15・家族の晩餐-2
間違いなく、その場にいた者のなかで最も泣きたい気持ちだったのは侍女のリディアであったろう。だが気丈な彼女は、あるじたちの前で私情で涙を見せるなどあってはならないとの自らへの戒めから、必死に哀しみを押し殺し、アルフォンスに向かって、
「わたくしのせいで……場が……申し訳ございません……若様にもご不快なことで、なんとお詫びしたら……。身の程も弁えず、姫様のご寵愛を得ているからと、自分でも気づかずにきっといい気になっていたのかも知れません」
と言ってふかぶかと頭を下げた。下げたはずみに黒い瞳にたまった涙が床に落ち、顔を上げた時に髪を直すしぐさに紛れて睫毛についた涙の粒を払ったので、何とか涙を見せずに済んだ。だが勿論アルフォンスは気づいていた。そして、
「何も謝る必要はないよ。それだけそなたがユーリンダの信頼を得ている、という話なんだから。それにファルも……そなたは悪くないと言っていただろう? ただファルはちょっと疲れているだけなんだ。今日はいろいろあったから……そなたは何も気にする必要はない」
と優しい声をかけた。
いろいろとはなにか、とカレリンダは訝しげに尋ねかけた。何しろ、両親の前で息子があんな態度をとるのはほとんど初めての事だったので、彼女は侍女のことより余程息子の心の状態のほうが気になっていた。
だが、それを遮った者がいた。
「いろいろ、ってなに? どうして私がファルにあんなこと言われなければならないの?」
ユーリンダがこみ上げてきたものを吐き出すように大きな声で言い放ったのだ。彼女の黄金色の双眸からは既に大粒の涙があふれ出しており、それを拭おうともしなかった。
「私はリディアのためを思って提案しただけなのに! 私だって、リディアと本当の姉妹になれない事くらい判っているわよ。なのに、ペンダントを貸そうと言っただけで、なぜ、わきまえろなんて怒鳴られなきゃならないの? 大切なものを惜しんではいけない、って聖典のなかでルルアは仰っているわ。リディアがルーン家の娘じゃないからって、大切なものを貸してはいけないなんて、そっちの方がおかしいじゃない!」
早口で――彼女にしては珍しく――まくしたてると、ユーリンダはわっと泣き崩れた。
「姫さま、姫さま、どうかお泣きにならないで下さいませ……姫さまはちっとも悪くありませんとも。悪いのはリディアでございます」
泣きたいのは自分であった筈なのに、心から愛おしんでいる女主人が悲しんでいる様子を見るとリディアの胸は痛む。彼女はユーリンダの無邪気さ、善意、優しさを心から敬愛していた。高貴な身分でありながら、アトラと結婚したいという以外には何の欲もなく、無私のこころを持ち、誰もが幸せである事ばかりを夢見ている。それは人によっては、恵まれた人間の傲慢、とも思えたかも知れないが、幼い頃から寄り添って暮らしたリディアは、ユーリンダの人格が傲慢とはかけ離れたものであると痛い程解っている。強く触れれば壊れそうなくらい幼いままの心、悪意や強欲とは無縁な魂……その美しさを、彼女の本質に触れ得る程近しい人々は皆わかっている。
アトラウスとの婚約騒動の時、「ルーン公殿下はユーリンダ姫に甘すぎるのではないか」とひそかに陰口を叩く者がいた。王妃候補の件に続いて、宰相の息子との縁談まで断ったのは、アルマヴィラにとって不利益しかないではないか、と。遠くから見てじれったい程の無欲を邪推や批判する気持ちはわからなくもないが、恐らく、殿下は娘があまりに純粋であるが故に、それを壊したくなくてここまで、絹のおくるみでくるんだ赤子に接するようなまま来てしまい、今は本当に、望まぬ結婚を強制すれば娘は硝子のように儚く壊れてしまうだろうとご存知だからだ、とリディアは解釈していた。普通の娘ならば、いつかはおとなの女性として自立しなければならないのだから、もっと世間を見せるべきだったろう。けれどユーリンダはルーン公の一人娘で次期聖炎の神子。自分で自分を守らなくても、代わりに守ってくれる者はいくらでもいるのだから……。
ユーリンダがいつまでも変わらず、優しく美しいだけの世界を夢見ていれば、それは本当に存在するかのように感じられる。その感覚をリディアは愛していた。既に様々な諦めや辛さや悲しみを知っているからこそ、女主人にはせめていつまでも変わらず輝いていて欲しい……それを守るのがルルアに課せられた自分の務めであり、それが自分の幸せでもあると思っていた。
「リディアは悪くないわ。私も悪くないわ。悪いのはファルよ。自分でもそう言っていたじゃない」
涙を拭いながら可愛らしく口を尖らせてユーリンダは言った。
「ユーリィ……」
