2話 「初めての食事」
目を覚ますと、まだ夢の続きを見ていた。また夢の中だと、思いたかった。
何度も瞼を閉じて、そして開いてみても見慣れたはずの水底の景色はなくて、無機質に広い四角い箱の中に身を置いている。この夢は覚めることがないのかもしれない。
覚めるわけがないのに・・・
だって、これは現実だから。
夢に違いないと、頭の中で何度繰り返しても、実際に自分の身に起こっている事を、いつまでも誤魔化すことは出来なかった。
“これから、どうしたらいいの・・・”
大きなため息を一つ。もう、何度目かもわからない。
「またそんな顔して、駄目だろう。」
突然、声が掛けられた。
「・・・・・」
上目遣いに視線を向けると、お盆を手に持った人間の姿が、彼女の目に入った。のせられた器からは、暖かそうな湯気が上がっている。
彼女が二度目に目を覚ました時に、側にいた人間。初めて言葉を交わした相手。湖で倒れていた自分を、この箱の中(部屋)に連れてきたのだと言っていた。
狩野 宏和という名前らしい。
「気持ちはわかるけど、いつまでも沈んでいても仕方がないだろ?命が助かったんだから、ラッキーだったと思わないとな。」
ことさら明るく言って宏和は彼女の頭に手を延ばし、クシャクシャと動かした。微笑むと目が線みたいに細くなるのを、ぼんやりと眺める。
「起き上がれるようになってよかったな、ルリ。」
彼女は答えずに俯いた。
『ルリ』と言うのは、勝手に彼が彼女につけた名前。
この体の持主は、何も所持品がなく名前も何もわからなかった。当然彼女に聞いたとしても、応えられる筈もなく。何故なら彼女自身に名前なんて存在しないのだから。
名前を聞かれて、「知らない。」と答えた彼女に、宏和は少し悩んだ後、窓の外を指さした。
『今な、庭に(るりまつり)って花が満開なんだ。青くて小さい可愛い花をつけてる。』
彼女の位置からだと、窓の外には空しか見えない。意味が分からず、ぼんやり指の先を眺めていると、彼は言葉を続けた。
『名前がないのは不便だから、わかるまで(ルリ)と呼んでいいかな?』
るりまつりの花から取ってルリ。
よくわからないまま、彼女は頷く。
宏和がそう名付けた時から、名もない魚であった筈の彼女は(ルリ)と呼ばれようになった。
「今日は食べられそうか?」
そういって、宏和はベッドの横にある小さな丸テーブルに、持っていたお盆を下ろした。椅子を引き寄せて、自分はそこに腰掛ける。
「いい加減、腹も減っただろ?ここに来てから、まだ水しか口にしてないからな。」
小さな入れ物に何かを取り分けながら、宏和はルリに優しく話しかけた。
意識が戻って、自分が人間になっている事に気づいてから、ルリは4回の月を窓の外に眺めた。その間ずっとこの部屋から出られずにいる。
最初『るり』は『宏和』が怖かった。
何もかもが怖くて、起き上がる事も出来なくて、ベッドの上で、じっと息を殺していた。
そんなルリに宏和は何度も話しかけてきた。
その度に、暖かそうな湯気を出す器を運び込み、湯気がなくなった頃に運び出すといった事を繰り返していた。
一度も口をつけられずに下げられる食事。
見たこともない物を、見知らぬ人間に進められて、ルリはどうしても食べる気になれなかった。
それでも宏和は怒るでもなく諦めるでもなく、のんびりとした口調と笑顔で、食事を用意してルリに進めた。
一度、喉の渇きに耐え切れず、宏和の手から受け取ったグラスで水を飲んだ。夢中で喉を鳴らすルリを見て、嬉しそうに微笑む表情に、ルリの心が少し落ち着いた。
飲み終わったグラスを受け取ると、宏和はその大きな手でルリの頭をクシャリと優しく撫でた。
触れた手がとても暖かくて、その瞬間から、ルリは宏和を怖いと感じなくなった。
少しずつ気持ちも安定して、今は部屋の中を歩き回れる程度には落ち着いていた。
「何も入ってないお粥なら大丈夫だろ?米が嫌いだって言われると、どうしようもないけど。」
目の前に差し出されたお椀を、ルリはじっと見つめる。
どうやらこの中に入っている(白い物)が(お粥)とかいう物らしい。米が嫌いかどうかは・・・初めて見るのだからルリには答えようがなかった。
「熱いから気をつけろよ。」
火傷しないようにタオルで押さえて、宏和はルリの手にお椀を持たせる。どうしようかと、ルリは戸惑った視線を宏和に向けた。
「ん、どうした。食べたくないのか?無理にでも口に入れないと、元気になれないだろ。」
なっ?っと微笑まれて、ルリは手元に視線を戻す。
正直、お腹は空いていた。空腹で倒れそうな程だ。けれど、宏和に対する恐怖心がなくなっても、見知らぬ食べ物に対しては、まだ警戒してしまう。
もう一度、チラリと宏和を見る。さっきと同じ笑顔で、ルリを見ていた。
“・・・・。”
何も食べられなければ、いずれ死んでしまうのだから、怖がっていても仕方がない。
宏和の笑顔に後押しされるように、ルリは覚悟を決めた。
“ちょっとだけ・・・”
ほんの少しだけお粥をすくって、恐る恐る口元に持っていく。躊躇して手を止め、ルリはギュッと目を閉じて口の中に放り込んだ。
モゴモゴ・・・
口を何度か動かすと、小さく喉を鳴らして飲み込む。
「・・・・・。」
一口、また一口。
食べだすとルリの手は止まらない。あっという間に空になったお椀を、宏和が満足そうに受け取った。
そして、
「よしよし、偉いぞ。」
小さい子供を褒めるように、ルリの頭を軽くポンポンと叩いた。
「美味かったか?」
宏和にたずねられて、ルリは小さく何度も頷いた。
お腹が空いていたこともあって、本当に美味しく感じられたのだ。今まで食べずに警戒していたのを、かなり後悔してしまう。
“人間の食べ物って美味しい。何だかよく判らなかったけど。”
口に味が残っているのか、モゴモゴと動かしていると、目の前に水が差し出された。それを受け取って、ルリは一気に飲み干す。
「よかった。」
ホッと横で息を吐いた宏和に、ルリは小首を傾げて、相手を見上げた。
「ん?・・・ああ。やっと食事を取ってくれたからな、安心したんだよ。」
本気で喜んでいるらしい様子に、どう反応していいかわからない。さっと下を向いてしまったルリに、宏和はクスリと笑みを浮かべた。
「俺の名前、言ってごらん。」
「え・・・。」
俯いたルリを覗き込んで、宏和が突然に言う。
「えっと・・・」
「ひ・ろ・か・ず。宏和だよ。」
戸惑うルリを促して、宏和は続けた。
「ほら。」
「ひ・・・ろかず。」
躊躇いがちに文字をなどる。
呟くように言われたそれに頷くと、
「よしっ。よろしくなルリ。」
宏和は、満面の笑顔を私に向けた。