3話 「記憶がないのは」
“弱ったな。”
困りきった表情で、宏和は頭をかいた。
毎日話しかけて顔を見せていた効果か、食事をとった効果か?警戒心の解けてきたルリは、少しづつだが重い口を開く。宏和の質問にも、ポツリポツリと答えた。
だが、1つの答えを聞くたびに宏和の表情が困惑していく。理由は、ルリが自分自身の事をまったく答えられないからだ。
“本当に、記憶を無くしてるのか・・・。”
最初はかなり怯えていたし、溺れたショックで一時的に自分のことがわからなくなっているだけだと思っていた。だから落ち着けば、身元もわかるだろうし、親に連絡もとってやれる。
・・・そう思っていたのだ。
だが、宏和の予想は大いに外れる事となった。
“忘れた振り・・・には見えないしな。”
ふとルリを見ると、不安そうに(宏和にはそう見えた)見上げてきている。
“自分がだれか分からないなんて、不安だろうな。まだ子供なのに可愛そうに・・・”
<記憶喪失>
ドラマや小説の中では使い古されたネタだが、実際に<そうなってしまった人間>を前にすると、どうしたらいいものか宏和は迷っていた。
医者にみせるべきか・・・?
怪我をしているわけでも、体が病気なわけでもない。それに医者にかかるなら掛るで、別の問題もあった。かなりの遠出が必要なのだ。
どこのモノ好きが建てたのか?と言われても仕方のない場所に、この別荘はある。宏和は誰にも会いたくない時、心を落ち着かせたい時に利用していた。
ここに来れば、誰にも会うことなく自分だけの時間を過ごせる。
何も考えず、わずらわしい事を忘れられる・・・
“どうした・・の・・・?”
急に黙り込んだ宏和を、ルリは所在なげに見ていた。
さっきまでは、あんなに勢いよく動いていた口が、今は難しそうに引き結ばれている。
“怖い顔・・・してる・・・私が何も答えられないから。”
ルリは俯いて、グッと唇をかんだ。
“仕方ないもん、本当に知らないんだから。私はこの人間とは違う・・・どう言っていいかわからないし、説明なんて出来ないもの・・・”
悲しいのか腹が立つのか?それすらも分からない。ただ、どうしていいか分からなくて、不安で苦しかった。
ジワァ・・・
鼻が痛くなって視界が滲む。
「ルリ?」
滲んだ涙に気づいて。宏和は慌てて表情を和らげた。
「大丈夫、心配しなくていいから。」
出来るだけ優しい声音で言って、こぼれそうな涙を拭きとってやる。
「きっと、記憶は戻る。俺も協力するし、自分の事がわかるまでは此処に居ればいいから。」
安心させるように微笑んで、宏和はつづける。
「見た感じでは、ルリはまだ14~15ぐらいだし、親も捜索願いを出してると思う。それに記憶喪失も一時的なもので、少しづつ落ち着いてきたらきっと思い出せる。俺も協力するから。な?だから安心しろって。」
言いながら、宏和は大きな手でルリの額にふれ、柔らかい前髪を梳かした。
その手の動きに視線をとられていたルリは、すぐにまた下を向く。
宏和の言葉に頷く事はできなかった。
記憶は絶対に戻らない。
そして両親が見つかっても、自分には知らない相手だ。
「もう、戻れないもの・・・きっと・・・」
元の自分には。
言葉は、しゃくりあげた自分の嗚咽に遮られた。ポロポロと透明な滴が、大きな瞳からこぼれていく。
ルリの言葉の本当の意味を、宏和はわからない。ただ泣いている姿が、あまりに辛そうで、悲しそうで胸が痛んだ。
「ルリ・・・」
自然と宏和は、目の前の小さな体を抱きしめていた。ルリはされるがままに、腕の中で泣き続けている。
助けてやりたい。本気で宏和はそう思った。
「大丈夫、俺がいるから。絶対に、助けてやる。だから泣かないでいい。大丈夫だから。」
同じ言葉を、何度も繰り返す。少しでもルリを安心させたくて、言い聞かせるように。
宏和の(助ける)は、ルリを本当の意味で助ける事はできない。それでも、何度目かの言葉に小さく頷いて、ルリは大きな胸にすがりついた。