26・案内人
空は青く晴れ渡り、祝福の鐘や音楽が絶えず聖都に響き渡っていた。聖都アルマヴィラを護る外壁にぐるりと灯る、聖炎の神子が生み出す聖炎も、常より清らかで力強く温かげに見えた。
ルルア大祭! 王国を護ってくれる主神へ大神殿より感謝と大いなる祈りが捧げられるこの行事は、神殿関係者や、都警護団そして勿論その要である領主にとっては、ただただ慌ただしく、楽しむゆとりなど欠片もなかったが、民草にとっては待ちかねた一大行事だった。祝い酒が振る舞われ、日ごろは、治安は格段に良くとも、他の公爵領首都に比べ落ち着いた佇まいである大通りが、賑々しく祭りの屋台で埋め尽くされる。子どもたちはポケットに砂糖菓子を詰め込み、ザッカーチャという蜂蜜を練り込んだ焼き菓子を頬張りながら走り回る。大人たちは昼から麦酒を呷ってアチャ(串焼き肉)にかぶりつきながら、気ままに歌ったり楽しそうに大声で議論したりする。普段は清潔そのものの通りは、食べこぼしやごみが散らかっていたが、そうしたものを片づけるのも警護団員の仕事だった。
神殿では日中も夜中も絶えず神事が行われ、その祝福にあやかろうとする参拝客で神殿前広場はごった返しているが、既に参拝を終えて祝福の印を受けた者たちは、祭りを楽しもうと、呑んで浮かれて表通りを埋め尽くす。色とりどりの花々が撒かれ、この時の為に集まった流れ者の見世物師や楽団、踊り娘一座があちこちでやんやともてはやされる。ご祝儀の小銭が飛ぶ。どこへ行っても楽し気な音楽が耳に入る。
人々の財布の紐は緩くなり、アルマヴィラの経済に貢献してくれる。勿論、この隙にと、すりが駆け回る。酔って暴れる者もいる。警護団は大忙しだ。
カレリンダは無論、神殿に詰めっぱなしであるし、次期聖炎の神子であるユーリンダも母に添ってその術を教わっている。アトラウスは聖炎騎士として警護団と共に都の警護に精を出している筈である。ファルシスは領主の嫡子として、アルフォンスが捌ききれぬ客の相手をしている。
宵になって花火が上がり始めた頃、ふっとアルフォンスの時間が空いた。これまで何十人も、挨拶したい客が並んでいたというのに、気づけばその全ての相手をこなし終えていた。こうした経験は今までにもある。勿論、ほんの僅かな時間だ。皆、花火に気を取られているだけで、すぐにまた列が出来る。
今のうちに軽食を、と勧める執事に、食欲はないと断って、アルフォンスは三階のバルコニーに出た。
花火や音楽の賑々しさ、人々の熱気が風と共に漂って来て、かれは民の満足を嬉しく思う。10代前半の頃には、品行方正な公子がふと羽目を外したくなって、エクリティスだけを伴ってフードを被って祭りに混じってみた事もあった。誰も自分を特別扱いせずに、「坊や、これ喰っていきな!」と屋台の男に声をかけられるのもとても気分が良かった。素敵な女の子に気軽に声をかけてみるのも――少年の頃のかれは別段奥手ではなかった――良かった。ただ、フードを外して顔を見せる訳にはいかない。あの時ほど、自分の特異な風貌を恨めしく思った時もなかったな、とふと思い出してかれは微笑する。フードで顔を覆った怪しげな公子よりも、その従者であるエクリティスの方が余程女の子にもてていた。生粋のアルマヴィラ人らしい黒髪と黒目、そして凛々しい顔立ちとすらりとした背格好……。一緒に歩きましょうよ……陰気なお友達は放っておいてさ……そんな誘いが数多だった。だがエクリティスは生真面目に、『私はこちらの方の供なので、離れる訳にはいきません』と、どんな女の子にも……勇気を出して近づいて来た様子の平凡な女の子にも、はっとする程綺麗な女の子にも、そう言って断っていた。
『行って来いよ? 別に危険はないし。ぼくが悪者みたいじゃないか。おまえは立派なやつで、ぼくは顔をさらけ出す事も出来ない醜いお坊ちゃまだ』
なんという八つ当たり! でも、そんな風に心を曝け出せる相手はエクリティスしかいなかった。実の弟とは不仲だったし、両親には過度の期待ばかりかけられて。完璧であらねばならない、という負荷に普段は耐える事が出来たけれど、祭りの時だけは普通の少年みたいでいられた……。
人生はもうすぐ終わるのかも知れない。誰だって、いつそうなるのか判りはしないけれど、種子の存在は常に悲観的な気分にさせる。でも、このひとときだけは、祭りの喧騒を遠くから眺めて、色々な楽しかったことを思い、愛する妻、大切な子どもたちを得られた幸福を心に刻みたかった。
と、その、数少ない心許せる相手のエクリティスが、背後から近付いてきた。