アルフォンスは思わず溜息をついた。先ほどまでのゆったりした気分は吹き飛んでしまった。周りの使用人たちも皆固唾をのんでいる。
「ファルの言った事も尤もだよ。きみは浮かれすぎているようだね」
「え……」
いつも優しい父の思わぬ言葉に、ユーリンダは驚きを隠せず、その瞳からは再び涙が零れた。
「お父さままで私がいけないって仰るの? さっき、リディアを姉妹のように思ってかまわない、って仰ったじゃない!」
「思うのと行動するのは別な事だ。あれは特別な品で、侍女が身に着けて人前に出ていいものじゃない」
リディアをわざわざ貶める事もないと、ぼかした言い方をしたのがいけなかった、とアルフォンスは反省する。この娘には、何でもはっきり言葉にしないと伝わらない……。
「別にそんな事決まってないわ」
「身に過ぎたものを持ち、人に見せる事は時に災いを招く。わたしはリディアの事も考えて言っているんだ。幸いこの館には特段侍女同士で妬みや嫉みの争い事はないと聞くが、外部の人間が聞けばどう思われるかわからない。実家に戻っている時に、彼女がきみの特別の気に入りだと知った悪しき者が賊となって害を及ぼしたらどうするね?」
「そんな……そんな、ルルアに守られた私の侍女に悪いことが起こる訳ないわ」
「ルルアはひとを見守り慈しんで下さるが、人の子の運命を曲げる事はない……と解っているだろう?」
本当にルルアの加護さえあれば何も悪い事が起こらないのならば、『最もルルアに愛されしルーン公』と言われる自分が今陥っている苦境はなんなのだ、とアルフォンスは苦々しく思う。もちろんかれは敬虔なルルア信徒であるが、神を信じていれば苦しみなどない、とは思っていない。先ほどファルシスは、「これはルルアの与えられた試練できっとうまく乗り越えられる」と言ったが、それさえもアルフォンスは自己欺瞞だと薄々思っている。確かにルルアに与えられた試練なのかも知れないが、これまでいくら善行を積んできたからと言って、乗り越えられる可能性は厳しい。大いなる神は、全てのひとを慈しむが、善なる者に苦に満ちた生の終焉を用意する事もあるのだと、アルフォンスはこれまで何度も目の当たりにしてきた。勿論、善なる者は、今生ではなく死後に、ルルアでの国で永遠の安らぎを得られるに決まってはいるが……人の世に生きている限り、何が起こるかわかりはしない。そんな事くらい、次期聖炎の神子たるユーリンダが解らなくてどうするのだ、と苛立たしくさえ感じた。
だが、ユーリンダは、
「あのペンダントは私のものですもの! どうしたって、私の勝手でしょう?」
とまで言い出した。
「ユーリンダ! お父さまに向かってなんという物言いなのです?! それに、もともとお父さまとわたくしが贈ったものではないですか。あなたの一存でどうにかしていい物ではありません。とにかくお父さまにお謝りなさい!」
遂にカレリンダも口を出す。
「私はリディアの為を思って……なのにどうして怒られるの? 何も悪い事なんかしてないわ!」
「ユーリィ! わからないの!」
だが母の叱責も効果なく、ユーリンダは泣きながら席を立った。
「姫さま、姫さま、申し訳ございません!」
おろおろするリディアに、
「いいのよ、何も悪くないんだから!」
と言い、
「私、疲れてしまいました。失礼致しますわ」
と両親に不満げに視線を投げて、ユーリンダも兄の後を追うかのようにダイニングを出て行ってしまった。リディアは一礼して、慌てて女主人を追う。
和やかな筈の晩餐は台無しになってしまった。
「申し訳ありません、あなた……あの娘には明日、よく言い聞かせておきますわ」
カレリンダの言葉に、アルフォンスは無理に口角を上げて、
「ちょっと甘やかし過ぎたかね?」
と冗談めかして言ったが、もしも自分の身が危うくなったら、娘はちゃんと立ち回れるのだろうかという心配が増えたばかりだった。自分が、ファルシスが、アトラウスが守ってやれば、あの子は何も汚れた事を知る必要はなく、芸術品のように美しい心を生涯持ち続けて幸せに生きるだろうと思っていた……だが、それは間違いだったのだろうかと、この時初めてかれは気づいた。それは、かれのような聡明な人間にしては致命的に遅すぎた、としか言いようがなかったのだが。
「いろいろ、ってなんですの?」
とカレリンダはファルシスについての事を蒸し返してきた。
「……アルマヴィラの治安について、事件について話し合ったから、気が高ぶっていたのかもしれない」
アルフォンスは曖昧な答えを返した。
「それくらいで……?」
「もう休もう。寝所にワインを運んでもらおうか」
そう言ってアルフォンスは会話を打ち切り、立ち上がった。まだデザートは残っていたが、これ以上の話は今夜は勘弁して欲しい、という気分だった。




