19・不器用な嘘
月の光の下、黙って抱き合っていたのはどれ程の時間だったろう。ずっと後になっても、リディアにはわからないままだった。ただ、ファルシスの温もりと吐息と唇の感触……そして狂おしい程の歓喜だけはずっと、どんなに辛い時でも、決して消せない小さな光として、生きるよすがとして彼女のなかにあり続けた。
「リディア……リディア……」
ファルシスは譫言のように何度も名を呼びながら、リディアは胸が詰まって声にもならないまま、ふたりは幾度も唇を貪り合った。いまここで死んでもいい、と思う程にリディアは幸福だった……そして、あの時本当にあのまま死んでしまっていれば良かったのに、と後には思うようにもなるのだが。
「ファルさま……」
抱き締められたまま、リディアは頭を愛しいひとの胸に寄せた。ようやく驚愕と歓喜の大波が引き始め、理性が甦ってくる。するといくつもの疑問が胸に押し寄せてきた。今まで長い間ファルシスは自分に対して何の興味もないように振舞ってきたのに何故いま、というのが一番目の疑問だった。婚約が決まった途端に、とも言える。彼が本気でこんな機会を持とうと思えば、いくらでも時間はあった筈なのに? 二つ目の疑問は、考えたくない事だったが、これは彼にとっては何という事もない冗談で、リディアにとっては最愛の人との初めてのくちづけでも、相手は遊び慣れた美男子、昔なじみの侍女への軽い餞別のようなつもりの戯れでは……と。
(違うわ……ファルさまは、ひとの心を弄んだりはしない)
そう思おうとするが、そう考えれば何もかも辻褄があうような気もして彼女は混乱してきた。
「リディア、嘘じゃないんだ……僕を信じて」
彼女の心を見透かしたようにファルシスは言う。
「でも。なぜ? 若さまには美しい令嬢がたが、たくさん……」
「あんなの、ただの時間潰しみたいなものだ。それに、付き合う前には必ず念を押すよ。『僕には想う相手がいる。きみの本当の恋人にはなれない』ってね。それでもいいという女性たちは、向こうもただの時間潰しか思い出作りのつもりなのか、そうは言っても心を変えさせて次期ルーン公妃の座を、と狙い定めているのか、どっちかだよ」
「…………」
ファルシスは真剣な眼差しでリディアを見つめる。
「彼女らはみんな嘘つきだ……僕の肩書や外見、それしか見ていない。そうと解っていても僕は、満たされない思いを少しでも埋めたくて、形だけの触れ合いを求めた弱い奴なのさ。彼女たちだけじゃなく、周りにいるのは皆、そんな人間ばかりだ。僕が信じられるのは、ほんの一握りの人間だけだ」
「そんな。皆、若さまやルーン家のために……」
いつも凛々しく頼もしく映るファルシスの面には、初めて見るような、昔見たような、儚げな少年の表情があった。思わずリディアは胸をいため、何とか力づけたいと思う。
ファルシスは苦笑し、
「皆がおまえと同じ訳じゃない。おまえは誰かの為に嘘をつく。皆は己の為に嘘をつく……僕だってそうだ」
「若さまが、嘘を?」
「そうだ。おまえの為にと思い、嘘を貫くつもりだった。でも結局このざまだ。おまえを混乱させるだけなのに。あの手紙を見て、こんな男のものになってしまうのかと思うと、僕は自分を抑えられずに、おまえに興味はないという長年かけてつきとおした嘘を白状したのさ。僕はおまえを幸せに出来ない……幸せに出来なくて傷つくのが嫌で……それは僕の我儘だったのに、『おまえの幸せの為に』と自分に嘘をついていた」
「……どういうことですの?」
ファルシスは俯き、腕を離す。
「僕はおまえを正妃にしてやる事が出来ない」
「当たり前ですわ。侍女が公妃さまだなんて」
