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炎獄の娘  作者: 青峰輝楽
第四部・聖都篇
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17・侍女と姫君-2

「ねえ、リディア……」

 急にユーリンダは布団を目の下まで引き上げて表情を隠しながら話しかけてくる。その美しい黄金色の瞳には、恋する乙女の喜びと不安が同時に宿っていた。

「はい、姫さま」

「アトラは、そのう……私のどんなところを好いてくれているのかしら? どう思う?」

 夜も更け、館の人々の殆どは寝静まり、暗い寝室に小さなランプの灯りだけ、そして傍には最も心許せる侍女だけ……こんな状況なら、普段は口に出来ないような悩みや秘密も話せそう……ユーリンダはそんな気分になっているようだった。

「それは勿論、姫さまのすべてでございましょう。地上の誰よりも美しく誰よりも心清らかな姫君でいらっしゃいますもの。そんなお方が自分に好意を持っておられると気づけば、どんな殿方でも陥落してしまいますよ」

「美しいと皆は言ってはくれるけれど、自分ではよく解らないわ。醜いとは思わないけれど……。そのう、男のひとには、女性の好みというものがあるでしょう? 私の姿が本当にアトラの好みなのか、少し自信がないの……」

「まぁっ、姫さまの美しさがお解りにならない程アトラウスさまの目が曇ってらっしゃるとはとても思えませんわ!」

 何を言い出すのやらとリディアは驚いた。絶世の美姫とまで賛美される娘がそんな事で悩むなんて知れたら、世の女性たちの妬心の的になるだろう。

「だって、痩せた女性が好みのひとや、そのう、豊満……な女性が好きなひともいるでしょう。たとえば、あのローゼッタ嬢なんて、私の三倍くらい……」

 胸が大きい、と言いかけて、さすがにはしたないと思ったようで言葉を止めたが、リディアには言わずとも伝わった。ローゼッタ・ドース伯爵令嬢はアルマヴィラの社交界でも有名な存在だった。美女として、豊満な肢体で男性を惹きつける恋多き女性として、そしてファルシスの最初の恋人として。奥手で一途なユーリンダとは対極的な女性で殆ど交流はないのだが。

「……姫さま。わたくしごときが申し上げるのも失礼ですが、アトラウスさまが選ばれたのは姫さまであって、ローゼッタさまではありません。ローゼッタさまは姫さまより三つもお年上であられるのに、ご結婚のお話もないではないですか。あんな、はすっぱなお方は、お遊びのお相手としてはよくても、真面目な男の方には真剣に取り合われないのですわ!」

「まあ、リディアがひとの悪口を言うなんて珍しいわね」

 勢いに目を丸くしたユーリンダの言葉にリディアははっとして、

「申し訳ありません……」

 と出過ぎた発言を詫びた。

「別に謝ることはないわよ。私もあのひとは苦手だわ。あのひとと噂がたってから、ファルは変わってしまったような」

「……」

「ありがとう。そうよね、アトラは私を愛してくれているのよね。リディアの旦那さまがリディアを愛してるように」

「……」

 心が折れそうな女主人の悪意のない発言に、リディアは黙って耐えた。リディアの婚約者は、アトラウスがユーリンダを想う百分の一だってリディアの事を愛してなんかいない、と思っている。一度しか会っていない中年の、ルーン家お墨付きの長年立派に侍女仕えをした若い娘に跡取りを産ませたいだけの……。

「姫さま、一体なぜ、アトラウスさまが姫さまに不満をお持ちだなどと考えつかれたのですか? 傍から見ていてあり得ないように思いますが」

 鉄の忠誠心でリディアは私情を抑え込み、自分から見れば恵まれ過ぎた娘の能天気に思われる悩みを解きほぐしにかかった。誰がどう見たってアトラウスはユーリンダを生涯唯一の愛する女性と思っているようにしか映らないのに。

 するとユーリンダは、更に布団に顔を隠しながら

「リディアは…………た事あるの?」

「え?」

 あまりに小声で聞き取れない。話を始めたからには後には引けないし、なかなかこんな話をする機会もない、と思い定めたらしいユーリンダは、思い切ったようにはっきりと、

「リディアは好きな人とくちづけした事あるの?」

 と問うた。

 思いもしなかった言葉にリディアは数瞬ぽかんとしたが、すぐに堰を切ったように笑い出した。

「まああ! 姫さまもそんな事をお考えになるんですねえ!」

「ちょ、ちょっと、笑わなくてもいいじゃない! いやだ、今のはもうなしよ! もう、聞かなかった事にしてちょうだい!」

 ユーリンダは真っ赤になって、起き上がり、羽根枕でぽふぽふと侍女を叩いた。しかしそれでもリディアは笑い止めずにはいられなかった……笑う事で、胸の奥底に無理やり沈めた澱みを払ってしまえると思いたくて。

「姫さま、いったいどうしてそんな事を?」

 リディアの問いに、ユーリンダは赤くなったまま動きを止めて、

「だって……物語でも噂話でも、好き合った男女はそうするって……。私、以前は、そういう事は結婚してからだと思っていたのだけど、どうにもそうでもないみたいだから……」

 俯いてユーリンダはもやもやを吐き出した。『男女が結婚してする事』について、そのうち乳母や母親から教わるのだろうけれども、今の時点では、ユーリンダの知識はどうやら少女向けの物語の域を出ないらしい。『王子さまがお姫さまを抱き寄せてくちづけをし、二人はお互いに永遠の愛情で結ばれている事を感じました。そして二人は結婚し、末永く幸せに暮らしました』……。

 リディアは小さく溜息をついた。子どもの頃から侍女として仕えてきた彼女は恋人を持ったことなどない。幾度か館の男衆から……一度は騎士見習いからも求愛された事はあったが、全て彼女はその場で断ってきた。彼女の想い人はただひとり、何年も想い続けて来たひと、そして決して結ばれないひと……。

