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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
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18・秘めた想い

 この夜のリディアは元々当直ではなかったので、次の間には別の侍女が控えていた。

 ルーン家の使用人は皆、能力と人格を認められた者ばかりなので、リディアがユーリンダの特別なお気に入りだからといってリディアを妬んで疎んじるような者はいない。中の話は途切れ途切れに聞こえていたらしく、リディアの結婚事情を知っている彼女は苦笑して「あなたも大変ね」と言ってくれた。皆はユーリンダの性格の本当に善良なところを敬愛してはいるのだが、時として彼女に話を合わせるのは少しばかり気力を要する事も熟知していたのだ。

 だがユーリンダの全てを深く愛しているリディアは、「別にちっとも大変じゃないわ、エルザ」と返し、おやすみの挨拶をして廊下に出た。大変だなんて認めたくなかったのだ。


 足音を立てないように階下に降りる。夜も更けていたので館中は静まり返っていた。晩餐を中座した女主人を慌てて追った為に、なんの片付けもせずに出て来てしまったダイニングへ行ってみたが、もちろん既に他の侍女たちによって綺麗に後片付けがされて明かりも消えていた。ふうと一つ溜息をついて、自室に戻ろうとした彼女は、無意識にエプロンのポケットに手をやり、そこに入れていた筈のものがない事に気づく。

 それは、昼に届いた家族からの手紙で、結婚に際しての持参金や支度品などの内訳の知らせだった。『領主の姫君のお気に入りの侍女』の結婚の為に相応しいというか、豪華過ぎるというか微妙な線の品々……それは主に、結婚相手からの希望のものだった。借金のかたに『好意で裕福な紳士に娶って貰える』リディアとその家族にとっては、用意するのが困難な高価なものも含まれているが、ここで相手の機嫌を損ねて破談にでもなれば、実家の商売は立ち行かなくなる。そこで結局、それらを揃える為にリディアの両親はまた、娘婿になる男から借金をせねばならないのだった。将来の妻の実家からも、可能な限り金をむしり取る、それがリディアの『愛しあう旦那さま』だった。

『成り上がる為には何でも出来る事をやるよう努力するのを怠ってはいかんよ、リディア嬢。それが我が家の家訓だから、覚えておきたまえ』

 初顔合わせの時に言われた言葉がそれだった。彼の『努力』がここまで品位の欠片もないものだとは、さすがにその時のリディアには想像できないものだったが……。

 とにかく、手紙を失くしたのは不都合だし、人に見られても恥ずかしい。恐らく落としたのは、慌ててユーリンダを追った時だろう。消灯されているので、窓からの月明りだけを頼りにリディアは屈んで目を凝らしてテーブルの下などを探した。だが見つからない。塵ひとつなく綺麗に片づけられたダイニングでそんな落し物が見落とされている筈もない事くらい、本当は最初から想像する事は易かったのだが。廊下かも知れないが、ユーリンダの部屋からここまでの間には何もなかったと思う。つまり、どちらにしても、既に誰かに拾われてしまったのだろう。

 侍女長か執事が預かっているかも知れない。恥ずかしいが、明日尋ねてみるしかない。リディアは溜息をついて廊下に出た。


 そのまま奥へ下がって休もうと思ったが、何故だか気が高ぶってすぐに寝付けそうになかった。明朝も早起きしなければならないのに……。

(少し、外の空気を吸えば……)

 そう思って、彼女は一階の廊下から直接庭園へ続くテラスへと足を向けた。

(?)

