20・嵐の前の静寂
アルフォンスが帰郷し、種子の存在が発覚した日から、数週間が過ぎた。この間、表立って変わった事は何もなかった。アルフォンスは毎日僅かでも時間をとってはラクリマと会って種子の様子を探って貰ったが、特に成長の兆しはないという事だった。
そして、立て続けに起こっていた娘たちの失踪は、ぱったりとなくなってしまっていた。一人だけ、ある富商の娘が外出先から姿を消したというので、父親が知己の騎士団長に自ら、救出をと泣きついてきて騒ぎになったが、これはただの駆け落ちで、娘は翌日に恋人と都を出ようとして門番兵にあっさりと捕まった。
「やはり、父上がおられずに僕が領主代行という事では治安の乱れのもとになるのでしょうか」
とファルシスは自嘲気味に言ったが、アルフォンスは全くそうは思わなかった。もう何度も息子には王都へ出向く際の代理を任せてきたが、かつてこんな事はなかった。別段ファルシスを批判する者もなかったが、事件が収まった事で「さすがルーン公殿下がいらっしゃると安心して過ごせる」と口にする者たちはいた。勿論半分はアルフォンスに対する追従であったが、かれはただ馬鹿馬鹿しいとしか思わなかった。自分がいるから事件は起きないのでなく、自分の隙を突かれて事件が起こった、というだけの話ではないか。『隙』というのは、ただ不在であった事ではない。聖都の魔窟、『異なる界隈』を放置してきてしまった事だ。いくら魔道に関する事は大神殿の管轄とは言えども、領主として、看過してくるべきではなかった。たとえ、父や代々のルーン公の教えに背こうとも。
そもそも、事件は解決した訳ではない。娘たちは戻ってきていないし、犯人も捕まっていない。不在にしていた間に溜まっていた、かれでないと処理出来ない大量の案件に追われながらも、かれは自分自身で真相に近づく為の準備を考え続けていた。
勿論、自身で何度も都警備隊の本部へ出向いて、何か見落としている点はないか、もう一度総浚いして調べ上げたが、特に新しいものは見つからない。秘密裏に大神殿の方でも捜査がなされており、そちらでも何の進展もないというラクリマの話であるから、普通の手段でこれ以上何か手がかりを得るのは、新しい事件もない現状ではやはり無理のようであった。
なるべく誰も危険に巻き込みたくはなかったが、魔道の力を持たないかれが単身で魔窟へ挑むのはあまりにも愚かしい行為としか言いようがない。何しろそこには、種子を埋め込んだ老魔導士や娘たちの失踪に関わった者だけではなく、様々な信仰や主義を持ち、互いに牽制しあういくつもの派閥があると推測されるのだ。老魔導士は恐らく種子がその役割を果たす時が来るまでアルフォンスを殺そうとはしないだろうが、他の者であれば、一言もかれの話など聞かずに抹殺しにかかってくるかも知れない。やはり魔道の守護と逃げ道の確保は必要だった。
ファルシスとアトラウスは絶対に連れてゆく訳にはいかないし、二人には黙って行動するつもりだ。自分に万一の事があれば、いくら荷が重くともあとを託せるのはその年若い二人しかいないのだから。
そこでアルフォンスはまず、自身の右腕である聖炎騎士団長エクリティスに相談した。勿論エクリティスも純粋な騎士であり魔道の能力など持ち合わせてはいないのだが、少年の頃から苦楽を共にしてきた、自分自身と同じくらい信用できる男である。エクリティスは事態の重さに驚き、当然最初はアルフォンスが危険な魔窟へ調査に入る事に猛反対した。
「いけません、アルフォンスさま。如何に腕がたとうとも、禁忌を犯す事も厭わず魔道で攻撃してくるような輩には剣などあっても何の役にも立たないのですよ!」
「もとより剣に頼るつもりはない。ただ、かれらの考えを聞いてみたいだけだ」
「ルルアの定めし秩序を乱し、か弱き婦女子をかどわかすような輩とどんな話が出来ると仰るのですか。この世には、人間と見えてもその内面は全く我々とは異なる者どももいるのです。そういう者はそのように生まれついて育つのです。決して理解しあえる事はありません」
「しかし、その者たちもまた、ルルアのお許しを得てこの世に生を受けた筈だ。それがそのように変節してしまうのには相応の理由があるだろう。別段わたしはかれらに、心を入れ替え敬虔なルルア信徒になれと要求する訳じゃない。長い年月そこにあり、かれらはかれらなりの掟に従って過ごしているのだから、いくら我々の感覚では厭わしいものでも、そう簡単に変えられよう筈もない事くらい承知している。わたしだってそこまでばかではないさ。ただ、今回は向こうから手出しをして来ているんだ。民の生命を、そしてわたしの心身を脅かすような動きをされて、ラクリマひとりに任せっぱなしにしておける筈がないだろう」