(くちびるや身体を夫に捧げても、私の心だけは私のもの、そしてそれは生涯、あの方だけに捧げたもの……)

 昏い思いが過ったが、彼女はすぐにそれを振り払う。悲しい顔を女主人に見せて心配をかけてはいけない。笑顔で、

「私と婚約者はまだそういう事はありません。そんなに何度も会ってはいませんから」

「そう……そうよね、一度会っただけでも恋に落ちる事だってあるものね」

「はい」

 ユーリンダの夢物語に付き合って、そういう事にしてある。有名な話、バロック家のティラールだってそうだったという。あの、太った赤ら顔のがめつい中年男に、一目で恋に落ちる物好きが果たしてこの世に存在するのだろうか、と思いながらも。

「でも、私とアトラはしょっちゅう逢っているわ。二人で庭園を散歩したり、お部屋で二人きりで音楽を奏でたり」

「そうですね。ご婚約前にもそれはなさっていたと思いますが」

「ええ、でもそれは、親しい幼馴染、いとことしてのお付き合いだったわ。だから勿論、その……くっついて座ったりとかいう事はなかったわ」

「それで、今はいかがなんです?」

「そうね……あの、座る距離は縮まったわ。時には……あの、その、て……手をつないだり」

 たったそれだけの事を言うのにもユーリンダは顔を赤らめてしまう。リディアは何となく先が読めたが、黙って続きを待っていた。

「だけど、そのう、くちづ……いえ、手をつなぐ以上の事は何も以前と変わらなくて。アトラは、その、私とそういう……事をしたいと思わないのかしら、って……それは、本当はアトラは、私の気持ちを嬉しいと思ってくれているだけで、女性としての魅力はあまり感じていないのではないのかと……」

 こんな悩みは、母親にだって打ち明けられないし、奥手な彼女が持ちかけられる程の貴族の親友という存在もない。彼女はいつもアルマヴィラの社交界で輪の中心ではあったが、皆が彼女の美しさに圧倒され、無邪気さにそれとなく引いてしまう所があるので、常に上に行く事を、目当ての男性を射止める事をばかり考える貴族の令嬢の取り巻きのなかに、ユーリンダが本当に心を割って話せる相手はじつはいなかったのだ。

 こんなに恵まれた姫君が、こんな哀れな侍女に贅沢な悩みを打ち明ける。こんな事って世間ではよくあるのだろうか、とリディアは思ったが、だからといって女主人を妬んだりその無神経さを厭うたりする気はまったくない。むしろ自分にだけこんな事を言ってくれるのが嬉しくもあった。彼女から言葉にするには思い上がりと言われるだろうが、彼女もまた、ユーリンダが『姉妹』と言ってくれるのと同様に、まさに愛おしい妹のように女主人を見守ってきたのだから。

「姫さま、姫さまに女性としての魅力がないなんて思う男性がいるとしたら、相当おかしな感覚の持ち主だと思います。世の中は広いですから、そういう人間が存在しないとは言い切れませんけど、アトラウスさまはごく当たり前の感覚をお持ちと見えます。アトラウスさまは多分、結婚まで、その姫さまの純粋なところを壊してはいけないと、遠慮なさっているのでは、と思います。だいたい、そういう事を簡単にするのは、相手を軽く見ている、という場合だってありますから。アトラウスさまは、ただ姫さまを大事にして下さっているだけですよ。大丈夫、何も心配なさる事はありません。お二人を何年間もお傍で見て来たこのリディアの言う事を信じて下さいませ」

 ……実は、言う程にはリディアに確信がある訳ではなかった。アトラウスは時に、彼女にとって不可解なひとであったから。けれども、とにかく彼が許嫁の女性的魅力に不満を持って距離を置いているとは考えられなかった。だったら、不安は一笑に伏してしまえばいい。どのみち、二人はとても幸福なめおとになるのだから。

「そ、そうなのかしら? リディアがそう言ってくれると、なんだか元気が出るわ」

 と単純な女主人は言った。

「そうですとも。姫さまには、これから夢のように幸せな日々が……今よりももっと幸せな、新婚の日々が、待っているんですよ」

「そう、そうよね。リディア、あなたにも」

「……ええ、そうです。人生は長いんですから。やがては可愛い赤ちゃんに恵まれて……」

「そうよね。最初の子どもは、男の子と女の子とどちらがいいかしら?」

「どちらでも。たくさん、お産み下さいませ。そのお世話をさせて頂くのを楽しみにしておりますよ」

「そうね。そうだわ、私たち、同じ頃に結婚するんですもの、同じ頃に赤ちゃんが生まれたら、リディア、乳母になってあなたの赤ちゃんと私の赤ちゃんを一緒にお世話してくれない? 素敵だわ、私の赤ちゃんとリディアの赤ちゃんが乳兄弟に……」

 新たな思いつきに、ユーリンダはうっとりとその幸せな未来に気持ちを乗せたようだった。暫くも待たずに、ユーリンダはことりと眠りに落ちた。もう、何の悩みもなく、唇の端に笑みを浮かべ、約束された筈の幸せな未来の夢を見ているのだろう。リディアは苦笑して立ち上がり、姫君の上掛けをそっと整えて、椅子を片付けて次の間に下がる。

 そんなに都合よく、同じ頃に子どもが出来るかしら……。でも、あんな男の子どもでも、自分の腹を痛めた子どもなら愛せるに違いない。その時リディアが自嘲気味に考えた事はそれくらいで、このあと運命がふたりの道を複雑に絡めて変えて……想像も出来ない間柄になるとは、どれほど彼女が賢者だったとしても、決して分かりようのない事であっただろう。


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