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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
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24・穢れなさと現実

 痛ましい事件の結末は、深窓の姫君の耳にも届いた。アトラウスの関係者が被害に遭っているということで、ユーリンダも許婚の心痛を思い、普段なら街で起きていることなどそう気に留めないものを、その顛末を気にかけていた。

 気に留めない、というよりも、誰も嫌な事件のことなど彼女の耳に入れない、といった方が正しい。聞けば彼女はその被害者を思い遣って涙する。この世のあらゆる場所は、彼女の知る狭い世界――アルマヴィラの貴族社会と神殿……それもうわべばかりの――と同じように優しさに満ちた(そのうわべでさえも、他の者にとってはそう優しいばかりでもないのだが、ルーン公爵のひとり娘であるばかりに、誰も彼女に世間の厳しさを教えることはなく、この現世も彼女にとってはルルアの国とそう変わらぬのではとひとが知れば思うほどに温かな幸せに満ちていた)ものであるべきなのに、何故ひとが若くして病んだり死んだり殺されたり……する事があっていいだろうか、と悲しみ憤る。そうすると、彼女の周りにいる者は皆、特に父アルフォンスが選び抜いた気性のよい者ばかりなので、この美しく心優しいむすめに悲しい思いをさせたくないと純粋に思う。……のちには皆は、もっとこの世の現実を普通に知っておいたほうが彼女の為になったろう、と思う事になるのだが、この頃までは、何しろユーリンダ・ルーンは国王の信頼も篤い大貴族の一の姫、晴れて長年の恋心も実って従兄との婚約も調った身、このまま憂い事など何も知らぬままに、聖炎の神子として清らかに心優しく美しくその生涯を送るだろう、と疑いも持たずにそう思い込んでいたのだ。

 この事について、母親のカレリンダは、己も箱入り娘として育ち世間をよく知っているとは到底言えないものの、他人の感情には鋭敏な少女であって、大神殿で過ごした思春期には既にひとが阿ってくるには自分への善意ばかりではないと気づいていたし、歳を重ね、聖炎の神子として領主の妻として勤めた分は少なくとも、この世は綺麗ごとばかりではない事は承知している。子どもの頃ならばともかく、もうすぐひとの妻になろうという娘が、こうも現実に疎く他人の悪意に鈍感であるのは問題ではないかと思い、何度か夫と話し合ったこともあったのだが、息子には己を超える器量を持てと時に厳しく臨むアルフォンスが、愛娘に関してばかりは甘い父親で、これは殆ど他にないかれの大きな欠点であったのだが、

『あの娘のこころの美しさはルルアのお与えになった芸術と言ってもいいと思うんだよ。なに、わたしの目の黒い間はわたしが護ってやるし、そのあとは夫のアトラや兄のファルが護ってやるだろう。あの娘には、わたしのように少年期から暗殺されかけたり、実の弟と険悪であったりという煩いごとを知らずに無垢なままでいて欲しいと思うんだよ。そんな嫌なことを知らずとも、あの娘は立派に貴族の姫としてのマナーや教養を備えているじゃないか。恥をかく娘には育っていないよ』

 と言うので、そのまま幼子のように『怖い現実』は殆ど見ずにもうすぐ18歳という身で結婚を待つ身なのであった。


 自分より年若い者から少し年上というくらいの者まで、十数人ものむすめが行方不明になっているという話は、いとしいアトラウスの憂い顔から気になって根掘り葉掘り尋ねて聞き出した。彼女はショックを受けたが、メリッサは自分も知っている可愛い侍女であるし、まさか悪いことなどないだろうと思っていた。

「大丈夫よ、ルルアがお護り下さっているわ、アトラ。ルーン家に仕える者が悪い目に遭う訳ないわ」

 本人は精一杯の心をこめた励ましだったが、アトラウスにとっては何の根拠もなく心を上滑りしてゆくだけの言葉である。それでもアトラウスは彼女の思いやりに応えようと無理に微笑んだ。

 だが、被害者は全て無惨な遺体で見つかったという結末である。彼女は泣いて、メリッサのところへ行って祈りを捧げると言い張ったが、さすがにそれは母も許さなかった。アルフォンスに聞けば、普通の者でも卒倒するかもしれない程の酷さであったというから……勿論、アトラウスも、自分の部屋から祈ってくれればそれだけであの子も安らぐだろうから、と言ってくれた。

