引き締まった身体に纏わせてゆく。日頃の鍛錬を怠らずにいるので、まだ二十代前半と言って充分通じるような身体に、特上の緑色の絹の胴衣、微細な彫りの黄金の胸飾り、黒貂の毛皮が裏打ちされた上衣を着せかけられる。無駄な出費を厭うアルフォンスはなるべく父親から受け継いだもので過ごすようにしているが、どうしても趣味の合わないものは細かく手直しさせた。過度な自尊心は持っていないつもりだが、美意識を低く見られるのも不快なのだ。ルーン公爵の爵位を示す勲章が常より重く感じられるのは、娘の結婚に煩わされているせいではなく、単に疲れているからだろう。
(疲れ、感傷……そうだ、全ては個人的な感傷に過ぎない。エーリクの事や色々あったせいで。わたしは娘の父親である以前に、ルーン公として、まず第一にルーン家の益を考えねばならないのに、何を子どもじみた考えに囚われているのか。貴族の長としての責務は一族を守り繁栄させる事にあるというのに。勿論ユーリンダに幸せな人生を送らせる事もわたしの責務ではあるが、アトラウスと結婚させる事だけがあの娘の幸福とは限らない。どうも、わたしは自分の体験を子ども達に当てはめて考えすぎているようだ。少なくとも、王妃となって王宮で暮らすよりは、アルマヴィラにティラール殿を迎えて聖炎の神子として生きる方があの娘にはましな筈……)
そこまで考えて、アルフォンスは溜息をつき、軽く頭を振った。留めかけていた黄金の額飾りが外れそうになり、小姓が慌ててそれを押さえる。
「すまん」
アルフォンスは苦笑した。
(まだ正式に求婚された訳でもないのに、わたしも親ばかだな。宰相閣下だって、既に末息子の相手候補は幾人か心中におありだろう。次期聖炎の神子であるユーリンダとバロック家の四男であるティラール殿との婚姻は、彼がルーン家の婿養子になってくれる事が絶対条件だし、いくら本人が願ったとしても、そこをすんなりと宰相閣下が受け入れるとも思えない。まだ時間はあるのだから、アトラがどう考えているのか明日にでも話し合って、もしもわたしさえ許せば是非に、と思っているのなら、さっさと婚約を整えてしまえば何とかなるだろう)
そう思い、気持ちを切り替える事にする。
(それより今日はまた、エーリクの事を聞かれるのだろう。昨夜の話で納得されていないのならば、何か話を考えておかねば……)
わざわざ、午餐会の後に話を、と使者を送ってきた位であるから、もしかしたら、あの王宮騎士団長が既に何らかの推測を宰相に話していて、そのおかしな話の中から鋭い宰相は何か別のものを探り当てたのかも知れない。刺客がアルマヴィラ人であったという点をあまり突っ込まれると困る事ではある。
(だが、真実は絶対に知られてはならない……宰相閣下ご自身の為にも、全てを一人で抱え込んで死んでいったエーリクの為にも)
と、アルフォンスは改めて気を引き締めた。