「世間一般の認識はそうだろう。いくら自由な気風の両親だってさすがに認められないだろう。然るべき姫君を娶って濃い血を残す事は、ルーン公のたったひとりの後継者である僕の、逃れられない重要な務めだ。……じゃあ、おまえを側女に? それは可能だろう。だけど……このアルマヴィラでは王都なんかとは違って側女への風当たりは悪い。僕は、昔聞かされた、祖父上の側女が社交界で陰湿な苛めを受けて自殺したという話が忘れられないんだ。したたかな女なら、どうって事もないのかも知れない。だけどおまえは、なにも知らない純朴な娘だ。そして、僕が爵位を継げば、やはり王都で過ごす日々も多くなり、いつもおまえの側にいて守ってやるという事は出来ないだろう。だから……怖いんだ。それに、おまえを日陰者にしてしまうのも我慢できない。僕の為にそんな苦労をさせるくらいなら、おまえには普通のいい男と結婚して幸せな暮らしをして欲しい……僕は、何年もそういう考えでおまえを愛する気持ちを封じてきた」
訥々と長年秘めてきた真意を語るファルシスの声音は段々と憂いを増してくる。
「ファルさま……」
リディアは涙声になりながら、
「わたくしなんかの事をそんなにまで考えて頂いていたなんて露知らず……」
それから、何を言えばいいのだろう? 突然にそんな事を言われても、どうすれば良いのか判らない。ただ、目の前の愛しいひとが憂い顔でいるのを、なんとか慰めなければ、と訳もわからずに思った。
「若さまは、やっぱり姫さまと同じなんですわ」
「はぁ?!」
思わぬ言葉に眉を吊り上げてファルシスは不快感を露わにする。
「なんで今の話でそういう言葉が出るんだよ。あいつは馬鹿みたいに幸せで、他のみんなも自分と同じように単純に出来ているとしか思ってない。あいつは馬鹿がつくほど正直で善良で……僕なんかとは、大違いだ」
だがリディアはくすりと笑い、
「いいえ。確かに勿論若さまの方がずっと世の中をご存じで、強く賢くあられます。でも根っこのところは同じなんですわ……ひたむきに誰かを愛すると、途端に不器用になってしまわれるんですわ」
ファルシスの身分であれば、気に入った侍女に手をつけるくらい容易い事の筈だ。なのに、相手の幸福を優先し、他の誰かに託そうとする。不器用と言わずして何と言うだろうか。リディアにとっては、ただファルシスの近くにいる事さえ出来れば、どんな立場であろうと構わなかったのに。彼女は元々、この縁談さえなければ、生涯独り身でいるつもりだった。ユーリンダ付きの侍女としてアトラウスとの新居についていけば、もう、ファルシスと同じ館で暮らす事も叶わなくなるけれど、それでも年老いるまでユーリンダの側にいて、たまにファルシスとその妃、子どもたちが幸せそうにしている姿が見られればそれでいいんだと思っていたのに。
「不器用でもなんでも、とにかく僕は臆病者の嘘つきなんだ。どうだ、幻滅したか?」
「いいえ、若さま……若さまはさっき、わたくしの事を『誰かの為に嘘をつく』と仰いました。若さまだって、まったく一緒ではありませんか」
「僕はおまえみたいに自己犠牲の精神で嘘をついてる訳じゃない。現状をどうにも出来ずに嘘で誤魔化してきただけだ」
「自己犠牲なんて思ってませんわ。辛いと思うから辛くなるんです。幸せだと思えば幸せなんです。若さま、若さまはわたくしに嘘じゃなく本当の事を仰って下さった。わたくし、それだけでもう、一生何もいらないくらいに幸せです」
「幸せだと思えば幸せ、か……この、今のひとときに限っては、確かに僕は幸せだ……」
ファルシスの貌に緩やかな笑みが走る。
「とても、おまえらしい言葉だな。ありがとう」
「嘘かも知れませんよ」
「いや、今のおまえは嘘をついてない。今だけでも嘘をつくな、って言ったからな」
そう言ってファルシスは笑う。だが、その後急に表情を引き締め、
「ところで、こんな結婚は止めろよ。借金なら僕が何とかする。おまえにはもっと相応しいやつが……いる筈だ」