「どうしたんだ、エク。こんな所にいていいのか」
聖炎騎士団長であるエクリティスも無論、自分の務め……接待や警護に忙しい筈である。なにか、緊急の悪い知らせが……? と思わずアルフォンスは身を固くする。
だがエクリティスは笑み、
「大丈夫です、ルーン公殿下。何事も順調です。時間が空いたので、ご様子を窺いに参っただけですよ」
と言う。
アルフォンスは眉根を寄せた。が、何でもない様子を装って、
「別に何もないよ。ちょっと昔を懐かしんでいただけだ」
かれの感覚はけたたましい警鐘を捉えている。目の前のエクリティスは、普段通りの生真面目な様子で一見しておかしなところなどない。だが……。
「そう、昔のことだ……こんな祭りの賑わいを眺めていると、子どもの頃にそなたと忍びで街に出た時の楽しさを思い出してな。貴族の子と知って、街の女の子たちがわたしにばかり寄ってくるので、そなたは少しつまらなさそうだったが」
「そんな……殿下に嫉妬などする訳がありません。まあ、子どもでしたから、多少は寂しさを感じたりしたのかも知れませんが」
エクリティスは苦笑する。
アルフォンスの額に汗が滲む。そう……確かに、神殿の力は普段より強まっている。だが、このルーン公邸は、その魔道の守護は……カレリンダが大祭の為の聖炎に多くの魔力を注いでいるので、弱まっている筈だ。
「……で、何をしに来た?」
「ですから、ご様子を窺いに……」
「変わりないと言ったろう。さっさといるべき所へ戻ったらどうだ?」
「おや、何かお気に障られましたか?」
常にないような乱暴な話し方に、エクリティスは戸惑ったような表情を浮かべて見せる。
「わたしの知るエクリティスは、勝手に持ち場を離れるような男ではない」
「しかし、たまたま時間が空きましたので……大丈夫です、ちゃんとあとは頼んできましたから」
そう言ってエクリティスはあるじに近づこうとする。
「近寄るな。もう一度言う。いるべき所へ戻れ」
言葉に怒気が籠る。だが、アルフォンスの心中は、怒りというよりも焦りが渦を巻いていた。本当にこのまま戻ってくれれば良いが、そう簡単にいく筈はない。背にしたバルコニーの大理石の手すりを握る手に力が入る。魔導士から身を護る術はない。まさか今とは、と油断していた。このまま敵の手中に落ちるくらいなら、この三階から身を投げた方がよいのではないか、という考えも頭を掠めた。だが、ラクリマは、アルフォンスが死ねば、種子はアルフォンスの身体を支配してしまうだけだと言った……。
「……下にいた者たちは誰も全く不審に思いませんでしたのに……流石はルーン公殿下、とお褒めすべきでしょうか」
《エクリティス》は言った。
「いや、おまえがミスをしなければ、少なくともすぐには気づかなかったろう。人選も良かったな。よくうまく化けたものだ」
「ミス?」
「ああ……エクリティスは、二人でいる時には、子どもの頃と同じように、わたしを『アルフォンスさま』と呼ぶのさ」
「……なるほど。これは勉強不足でしたね」
敵は軽く肩をすくめた。
「まあいい。面倒くさい理由をでっちあげて連れ出す手間が省けるというもの。今の状況がお解りでしたら、黙ってついてきて頂きたい」
「おまえは、あの老魔導士なのか?」
「いえ、師はお忙しい。私はただの案内人に過ぎませぬ。聖炎の神子がご在宅でしたら、そしてこんなに人がごった返していない平時なら、私には入り込む事は出来なかったでしょう。……人を呼んで時間を稼ごうなどとお思いにならないで下さい。殿下以外の人間の命については、何も命令を受けていません。無駄な死人が出るだけです」
「だろうな」
まったく、彼我には力の差があり過ぎる。穢れ、ルルアの約定を無視して魔道を攻撃の手段に用いる輩に対する警戒の手段を、もっと神殿に考えて欲しいものだ。自然に反する力を易々と使う相手には、如何なる強者もかたなしだ。
「わかった。おまえの言う通りにするから、館の者には手を出すな」
「ご理解ありがとうございます。羽虫を殺すにも、手が汚れますからな」
だが。アルフォンスはこの短いやり取りの中で、微かな希望を掴んでいた。相手はかの伝説の大魔導士ではない。だったら……。
(どんな魔道にせよ、為すには印を結ばねばならぬ筈……)
伝説の神子アルマとエルマでさえ二人がかりで封印するのがやっとだったというあの大魔導士でないのなら、どこかに勝機はあるかも知れない。
「では、お出かけのお支度を……」
と、敵は緩やかに促した。絶対の勝利、アルフォンスの身柄の確保が成せると信じて疑いもしない様子だった。