 近付くと、ふわりと冷たい夜気が微かに漂ってくる。まさか不用心にも、テラスへの扉を閉め忘れているのだろうか? しんとした暗い廊下にひとり、よもや誰かが忍び込む筈もあるまいが、初めて少し怖いと感じる。

(いえ、もしかしたら誰かが逢引きしているのかも……)

 使用人同士でいくつかの噂がある事は彼女も知っている。邪魔をしないように引き返すべきか……しかし万一扉の閉め忘れであるならば、きちんと施錠しなければならない。誰かがいるとしても気づかれないよう、忍び足でリディアはテラスへ近づいた。確かに扉は開いており、冷えた夜風がすうと流れ込んで来ている。人の気配はない。

(やっぱり閉め忘れ? なんて事かしら)

 そう思いながら扉の傍に来た彼女は、もう外気も吸った事だし、やはり戸締りしてこのまま休もうと思い、扉を閉めようとした。

 その時。

「おいおい、僕を閉め出すつもりかい? 風邪をひいてしまうよ」

 突然、誰もいないと思った扉のすぐ傍から男の声がしたので、彼女は飛び上がる程に驚いた。

「だっ……」

 誰、という言葉が出かかったが、飲み込んだ。聞き間違える筈もない声。

「……まあ、おどかさないで下さいまし、若さま」

 テラスに立っていたのはファルシスだった。彼は苦笑して、

「ごめんよ、気配を断っていて。そんなに驚くとは思わなかったのさ。おまえは子どもの頃、いつも、ふざけてもおどかし甲斐のない、冷静な女の子だったからさ」

 と謝った。

「そ……そうでしたかしら。よくそんな昔の事を覚えてらっしゃいますね」

「覚えているさ」

 そう呟いたファルシスの黄金色の髪と、何故か憂いを帯びた瞳は涼やかな月光に嬲られるかのように美しく輝き、最初見とれたリディアは次に視線をおとし、それからまた顔を上げた。

 見ていても苦しくなるだけ……私はあの男に嫁ぐのだから……そう思いながらも、この偶然の邂逅をしっかりと胸に留めていたい、という誘惑に打ち勝てなかったのだ。リディアは少女の頃からずっと、この美しい公子に身分違いの恋心を秘めていた。結婚するまでも、してからも、もう傍で話す事もないかも知れないと諦めていたのに、思いもかけず、二人きりでここにいる。膨らむ幸福感が、束の間、嫌な結婚の事を心から追い出していく。

「ど、どうなされましたの、こんな時刻に」

 子どもの頃はよく一緒に遊んだが、長じてからはあまり接点がない。顔は合わせても、ユーリンダ付きの侍女である彼女から声をかける事は出来ないし、彼の方から声がかかる事もなかったからだ。リディアはなるべく、それを寂しいと思うまいとした。いつまでも子どものように侍女なんかと戯れていられる筈もない。このかたは、立派な次期ルーン公となられるおかたなのだから……その姿を垣間見られるだけでも充分に幸せなのだから、と。

「眠れなかったのさ……嫌なことばかりで、しかもそれに苛立っていたからって、ユーリンダに八つ当たりして父上や母上に失礼をしてしまった。本当に苦しいのは父上のほうなのに、笑っておられた……僕はまだまだとても、父上のようにはなれそうにない」

「苦しい? 殿さまが?」

「ああ、いや、それはおまえには関係ない。八つ当たりったって、別に僕は間違った事は言ってないしな? あれからあいつも泣いて部屋に帰ったんだって? あいつのお守りも大変だろ?」

「まあ、ちっとも大変じゃありません! わたくしが出過ぎたのが全てのもとだったのです。若さまに不快な思いをさせてしまったのは、姫さまじゃなくてわたくしですわ!」

 さっき当直の侍女に言われたのと同じ事を言われて、リディアは思わず女主人を庇う。どこまでが本心なのかは、自分でも解らなかったのだが。

「はは、おまえはやっぱり変わらないな……いつも自分を下げて誰かを庇って」

 ファルシスは俯き気味に笑った。少しばかり酔っているようにも見えた。

「そんな……立派なものではございません」

 と返したリディアだが、次の瞬間、ファルシスが懐から出してきたものを見て息を呑んだ。先ほど探していた手紙が、ファルシスの手にあった。彼女の婚約者がいかに金に汚く、彼女が売られるように嫁に行くと知らしめるような手紙。まさかファルシスに拾われていたなんて。

「おまえの落し物だろう?」

「は、はい……」

 自分のものだと知られているからには、中を読まれてしまったのだろう。幸福感が一気に冷めていく気がした。ファルシスはきっと呆れただろうと思って。自分にも、自分の家族にも。