 そうして、ユーリンダは無心にメリッサや他の被害者が、ルルアの国で安らいで過ごせますようにと祈る。祈れば叶うと彼女は信じている。だから、祈って、時間が経てば大抵の悲しみは薄れていく。なにもその目で見ない彼女にとって、現実の事件も書物の作り話も実は大差ない。もちろん、街を一人歩きすることなど一生その機会もないと当たり前に受け止めている彼女は、己がそんな目に遭ったらと想像することもない。同じ現世の話でも、自分とは重ならない、ただ他人が残酷な運命に遭ったという事実に、ひとよりも大袈裟にその悲しみを感じ取って己のことのように泣く、それがこの頃のユーリンダ・ルーンという娘であったのだ。そして周囲は、姫さまはなんとお優しく純粋であられるか、と、そのルルアの化身のような美しさも相まって讃える。それで彼女自身も、まさか自分の感じ方がおかしいとは夢にも思わないのであった。


 遺体が見つかりアトラウスが安置所で過ごした次の日、彼がユーリンダを訪ねると、彼女は悲劇の報にその美しい貌を涙で歪めながらも、妙な表情をした。

「アトラ? なんだか……妙な臭いがするわ?」

 アトラウスは苦笑して、

「ごめんよ、しっかり身体を洗って香を焚いたんだけど……まだ遺体の臭いが染みこんでいるのかな。随分長い時間、あの子の傍にいたから」

 と謝る。

「遺体の臭い?」

「うん……殺されて長く放置されていたから、そのう、腐っていたんだよ。肉の腐った臭い……なんてきみは知らないか」

「知らないわ。でも、人間も腐ったりするの……可哀相に」

 ユーリンダはその黄金色の瞳に涙を浮かべ、そっと許婚の頬に触れる。死んだ侍女も可哀相だけれど、愛するアトラがどれだけ悲しんだか……もしもリディアがそんな事になったらどれ程悲しいか……それは想像できるから、アトラの気持ちも解る……そんな思いばかりが彼女のうちにあった。そしてそんな彼女の思いをアトラウスは完全に把握していた。

「ありがとう、ユーリィ……あの子は今はきっとルルアの国で安らいでいると思う。きみも祈ってくれたんだから。次期聖炎の神子が」

「私はまだ見習いだもの、どれだけ効果があるか……でも、メリッサの魂の役に立てたらいいと思ってるわ。だからアトラ、元気を出して、ね? アトラが悲しみに沈んでいたら、メリッサも安らげないと思うの。犯人はきっとお父さまが見つけてこらしめて下さるわ」

 怖い事……悲しい事は嫌。それを愛しいひとにも感じさせたくない。そんな思いが無意識にそうした言葉を紡ぎださせていた。

「ありがとう、きみの手は温かいね」

 アトラウスは頬に添えられた許嫁の指に触れる。それだけでユーリンダはぽうっとしてしまう。こんな時に、いつもにも増して恋人を愛おしく感じ、その疲労の影を濃く滲ませた端正な貌に見とれるのは不謹慎だと自覚はしながらも……。

「アトラ……私、いけないわね……」

「うん? なにが?」

「だって私……メリッサが亡くなったこともとても悲しいけれど、それによってアトラが悲しんでいることも同じくらい悲しい。あなたの為に祈りたいと思ってしまう……駄目ね」

 アトラウスは苦笑し、

「きみはそんなにメリッサを知っていた訳でもないのだから、そんなことに引け目を感じなくてもいいんだよ。きみはとても素直だ。普通の感情だよ」

「そうかしら……でも、正直に言って、殺されるだなんて恐ろしいこと、想像が出来なくて、メリッサのことを本当に理解出来ていないんだわ、きっと」

 そうだろうな、とアトラウスは思う。嫌な話、残酷な話から遠ざかり、温室に閉じこもったようにして育った娘に、あんな惨たらしさが想像できる訳がない。

「きみはそれでいいんだよ。ただひたすらに純粋で優しいこころ……僕はきみのその美しいこころが好きなんだから。現実なんか見る必要はないよ。僕が嫌な現実からきみを護ってあげる。だからきみは僕の事だけを考えていてくれればそれでいいよ」

「私にも嫌なところがあるかも知れないわ」

「その時は僕が直してあげるし、そんなことで僕の愛情が薄らぐことはないから気にすることはない。きみは笑っていて……それが僕にとって一番の救いなんだから」

 こうした甘い囁きに、ユーリンダのこころは軽くなり、少しばかり喜びと安心を感じてしまう。自分は幸せで、悪いこととは無縁なのだと……。そうして、それはルルアのお恵みであり、自分以外の可哀相な人々のために自分が出来る事をしなければならない、それは祈る事なのだ、と感じるのだった。

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