エクリティスは微かに溜息をついた。あるじの言う事は正論ではあるが、その行動が実を結ぶ可能性は殆どないと言ってもいいと思うから、そしてそれでもあるじは一旦言い出したらその可能性がどれ程低く、そして危険な行為であってもやると知っているから、である。
「でしたら、私が参ります。アルフォンスさまの代理として」
一応申し出てみたが、
「駄目だ、わたしが自身で行かねば意味はない。それにわたしならば命は取らぬかも知れぬものを、そなたなら容赦なく襲ってくるかも知れん」
と予想通りの返答だった。
あるじの考えは間違ったものではない。そしてこれだけの重大事を、たった一人の女神官に任せて成り行きを傍観している訳にもいかないのも確かだった。いくら彼女の魔道が優れていても、長年にわたって大神殿がどうにも出来なかったものに一人で立ち向かおうなどとは、殆ど無謀と言える事である。ラクリマのアルフォンスに対する篤い忠誠心を知るエクリティスには彼女の気概はよく理解出来るが、焦って先走り、彼女の身が失われる事になってはいけない……彼女がいなくなれば、アルフォンスの側には、かれが絶対に巻き込みたくないと思っている妻娘以外、無条件で力になってくれる魔道の使い手は他にないのだから、とエクリティスは思う。
「解りました……では、お供する事はお許し下さいましょうね?」
「ああ……悪いが、そのつもりで話した。わたしとそなたとラクリマ……三人いれば、もしも危ない事になっても、誰かひとりくらいは生還出来るかも知れない」
「勿論その一人はアルフォンスさまでなくてはなりませんよ。……ラクリマ殿にはもう伝えてあるのですか?」
「いやまだだ……。相手には彼女の事を知られてはいかん。彼女には陰から魔道の守護を頼みたいと思っている」
エクリティスの予想通り、アルフォンス自ら魔窟へ出向く、という案にラクリマは激しく反対した。だが、反対を押し通せる程の成果をまだ彼女はあげられていなかった。彼女曰く、種子が芽吹いた日から、一段と魔窟の結界は強まったということだった。魔力を持たない者にとっては何の変わりもないようなのだが、持つ者には判る。だから大神殿でも警戒を強めていて、許可を得ずに近づくにも骨が折れると言うのだった。
「申し訳ございません、アルフォンスさま……あの界隈に潜入するには、まずは己の中の魔道の気配を絶つ術を習得せねばならず、けれどもこのところ、上からの指示が増えていて……こなさねば行状を調べられてしまいますから、なかなか時間がとれず……。術は何とか使えるようになったのですが」
ラクリマはやつれて目の下にはくまが出来ていた。ろくに睡眠をとっていないのだろう。
「すまないラクリマ、わたしのせいで無理をさせて」
「わたくしの事などどうでもようございます。それよりも……結界の強化以外何事もないことの方がわたくしは怖いのです。水面下で、なにかが動いている……種子もまだ眠りから覚めたばかりでうとうととしているだけで、いつ動き出すかわからない……そんな状況に思えて」
「嵐の前の静けさ、という訳か」
アルフォンスは苦笑した。
「大丈夫……いざとなれば、ただわたしの身を大神殿に委ねればいい。わたしは王国の為ならば、猊下が死ねと仰せならばいつでもその覚悟は出来ている。だから、最悪の事態を回避する道はちゃんとあるのだから」
張り詰めた気を緩めさせようと思い、アルフォンスは言った。王国の未来、民の未来……大いなる変化が来るという予言はきっと悪い事ではないと、そうであるなら自分はどうなろうと構わないと、それがかれの本心であったから。
だが、ラクリマもエクリティスも、その言葉に激しい動揺を見せた。
「アルフォンスさまが失われる事以上の最悪などありません!」
二人はほぼ同時に同じ叫びを口にしていた。アルフォンスに心酔する二人には、アルフォンスの死など耐えがたい事であった。そして、アルフォンスの言う『最悪の事態を回避する道』を選ばねばならぬ日が来ないと言う見通しが殆ど立っていない事を痛感もさせられた。
「わかりました。出来る事は何でもやりましょう。わたくしは命を賭けてお二人を陰からお守りします」
と涙ぐみながらも気丈にラクリマは言った。
「ありがとう……ふたりとも、頼むよ」
口元に微笑を浮かべてラクリマの肩に軽く触れたアルフォンスだったが、その目は笑ってはいなかった。