 だがファルシスの目に蔑みや呆れはなく、相変わらずただ憂いばかりが漂っているように見える。彼は暫く黙って自分の手の中の手紙を眺めていた。

「あの……若さま?」

 沈黙に耐えかねて恐る恐るリディアが声をかけると、ファルシスはその手紙を何故かぐしゃっと握りつぶした。

「これが……こんなのが、おまえの婚約者なのか。おまえは、これでいいのか?」

「いいも何も……いえ、こんなわたくしを娶ってやろうと言ってくれるのですから、いいひとだと思っていますわ……」

 辛うじてリディアは俯きながらそう返答した。それ以外に言いようがないではないか。自ら望んで結婚するのだと言い張る事が、彼女の自尊心でもあった。

「こいつに惚れてるのか?」

「それは……まだあまり会っていないので解りませんが、一緒に暮らしていけば愛情も湧いてくるものだと……」

 何故ファルシスはこんな事を聞いてくるのだろう。彼にはなんの関係もない事なのに。

「……うそだろ。おまえ、嘘をついてるだろう。おまえはいつも、誰かの為に自分を殺して自分に嘘をついてる」

「嘘じゃございません! どうして若さまにそんな事がお解りになるんです?」

 嘘じゃない、嘘じゃない。きっとあの男にもいい所はある筈だ。そこだけを見ていれば愛情も湧くかも知れない。そう自分に言い聞かせているのに、どうして否定されないといけないのだろう? それも、よりにもよってファルシスから。

「僕はいつだっておまえを見てた。だから解る。おまえは気づかなかっただろうけど!」

「わたくしを……? なぜ若さまが?」

 リディアはファルシスの言葉に動揺する。誰にも知られないように一生胸に秘めている筈の想いを、まさか気づかれていたのだろうか? そして分不相応なやつと怒っていたのだろうか?

 だが……。

「これ以上言わないと解らないのかよ?!」

 ファルシスは手紙を乱暴に床に投げつける。怒気を孕んだ言葉にリディアは思わず身を固くする。そんなリディアをファルシスは抱きすくめた。

「こんな男にやる為に僕は我慢してたんじゃない! ただ、おまえが幸せになれればそれでいいと……!」

「わ……若さま?」

「ああもう! こんな事……言ってもおまえを困らせるだけなのに!」

 黄金色の髪が頬にかかる。ファルシスの体温が、抱き締めた腕の力が体中に伝わってくる。

「わ……若さま……酔ってらっしゃるんですか?」

 そうでないなら、これは夢なんだろうとリディアは思う。ファルシスの言葉の意味を考えるのが怖い。もし、大それた事を期待して、全然違う意味だったら?

「酔ってはいる。でも、自分の言ってる事がわからない程じゃない……」

「…………」

「おまえが、おまえだけが好きなんだ。リディア。もう何年も前から……おまえだけが」

「若さま……そんな。どうして私なんか?」

 お戯れを、若さまにはお似合いの令嬢がたがいくらでも……そう、言いかけた。けれど、ファルシスの唇がその言葉を消した。強引な、だけど、優しい、リディアにとっては初めての口づけ。

(ああ……)

 この瞬間が永遠に続けばいい、と思ったのは束の間なのかもっと長かったのか。唇を離したファルシスは、

「おまえは僕を好きなんだろう、リディア。そうだろう」

「そんな……そんなだいそれた……」

「嘘をつくな、今だけでも、嘘をつくな。誰かの為に哀しい嘘をつくなよ。僕を好きだと、愛していると、言ってくれよ、リディア……」

 真摯な黄金色のひとみは、それでもまだ尚、憂いと迷いを残してはいたが、その目に見つめられると、リディアはもう自分を偽れないと感じた。

「あ……ファルさま……」

 堪えていた涙が堰を切ったように溢れた。意識もせずに、恋を感じ始めた頃に止めた、子どもの頃の呼称を口にしていた。

「お慕いしています……もうずっと……私も、ファルさまだけを……愛しています……」

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