愛を確かめ合った後なのに、こんな事を言わなくてはならないのが苦しい、という思いをなるべく押し殺そうとしているのが判る。けれど、リディアは笑った。笑わなくてはいけない、笑えば辛くなくなる筈、辛ければ笑えない筈だから……と思いながら。
「お気持ちだけ。それだけでわたくしは幸せです。一度受け入れた事を止めるなんて出来ないです」
「リディア!」
「結婚したって、若さまと二度と会えない訳じゃないんです。だから、幸せ……」
ファルシスの申し出は有難いが、ここまで進んだ結婚話を、ルーン家から寵愛を受けているから特別な計らいで免れる……などという事は、真っすぐに進んでゆくリディアの気性に合わない。家族にも相手にも迷惑をかけてしまう。例えけちな中年男との縁談がなくなったとしても、相手が他の誰でも、ファルシス以外ならば同じようなもの。もう、決めた事であり、今夜の幸福とは別の話。
「わたくしは今夜、一生分の幸せを頂きました。だからもう、わたくしの事はお気にかけず、素敵なお妃を探して下さいませ。わたくしも、若さまの幸せを祈っております」
絞り出すようにそう言うと、リディアは未練を断つようにその身を翻した。零れ落ちる涙を、見られたくなかったから。
「ちょっと待てよ!」
とファルシスは言ったが、その声は力強くはなかった。リディアは屋内に姿を消した。
ファルシスは柱を拳で殴る。指先から血が滲んだ。
リディアの事は自分自身よりも深く愛している。だが、ルーン家の嗣子としての自分の役割はそれよりも重要……そんな思いが、彼女を追う足を止めたのだった。
同刻。
アルフォンスは、眠っている妻を起こさぬようそっと、寝台を滑り出た。彼女の剥き出しの肩が冷えぬよう、上掛けをかけてやる。最愛の妻を抱いていてさえ、かれの懊悩は晴れることはない。彼女に触れて本当に種子の悪影響を与えてしまわないだろうかという怯えもあり、慎重になっていたが、幸い彼女は何も気づかず、変わった様子もなかった。彼女が気にしていたのは、常にないファルシスの態度のほうだったのだ。『色々あったから』という言葉尻をとられて質問を投げかけられたが、陛下とのちょっとした行き違いをひどく気にしていた、新年の祝賀には例年通りに出るし何も問題はないのに、そしてアトラの侍女の行方不明も気にかけているようだ、と説明したらそれで安心し、
「色々な事が不安になる年ごろなのよね」
と苦笑していた。彼女はアルマヴィラから離れた事もない箱入り娘のまま大人になった身、王都での出来事は彼女にとって、現実味に乏しい話でしかない。夫の話をそのままに受け入れる。
アルフォンスの心も体も疲労の極に達し、ひとときの安らかな眠りを切実に求めているのに、それが得られない。カレリンダはいつもの安眠香を炊いてくれていたが、あの王立図書館の一件以来、高濃度の香に耐えた体はもうそれでは癒されなかった。
アルフォンスは裸身にローブを羽織り、窓辺へ歩み寄る。月でも眺めようかという気持ちだったが、そこで思わぬものを見た。
三階のカレリンダの寝室と、ファルシスとリディアがいた一階のテラスは、離れてはいたが丁度向かい合う位置にあった。アルフォンスには遠い人影がその黄金色の髪からすぐに息子と判ったし、抱き合う黒髪の娘が誰なのかも見当がついた。そのまま見ていると、やがて娘は自分から離れるように屋内へ走り、息子は追わなかった。
アルフォンスは深く溜息をついた。息子の苦悩が、10代の頃の自分と重なるからだ。だが、アルフォンスの場合の恋の障害は『立場』『許嫁』であり、息子の場合は『身分』である。いまの王国では、身分の違いによる戒めはそれが高くなる程に絶対であった。それを変革するのは非常に難しい。民を治める領主の義務として、私情を堪え王家の覚えを良くしなければならない。公妃が侍女上がりでは次代のルーン家にとっては大変な負になろう。だから……息子の恋愛を応援してやる訳にはいかなかったのだった。




